2017年3月27日月曜日

クムランの知恵文学と第二正典の知恵文学 Kampen, "Wisdom in Deuterocanonical and Cognate Literatures"

  • John Kampen, "Wisdom in Deuterocanonical and Cognate Literatures," in Canonicity, Setting, Wisdom in the Deuterocanonicals: Papers of the Jubilee Meeting of the International Conference on the Deuterocanonical Books, ed. Geza G. Xaravits, Jozsef Zsengeller, and Xaver Szabo (Deuterocanonical and Cognate Literature Studies 22; Berlin: De Gruyter, 2014), pp. 89-119.
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本論文は、第二神殿時代の知恵文学の伝統の発展を示すことを目的とする。そのために、第二正典における知恵文学とクムランからの知恵文学とを比較する。第二正典の知恵文学の例としては、パレスチナのユダヤ伝統に属する『ベン・シラ』を用いる。『ソロモンの知恵』やフィロンの著作を用いないのは、アレクサンドリアで表わされたこれらの文書は、パレスチナの伝統と大きく様相を異にするからである。

知恵、トーラー、啓示。『ベン・シラ』は「知恵」を「トーラー」と同一視している。ここでの「トーラー」には、ラビ文学や新約聖書に見られるような「法規」の意味はなく、「生きるための正しい方法」というほどの意味になっている。同書の16:24-17:23によると、三つのトーラーがあり、第一に、被造物のためのトーラー、第二に、人間に与えられたトーラー、そして第三に、イスラエルに与えられたトーラーである。これは聖書的な啓示を意味しているので、『ベン・シラ』の「トーラー」は法的というよりは啓示的・金言的であると言える。

一方で、『4Q教育』(と『4Q謎の書』)には、「トーラー」という言葉すら出てこない。これはエノク的文学の特徴と一致するものである。エノク的文学は、悪の起源、正義と義のメッセージ、創造全体の本質、そして人間性などを、「トーラー」に言及することなく扱う。またエノク的文学では、「知恵」は啓示の主題を指している。すなわち「知恵」の内容とは、創造の秩序の起源、本質、そして運命である。言い換えれば、エノク的文学において「啓示」は「トーラー」に基づかないのである。

しかしながら、エノク的文学における「知恵」はただ義人にのみ理解される一方で、『4Q教育』の「知恵」は、「存在の謎(ラズ・ニヒイェ)」を学ぶ者(=メビン)によって理解される。「存在の謎」とは、人間性への基本的な真理を神が打ち立てるときに用いる道具として、過去・現在・未来で構成されている。このメビンは、「霊の人(people of spirit)」として永遠の天使的な状態へと入ることができるが、「肉の霊(spirit of flesh)」と共にある者たちは、それを可能にする知識を得ることができない。それゆえに、メビンたちの間にあることが存在の謎の理解を発展させるために必要なのである。

著者の社会的な位置に関しては、『ベン・シラ』と『第一エノク書』は共通して、「書記(scribe)」である。というのも、両者は祭司制に関心を持つ共同体を反映したテクストだからである。文書の作者たちは、当時の神殿や祭司制について批判的であった。

金持ちと貧困者。さらに、金持ちと貧困者に対する態度においても、これらの文書は異なっている。『ベン・シラ』は貧困が問題とされている時代の文書であるため、貧困者たちの扱いに正義を求める責任感に言及している。しかし、現実的な貧困者は出てこない。『第一エノク書』は金持ちに対して批判的であり、悪と不正義と同一視している。すなわち、『第一エノク書』において、金持ちの反対は貧困者ではなく、義人なのである。さらに、ダニエル書はイザヤ者のしもべの歌の文脈で悪人と賢者とを対比させている。賢者を扱う点で、ダニエル書もまた『ベン・シラ』と同様に、書記の共同体のような教育のあるエリートの価値観を反映していると言える。

一方で、『4Q教育』は貧困者に向けて書かれている。貧乏でも、存在の謎を学び、義へと歩むことで、神は栄光を与え、貧困から頭を上げてくれる、というのである。聖書や初期の非聖書文学において、これほど直接的に貧困にある人間に向かって書かれた文書はない。そうした貧しさを、『4Q教育』はמחסורという言葉で表わしている。この「貧困者としての受け手に向けられている」という点が、『4Q教育』を、『ベン・シラ』、『第一エノク書』、そしてダニエル書から切り離している。

宗派性。『4Q教育』の宗派性を調べるためには、特徴的な用語を調べるのが有効である。ホフマーという語は、クムラン文書には比較的少なく、宗派的テクストに限ってはより少ない。ダアットとセヘルという語は、クムランの宗派的テクストに特に多い語である。さらに、エメットという語は、クムラン文書に極めて多く見られ、特に宗派的テクストに多い。『4Q教育』にもエメットという語が多いため、Devorah Dimantは同書を宗派的テクストだと考えている(ヘブライ語聖書の知恵文学には少ない)。論文著者は、そこまでは明言しないが、『4Q教育』がクムランの宗派的な作者たちに大きな影響を与えていたと述べている。

こうしたことから、ヘブライ語聖書と同根の知恵文学の伝統において、極めて異なった発展が、すでに前2世紀の段階で見られると言うことができる。

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2017年3月26日日曜日

4Q教育について Goff, 4QInstruction

  • Matthew J. Goff, 4QInstruction (Atlanta: Society of Biblical Literature, 2013), pp. 1-29.
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『4Q教育』は、クムランで発見された最も長い知恵文学である。425以上の断片があるが、重要なのは15ほどである。こうした断片は、おそらく7から8つの写本に由来すると考えられている。『4Q教育』には物語などはなく、教訓的な教えがゆるやかに集められている。宗派的な用語への無関心から見て、作者も、想定される読者も、おそらくクムラン共同体の者たちではない。一方で、読者たちは何らかの別の宗派だったとも考えられる。成立は、黙示的な要素が含まれていることから見て、前2世紀と考えられる。

重要なキーワードとして、רז נהיה(the mystery that is to be)は「教えの受け手に明らかにされた超自然的な啓示」を、מבין(understanding one)は「教えの受け手である学び手」を、אוטは「受け手に入手可能な素材(?)」を、המשיל(to give dominion)は「神がメビンに栄光の遺産を遺すこと」を、חפץ(desire)は「受け手が物質を求めること」を、מחסור(lack)は「受け手が物質を得ることができないこと」を、מולד(birth time)は「ある者が生まれたときのしるし」を、פקודה(visitation)は「終末の裁き」を表わしている。

スタイルとしては、二人称単数で受け手であるメビニームに語り掛けている。この二人称単数は修辞的な工夫として、相手に対してより人間的に語り掛けている印象を与える役割を持っている。他にも、パラレリズムや独特の接続詞の用法などが『4Q教育』のスタイル的特徴として挙げられる。

ジャンルは教訓的文学であり、特定のトピックに関する教育を与えつつ、読者が知識を学び得たいと思うようにしている。扱う内容は日常的なことから思索的なことまであり、箴言、ヨブ記、コヘレト書、『ベン・シラ』、『ソロモンの知恵』などとの類似が見られる。教えの受け手がメビンと呼ばれていることから、誰か学び考えている者に対して語り掛けていることが分かる。箴言と『4Q教育』とが、似たようなイメージを用いて金銭に関わる教えを説いていることから、後者の著者は箴言を読んでいたと思われる。

啓示、終末、決定論。『4Q教育』で重要な用語はラズ・ニヒイェである。これはヘブライ語聖書には出てこず、それ以外のユダヤ文学では『4Q謎の書』に二回と『共同体の規則』に一回出てくるのみである。この用語は終末論的な裁きと関連しており、それまでに学ばれなければならないことや、受け手が知恵を獲得するための方法を意味する。ラズという語はダニエル書や『第一エノク書』などといった黙示文学でしばしば用いられており、天に由来する知識を表わし、それに二ヒイェがつくことで、明らかにされた謎が過去・現在・未来までのすべての時間に関わっていることを表わしている。

メビン。『ベン・シラ』が知識層を相手にしているのに対し、『4Q教育』が語り掛けるメビンは、借金の方法などが扱われている点から見て、農夫や職人のような貧しい者たちである。それゆえに、『4Q教育』は宴会でのエチケットや権力者の前でのスピーチなどについては語らない。ただしこのときの「貧しさ」とは、経済的な貧しさのみならず、倫理的な貧しさをも意味することがある。教えを受けたメビンたちは、天使たちの住む天的な世界へと入り得る資格を得る。その時点でメビンは肉体のある霊ではなくなる。メビンが天使的な力を持つことで、第一に、なぜ天的な啓示が彼に示されたかが分かり、第二に、祝福された死後の世界を持つ可能性を得る。創1-3のエデンの園の逸話に従い、『4Q教育』は、メビンがラズ・ニヒイェの学びを通して善悪の知識、すなわちアダムが園においてもともと持っていた知識を得ることができると説明する。

黙示的な世界観を持った知恵文学。『4Q教育』に見られる終末論や死後の世界といった黙示的な世界観は、箴言のような知恵文学とは遠いものである(『ベン・シラ』や『ソロモンの知恵』にはある程度の黙示的要素が見られる)。『4Q教育』においては、知恵文学的伝統と黙示文学的伝統がはっきりと繋げられているのである。しかも、他の古い知恵文学は、神とその創造を理解するために、理性的な考察を超える方法を用いようとするが、『4Q教育』はラズ・ニヒイェを学ぶことで世界を理解すべきだと主張する。とはいえ、『4Q教育』を初期ユダヤ知恵文学から外れたものと捉えるのではなく、そのジャンルがいかに広い幅を持っていたかということを考えるべきである。この伝統はマタイ福音書やルカ福音書にも通ずる。

神殿巻物について Crawford, "The Temple Scroll"

  • Sidnie White Crawford, "Ch. 5: The Temple Scroll," in idem, Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2008), 84-104.
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『神殿巻物』の写本としては、11QTemple-a, 11QTemple-b, 11QTemple-c?, 4QRouleau du Temple, 4Q365aなどがある。このうち11QTemple-aは、クムラン洞窟で発見された文書の中で最も長い巻物である。

カテゴリー。『神殿巻物』は、そのもととなる聖書テクストと同じ権威を持つものとして自らを位置づけている。そういう点では、『ヨベル書』と同じように、偽典のカテゴリーに入れることができる。ただし、『神殿巻物』は『ヨベル書』よりも大胆なことに、神がシナイ山の上のモーセに直接一人称で語っている体で書かれている。それゆえに、もとの聖書テクストで三人称で書かれているところが、『神殿巻物』では一人称になる。

『ヨベル書』と同じように、『神殿巻物』は、別物と言うに十分なほど五書の基礎テクストからかけ離れている。また両者は共にシナイ山におけるモーセへの啓示の間のことと設定されている。一方で、『神殿巻物』は『ヨベル書』と異なり、物語部分が一切なく、全体が律法の書になっている。すなわち、再説聖書を拡張された聖書物語だと定義したG. Vermesの定義を、『神殿巻物』は広げることになった。

『神殿巻物』の作者/編者は、混合(conflation)、調和(harmonization)、修正(modification)、付加(addition)といったテクニックを用いて、この新しい律法書に五書以外の伝承を加えた。ただし、『神殿巻物』はすでに存在しているトーラーに取って代わるものではなく、その横に寄り添いつつ補完するものと見なされていた。

権威の有無。『神殿巻物』が共同体において権威ある文書と見なされていたかどうかははっきりとは分からない。ある文書が権威を持っていたことは、第一に、自らを権威あるものとして語っていること、第二に、他の宗派的テクストの中で権威あるものとして引用・暗示されていること、そして第三に、複数の写本が写されていることなどによって証明されるが、『神殿巻物』に関してはこのうち第一の基準しか満たしていない。そこで、『神殿巻物』は権威ある書物だった可能性があるとしか言えないのである。

成立年代。見つかっている写本の中で、4QRouleau du Templeが前150-前125年のものだとすると、『神殿巻物』の原型はクムラン共同体の成立以前に存在したことになる。つまり、『第一エノク書』、『ヨベル書』、『アラム語レビ文書』などと同様に、『神殿巻物』も祭司的・レビ的サークルによって第二神殿時代に書かれ、クムラン共同体によって保存されていたと考えられる。保存といっても、4QRT以降しばらく共同体は『神殿巻物』に関心を示さず、おそらくヘロデ王による神殿再建やパリサイ派の台頭などといった同時代の出来事を受けて、同書を再評価し、11QTemple-a(前25年-後25年)と-b(後20-50年)を作成したと考えられる。

資料と内容。『神殿巻物』は合成テクストだと考えられる。Andrew WilsonとLawrence Willsは5つのソースを想定し、Michael Wiseは4つのソースを想定している。著者は4つのソース――神殿資料(3-13, 30-47欄)、祭暦(13-30欄)、清浄規定集成(48-51欄)、申命記的パラフレーズ(51-66欄)――に序文を加えた5セクションを想定している。『神殿巻物』は出34における、モーセがシナイ山の上で二つ目の契約を受け取るところから始まる。その理由は、第一に、同箇所で神がモーセに一人称で語っているからであり、第二に、二つ目の契約から始めることで、それ以降のすべての律法が永遠に有効になるからである。さらにここには申7:25-26もまた織り込まれている。このように、文書作者は、混合、調和、修正、付加といったテクニックを活用している。

神殿資料。この部分では、巨大な神殿の見取り図が示される。これは、幕屋(出25-27)、ソロモン神殿(王上6)、そしてエゼキエル神殿(エゼ40-48)を基にしている。その後、神殿にある中庭の描写に移る。ここで『神殿巻物』は、通常であれば二つあると説明される中庭が三つある(祭司とレビ人のみ入る内庭、二十歳以上のイスラエル人が入る中庭、イスラエル人の女性、子供、改宗者が入る外庭)と述べている。非イスラエル人のための庭はない。

祭暦。この部分では、神殿祭儀とさまざまな祭礼について説明されている。その基本テクストである民28-29とレビ23とに、作者は二つの発明を加えている。第一に、祭司の任命のための祭りと、第二に、初物の収穫祭(大麦、小麦、葡萄酒、油)である。こうした祭りを加えることにより、作者はレビ記の暦と民数記の暦とを調和させている。『神殿巻物』の暦は、『第一エノク書』、『ヨベル書』、『律法儀礼遵守論(4QMMT)』などと同じ364日の太陽暦である。

清浄規定。この部分について、Andrew WilsonとLawrence Willsは別の資料であると指摘したが、Michael Wiseは作者がいくつかの清浄規定を引いてきて、神殿資料の間に入れたのだと説明した。ここで文書作者はmaximalistのアプローチを取り、既存の清浄規定を極めて広い範囲に当てはめて解釈している。たとえば、出18:14-15で「女性のそばによってはならない」とされていることを、妻と性交して射精した者は三日間神殿の町へと入ってはならない(45:11-12欄)と拡大解釈している。同様の解釈は『ダマスコ文書』(12:1-2)にも見られる。これは、4QMMTを含む、祭司的・レビ的な解釈伝統の特徴である。

申命記的パラフレーズ。Lawrence Schiffmanによると、この部分で申命記が基本テクストとして機能しているが、文書作者は五書の他の文書や他の聖書文書からの素材を織り込んで、自らの神学的目的に合うような申命記の解釈を作り出したという。作者は単純に申命記を引用したり、他の五書テクストと調和させたり、解釈を付け加えたり、さらに法的資料を付け加えたりしている。ただし、作者が用いた申命記が現在のマソラー本文と同じものだとは言えないことには注意すべきである。またここでのパラフレーズは、『神殿巻物』が申命記に取って代わることを意図しているのではなく、それに寄り添い、同程度の権威を持って、シナイ山におけるモーセへの神の顕現を示すことを意図している。

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2017年3月25日土曜日

クムラン・ヘブライ語の特徴 Reymond, Qumran Hebrew

  • Eric D. Reymond, Qumran Hebrew: An Overview or Orthography, Phonology, and Morphology (Atlanta: Society of Biblical Literature, 2014).
Qumran Hebrew: An Overview of Orthography, Phonology, and Morphology (Society of Biblical Literature Resourses for Biblical Study)Qumran Hebrew: An Overview of Orthography, Phonology, and Morphology (Society of Biblical Literature Resourses for Biblical Study)
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クムランで発見された写本群のヘブライ語に関しては、これまで代表的なものとして、Elisha Qimron, Hebrew of the Dead Sea Scrolls (1986)と、E.Y. Kutscher, The Language and Linguistic Background of the Complete Isaiah Scroll (1974)などが挙げられるが、本書はこれらを批判的に乗り越えようとした一冊である。ここでは、General Remarks (pp. 13-21)とConclusions (pp. 225-34)をまとめておく。

死海文書のヘブライ語は、マソラー本文に見られる標準聖書ヘブライ語、後期聖書ヘブライ語、ミシュナー・ヘブライ語、サマリア・ヘブライ語、そしてバビロニア伝統のヘブライ語などとの関係がある。むろん一方では、クムラン・ヘブライ語にしか見られないような特徴もある。

自然言語か人工言語か。研究者たちは、クムラン・ヘブライ語の特徴をさまざまに描こうとしている。Kutcher, Qimron, Shelomo Moragらによれば、クムラン・ヘブライ語は、文書の著者たちの自然言語(日常の意思疎通のために自然と発展した言語)だとされている。同様のアプローチで、Joshua Blauは、クムラン・ヘブライ語を後期聖書ヘブライ語に基づいた文学的イディオムだと説明した。一方で、Chaim Rabinをはじめ、William M. Schniedewind, Gary A. Rendsburg, James H. Charlesworthらは、クムラン・ヘブライ語は人工的かつ擬古的な言語と見なされるべきだと考えた。すなわち、彼らはクムラン・ヘブライ語は文書を書いた者たちの話し言葉ではなく、anti-languageだと見なしているのである。

話し言葉か書き言葉か。クムラン・ヘブライ語に見られる特異な正書法の中に、ある研究者たちは話し言葉と書き言葉の併存、すなわちダイグロシアを見る場合もあるが、Jacobus A. Naudeは、こうした二極化は単純すぎる説明であり、言語的なバリエーションにはさまざまな要因が影響すると反論した。

アラム語の影響か。クムラン・ヘブライ語に見られるいくつかの特徴をもとに、ある研究者たちは、文書の著者たちがアラム語の知識を持っていたこと指摘しようとする。ただし、同じことは、アラム語とヘブライ語との間でそもそも共有されている、通常の言語的発展の結果からも説明することができる。

こうした問題点を意識した上で、Joshua Blauによれば、クムラン・ヘブライ語は、人工的な聖書ヘブライ語の最終段階を反映しており、同時にアラム語やミシュナー・ヘブライ語といった話し言葉の影響にも曝されているのだという。

本書の著者は、クムラン・ヘブライ語における、自然言語の部分と人工言語の部分の併存、文書の著者の話し言葉の影響、アラム語化の傾向、擬古文的な傾向、標準聖書ヘブライ語の正書法の模倣と、それからの逸脱、写字生の正書法の異なった伝統などを認めつつも、いくつかの独自の見解を披露している。

まず、明らかに写字生の誤りと思われる箇所が多数あるので、ある一か所に独特の表現が出てきているからといって、それを基にしてクムラン・ヘブライ語の文法の特徴を一般化することは不適切であるという。

次に、1QIsaa, IQS, 4Q107などといった例外を除いて、アラム語の影響はわずかだという指摘である。むろんまったくないわけではないが、それはおそらく文書作者や写字生がバイリンガルだったことに起因するものであり、死海文書全体に普及しているわけではない。

そして、マソラー本文との親和性である。著者によれば、クムラン・ヘブライ語は、後期聖書ヘブライ語やマソラー本文のヘブライ語と共通の遺産を引き継いでおり、頻繁に見られる類似した特徴からは、クムラン・ヘブライ語とマソラー本文のそれとの通時的な発展が予想される。

2017年3月20日月曜日

セルウィウスの「ヒストリア」理解 Dietz, Historia in the Commentry of Servius

  • David B. Dietz, "Historia in the Commentary of Servius," Transactions of the American Philological Association 125 (1995), pp. 61-97.

本論文は、ウェルギリウスの注解者であるセルウィウスが用いる「ヒストリア」という言葉がさまざまな意味を持っていること、そしてそれらが古代の文学的・歴史的理論および実践を反映していることを明らかにしたものである。

セルウィウスの校訂版テクストには、古いが完成しているThilo-Hagen版と、新しいが未完成のHarvard版がある。またそもそもそのテクスト自体に、短い版と長い版(Servius Danielisと呼ばれる)とがある。研究者たちは、長い版は短い版のソースではなく、共通の資料の発展の結果だと考えている。またある研究者たちは、長い版のソースは存在しないアエリウス・ドナトゥスの注解だと考えているが、最近では疑問視されている。

ヒストリアに関連して、クインティリアヌス(およびキケローと『ヘレンニウスへの修辞』)は、fabulaとargumentumをも加えて三区分としている。
  • ヒストリア:事実(factual)かつ現実的(realistic)な過去の出来事の語り。
  • ファーブラ:非事実(non-factual)かつ非現実的(unrealistic)な語り。悲劇や詩歌に適している。
  • アルグメントゥム:非事実(non-factual)だが現実的(realistic)な語り。喜劇に適している。
これに対し、セルウィウス(『アエネーイス注解』1.235)は、上の定義を次のように改変している:
知らなければならないのは、ファーブラとアルグメントゥムの間、すなわちヒストリアが次のように異なっていることである。ファーブラとは、それが事実であろうとなかろうと、自然に反して(contra naturam)言われていることを指している。ちょうどパシファエについてのように。一方で、ヒストリアとは、それが事実であろうとなかろうと、自然に即して(secundum naturam)言われている何らかのことを指している。ちょうどファイドラについてのように。
セルウィウスによれば、アルグメントゥムがヒストリアに吸収されることで、議論がヒストリアとファーブラとの二区分に収斂するという。セルウィウスによるアルグメントゥムの用法は、クインティリアヌスと異なり喜劇のような劇作上の文脈がなくなり、多くの場合は「証明」や「推論」といった蓋然性(probability)を表わす修辞的・論理的な文脈と関係している。そしてこの「蓋然性(λόγος/ratio)」という要素こそが、セルウィウスにとって、ヒストリアにはあるがファーブラにはないものの一つだった。また、ヒストリアにしかないもうひとつの要素が「自然さ(φύσις/natura)」である。つまり、ヒストリアが自然である(secundum naturam)のに対し、ファーブラは自然でない(contra naturam)のである。

つまり、セルウィウスによる区分は次のようになる:
  • ファーブラ:不自然(unnatural)かつ非現実的(unrealistic)な語り。
  • ヒストリア:自然(natural)かつ現実的(realistic)な語り。
いわばヒストリアについて、クインティリアヌスは基本的に現実に起こった過去の出来事(res gesta/factum)のことだと考えているのに対し、セルウィウスはそれをある程度受け継ぎつつ、さらに独自の見解として、実際に起こった事実であるかどうかに関わらず、第一に「あり得そうな/現実的な(argumentum)」、そして第二に「自然な/物理的な(secundum naturam)」語りだと考えている。つまり、セルウィウスにとってヒストリアは、事実性を問題とする現代的な意味での「歴史」ではない。また、ヘロドトスらに見られるような「自然に関する批判的な研究」という意味でもない。

セルウィウスは、ヒストリアを実際に起こった出来事に限定していないので、あり得ないような神話的な出来事(ファーブラ)でも、それがあり得るように合理化されればヒストリアと見なすことを許容している。こうした標準化の手法(normalizing methodology)は、古代の歴史学や詩歌の常套手段でもあった。それゆえに、たとえば作中に神からの干渉が見られる場合、それは拒絶されるか、エウヘメリズム的に解釈することであり得なさを減らされた。すなわち、神話的な物語は寓意的解釈の結果として、究極的には自然界にあるものを意味していると見なされたのである(nature allegory)。

現代的な意味での客観的・歴史学的な基準でなく、ある出来事があり得るかどうか(argumentum)、そして自然であるかどうか(natura)、さらには時系列や物語が一貫しているかどうかを基準にしているので、セルウィウスの注解は歴史的知識を欠いている。なぜなら、彼はそれが実際の出来事であるかどうかという歴史的な関心ではなく、文学的な関心のみを持っていたからである。

ある物語が現実的であるかどうかや自然であるかどうかではなく、時系列や物語が一貫しているかどうかをもとにヒストリアを語るときには、ファーブラの代わりに「叙事詩(heroicum)」が比較の対象となるときがある。すなわち、ヒストリアが実際の出来事であるかどうかにかかわらず「真実(veritas)」を語るときには、詩歌が「虚偽(fictus)」を代表するのである。

ちなみに、より遠く離れた歴史的事実を書いた文書(annales)を語るときには、同時代の歴史的事実を書いた文書としてヒストリアという語を使うときもある。ヒストリアはこの文脈においては、自分で見ることができることを書いたものを指すのである。

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2017年3月13日月曜日

小高訳オリゲネス『諸原理について』第4巻抜粋

  • 小高毅訳『オリゲネス:「諸原理について」』(キリスト教古典叢書9)創文社、1978年。
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オリゲネス『諸原理について』第4巻における聖書解釈に関する記述を抜粋しておく。

4.1.7 (pp. 283-84)
我々の弱い理解力が個々の言葉の下に秘められ、隠されている意味を見きわめ得ないからといって、聖書がその全体にわたって霊感によるものであるのを否認してはならない。なぜなら、〔聖書の〕粗末な言葉という器のうちい神的知恵の宝が隠されているからである。……実際、我々の書物〔聖書〕が、修辞学の手法とか哲学的明敏さをもって記述されることで人々を信ずべく誘引したのであったなら、疑いもなく、我々の信仰は、神の力に基づかず、言葉の巧妙さ及び人間的知恵に基づくものとみなされるだろう。

4.2.4 (p. 289)
各自がその魂のうちに聖書の理解を三回記すべきなのである。それは、まず単純な人々が、いわば聖書のからだそのもの――聖書の普通の歴史的意味を、ここで聖書のからだと呼んでいる――によって教化されるためであり、次にある程度進歩し始め、より一層深く洞察しうる人々が聖書の魂そのものによって教化されるためであり、ついに完全な人々、使徒〔パウロ〕が「しかし我々は完全な人々の間では知恵を語る。この知恵は、この世のものではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ我々が語るのは、隠された秘儀としての神の知恵である。それは神が、我々の受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれあものである」と言っているような人々が、「来るべき良いことの陰影をやどす」霊的律法によって、いわば霊によって教化されるためである。したがって、人間が身体と魂と霊によって構成されていると言われるように、人間の救いのために神の賜物として与えられた聖書も〔同様に構成されているのである〕。

4.2.5 (p. 290)
しかしながら、聖書のある箇所においては、「からだ」と言った〔意味〕、すなわち適切な歴史的な意味が存在しない場合があるのを知っておかねばならない。……そのような箇所には、先に聖書の「魂」及び「霊」と呼んだ意味のみが求められるべきである。

4.2.9 (pp. 294-95)
神の知恵は、不可能なことや辻褄の合わないことに関する話を途中に挿入して、文字通りの理解の上で、妨げあるいは中断ともなるものを〔聖書に〕挿入した。それは、叙述の中断が、障害物のように、読者の行く手をさえぎるためである。この障害物は、通俗的な理解の道を進むのをはばみ、〔この道を進むのを〕拒絶され引き返すのを余儀なくされた我々を、別の道の入り口に呼びもどし、こうして狭い小径の入り口を潜り抜け、一層高度な卓抜した道を通って神的知識の測り難い広がりへと導くためである。

4.2.9 (p. 295)
聖霊は、歴史上起こったある出来事が霊的意味を伝えるのに適しているのを見たときに、常により深い秘められた意味を隠しつつ、両者〔つまり歴史的意味と霊的意味〕を一つの叙述の中に含ませた。しかし歴史上の出来事の記述が霊的〔意味〕の一貫性に適合し得ない場合には、時として聖霊は、実際に起こらなかったこと、つまりあるいは全く起こり得ない出来事、あるいは起こりうるが実際には起こらなかったこと出来事の話をも聖書に挿入した。時としては、文字通りの意味では真理として認められ得ないと思われる若干の表現を挿入し、またある時には、そのような表現を数多く挿入した。……聖霊がこれらすべてのことを挿入したのは、我々が、一見真実でも有益でもあり得ないと思われることから、繰り返し、入念に、徹底的に、より深い真理を見きわめるべく導かれ、神からの霊感によって書かれたものと信じられている聖書のうちに、神にふさわしい意味を探究するよう刺激されるためである。

4.3.4 (pp. 299-300)
しかしながら、聖書の記述のあるものは実際の出来事ではあるまいと見なしているからといって、聖書の記述は何一つとして実際の出来事を述べていないと、私が主張しているとはとらないでほしい。また、不条理で遵守不能であるから、ある戒めは文字通りに遵守するのは不可能であると言ったからといって、律法の戒めは何一つとして価値がないと主張しているととらないでほしい。また救い主に関して書かれた事柄が、感覚的な形でも起こったということを私が否定したり、彼の戒めを文字通りに遵守する必要がないと考えたりしているととらないでほしい。大部分の場合、歴史的な意味を真実として認めうるし、認めねばならないというのが、私の意見であるとはっきり言っておこう。……単に霊的な意味のみを有している〔記述〕よりも、歴史的な意味をも固辞している〔記述〕の方が、遙かに多いのである。

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2017年3月8日水曜日

アレクサンドリアの非寓意的解釈者たち Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style" #4

  • Folker Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style," in Hebrew Bible/Old Testament: The History of Its Interpretation 1: From the Beginnings to the Middle Ages (Until 1300), ed. Magne Sæbø (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1996), pp. 130-98, esp. pp. 189-98.

フィロンは、テクストの字義的意味のみを重視する者たちのことを、ソフィスタイ(σοφισταί)と呼んだ。こうした者たちに関する情報は、第一に、フィロンの著作における数多くの暗示、第二に、エウセビオスによって断片的に引用されている異教の民俗学者アレクサンデル・ポリュヒストルによる言及、そして第三に、偽フィロンの説教において見ることができる。

そうした字義的アプローチを取る注釈家には、デメトリオス、エウポレモス、アルタパノス、注釈家アリステアス、長老フィロン、クレオデモス/マルカスなどがいる。デメトリオスは、我々が知る限りギリシア語で書いた最初のユダヤ人作家であり、特に聖書の時系列に関心を持っていた。アルタパノスは、モーセとイスラエル民族の歴史に関する小説を書き、モーセとムーサイオスを同一人物だと見なすエウヘメリズムを用いるほど、異教との交わりを躊躇しなかった。アリステアスは、ヨブ記をミドラッシュ的に拡張したことで知られている。

偽フィロン。本稿で扱われているのは、フィロンの著作としてアルメニア語訳が伝えられているが、明らかに別人のために偽フィロンと呼ばれている人物の説教(『ヨナについて』と『サムソンについて』)である。これらは口伝的かつアジア主義的特徴を持つエンコーミオン(称賛演説)としての説教だと見なされている。説教はのちにキリスト教会で受け継がれるが、発明したのはユダヤ人であった。異教徒はホメロスを公の場で解釈することはなかった。

フィロンとの違い。偽フィロンの説教がフィロンと違うのは、第一に、偽フィロンは文学ではなく演説であること、第二に、律法に限らず、預言書などに関連する拡張を持っていること(ハフタラー)、そして第三に、ユーモアと鮮烈なイメージを持っていることなどである。こうした説教は、女性を含む会衆を楽しませるためのものだった。それゆえ即興的な演説(αὐτοσχέδιος/αὐτοσχεδίαστος λόγος)だったと考えられる。偽フィロンはホメロスやプラトン、またストア哲学を知っていた。彼は聖書の神話的な要素を合理化し、儀礼を倫理化しようとした。また明確な正典意識を持っていたようで、七十人訳をテクストとして用いながらも、ヘブライ語聖書における正典からのみ引用した。

非寓意的・歴史的解釈。偽フィロンの説教には寓意的解釈が見られない。聖書文書は歴史として扱われている。偽フィロンは自身のテクストの科学的な文脈をアップデートすることに関心がなかったので、寓意的解釈を用いる必要もなかったのである。彼の字義的解釈は、フィロンの問答形式の著作に見られる字義的解釈と同様の洗練を見せている。

こうした説教を著者は物語神学(narrative theology)の例と見なしている。すなわち、聖書テクストをより詳細に語り、またさまざまな種類の演説や対話を散らすことによって、聖書テクストを拡張することである。いわば、ラビ文学におけるミドラッシュにも類似性がある。それゆえに、「ヘレニズム的ミドラッシュ(Hellenistic midrash)」という用語を新たに作ってもいいかもしれない。ただし、偽フィロンの説教は、ヘブライ語のミドラッシュのように関連の連鎖からできているわけではなく、全体的な構造を提供する修辞的な基盤の上に出来上がっている。また特に『サムソンについて』は、ユダヤ教やキリスト教に見られる聖者伝説の嚆矢となる伝記的な称賛演説(biographical encomium)とも言える。

まとめ
アレクサンドリアのユダヤ教は、字義的、寓意的、類型的な方法論を発展させ、そうして行なった聖書解釈を口頭でも文書でも伝える形式を作り出した。その先行者は前2世紀のホメロス解釈者たちであった。ホメロスは、モーセと共に、後4世紀のポルフュリオスやユリアヌスの時代までライバルとして解釈され続けた。その後、寓意的解釈は教会において発展することになった。一方で、アレクサンドリアのディアスポラのユダヤ人たちは、たった一人の歴史家をも生み出さなかったイスラエルの地の賢者たちよりは、聖書の歴史的側面に関心を持っていた。事実、偽フィロンの説教は歴史を解釈しようとする試みであったし、ヨセフス(およびフィロン)は史書を著した。ただし、彼らはハラハー(法)的側面については、ほとんど寄与することがなかった。字義的解釈を残しつつ、自由に寓意的解釈をしたアレクサンドリアのユダヤ人たちの方法論は、ユスティノス、クレメンス、そしてオリゲネスらキリスト教の教父たちによって模倣された。しかしながら、ラビと呼ばれるユダヤ賢者たちは、ギリシアの遺産を受け継ぐことはなかった。

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2017年3月7日火曜日

フィロンの聖書解釈 Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style" #3

  • Folker Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style," in Hebrew Bible/Old Testament: The History of Its Interpretation 1: From the Beginnings to the Middle Ages (Until 1300), ed. Magne Sæbø (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1996), pp. 130-98, esp. pp. 162-89.

フィロンが受けたギリシア語教育は極めて広範なものだったが、現実の科学と批判的な文献学については、他のアレクサンドリアのユダヤ人同様あまり通じていなかった。彼は開かれた性格であったため、しばしば劇場を訪れたが、一方でエルサレムに巡礼に行くような敬虔さも持ち合わせていた。またフィロンは、アレクサンドリアのユダヤ人の代表者であった。

フィロンは異教徒作家からの長い引用は避け、引用するにしてもホメロス、ピンダロス、プラトン、エウリピデスからのみ引用した。彼は他のユダヤ人作家には決して言及しなかった。フィロンにとって、字義通りの意味よりもより深遠な意味の方が重要だったが、かといって律法の字義的な遵守を放棄することもなかった。フィロンにはヘブライ語能力はなかった。ただし、ヘブライ語の用語や人名に関する語源学的なハンドブックを持っていたと考えられる。

フィロンの著作ジャンルは、1)問答、2)創世記の寓意的注解、3)律法解説、4)その他のテーマ別著作、5)歴史的・護教的著作に分けることができる。これらフィロンの著作の全体に寓意的解釈は行き渡っているが、聖書テクストへの言及の仕方が違う。またエウセビオスの引用のみで伝わっている『ヒュポテティカ』と『ユダヤ人のための弁明』という著作もあった。問答形式では、まず字義的な解釈をしたあとに寓意的解釈(自然的な場合と倫理的な場合がある)へと進むという複数アプローチを取った。寓意的注解では、はっきりと寓意的解釈に比重が置かれ、しばしば字義的解釈は否定される。律法解説では、聖書本文と解説とはゆるやかにしか繋がっておらず、創造から終末への普遍的な歴史の中で寓意的に律法が解き明かされる。

フィロンは神理解において神人同型説を避けている。存在する者たるホ・オーンは動きも感情も悪も超越し、物質と接触しない不可感な存在なのである。ではそのような超越的な神がどのように世界に影響を与えるかというと、それは神の力(δύναμις)が代わりにするのである。このように、フィロンの宇宙論において、神は超越的(プラトン主義)であると共に内在的(ストア派)である。フィロン自身はそこに、神の力の二元論という要素を加えた。すなわち、神を表わすときの「主(κύριος)」は力の展開や裁きを意味しており、「神(θεός)」は創造的活動や恵みを意味しているという考え方である。同様の二元論はラビ文学にも見られるが、そこでは逆に、「主(אדני)」が恵みを、「神(אלהים)」が裁きを表わしている。

霊感説。フィロンにとって、五書の著者は神ではなくモーセである。しかしモーセは単なる律法制定者ではなく預言者でもある。十戒を受けたときなど、モーセは神の力の機械的な反響として働くばかりであり、そこにモーセの意志は介在しない。フィロンの理解では、霊感は人間側のいかなる知的営為も認めず、ストア派宇宙論におけるプネウマのような力によって、機械的な因果関係が働くのである。そして音を発しているだけのモーセの言っていることの意味を探るのは、それを読んでいる読者の解釈に委ねられる。こうして聖書解釈の正当性が担保されるのである。

聖書理解。フィロンは五書を、モーセという単一の著者による統一的な著作だと考えていた。そしてその内容は、第一に創造、第二に歴史、そして第三に律法であると分類した。ただし、文献学的な観点やヘブライ語知識を持たない彼にとっての聖書とは、常に七十人訳であった。彼は七十人訳はヘブライ語テクストと完全に同一だと考えていた。彼がヘブライ語に言及するときは、名前などに関するハンドブックに依拠していたと考えられる。フィロンはときに預言書に言及することはあっても、その関心はほぼ五書に限定されている。タナッハの三区分は知っていたようだが、あまり正典意識は持っていなかった。

フィロンの字義的解釈は細部にこだわったものであり、同時代のギリシア語文法、修辞学、弁論術などを駆使したものである。一方で彼の寓意的解釈はより同質的で組織立ったものだった。寓意的解釈においては、自然学や倫理学に基づいた寓意のみならず、神秘主義的な寓意まで進んだ。また聖書の登場人物を象徴として捉えるという手法をしばしば用いたが、これはフィロンに限らずラビ文学やギリシアのホメロス解釈にも見られるものである。ただし、フィロンのそれはとりわけ豊かでかつ一貫性を持ったものだった。

フィロン受容。ユダヤ文学において、ヨセフスはフィロンに言及しているが、ラビ文学はその名前すら記録していない。異教文学においてもその足跡は残っていない。フィロンを最も重宝したのはキリスト教の聖書解釈者たちだった。アレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスはフィロンを模倣し、エウセビオス、キュリロス、クリュソストモスらは彼を崇拝した。ラテン世界では、アンブロシウスがフィロンの名前を出さずにその著作をラテン語訳しており、アンブロシウスを通じてアウグスティヌスも大きな影響を受けた。ヒエロニュムスは『著名者列伝』にフィロンの項を入れている。

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『アリステアスの手紙』とアリストブロス Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style" #2 

  • Folker Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style," in Hebrew Bible/Old Testament: The History of Its Interpretation 1: From the Beginnings to the Middle Ages (Until 1300), ed. Magne Sæbø (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1996), pp. 130-98, esp. pp. 144-62.

『アリステアスの手紙』(以下『手紙』)とアリストブロスに関する箇所を読んだ。ヘレニズム期のユダヤ人注釈家たちは、ギリシア語聖書とは別物としてのヘブライ語聖書には言及しなかった。これは『手紙』とアリストブロスにも言えることである。

『アリステアスの手紙』はギリシア語訳五書の成立縁起を扱っているので、実際のところは「報告(διήγησις)」と呼んだ方が相応しい。物語部分は政治的なプロパガンダにもなっている。『手紙』によると、七十人訳の翻訳者たちが互いに「比較(ἀντιβολή)」することで訳文を一致させたという。このἀντιβολήとは、アレクサンドリア文献学においては「校合」を意味する言葉でもある。

『手紙』はモーセをユニークな存在としてではなく、むしろ古代における律法制定者のイメージを積極的に用いて描いている。また五書の訳文の完璧な正確さと、それを変更することの禁止とに触れていることから、五書の他のギリシア語訳に反対していることが伺われる。すなわち、これはユダヤ内部の議論であると言える。

『手紙』の特徴は、犠牲のような具体的な規則を、抽象的な価値に基づいた倫理に転換することで、メタフォリカルに理解することである。神の栄光は焼き尽くす捧げ物の煙によってではなく、魂の清らかさと神の崇高な概念によって高められる。

『手紙』は聖書的伝統をギリシア哲学の枠組みの中で守ろうとした。同書を歴史書として読むと疑わしいが(アレクサンドリアのユダヤ人は当地の文献学の伝統に関心を示さなかったので)、神学護教論の文書として読むと、終末論をなくして哲学を語ろうとしている点で知的作品だと言える。

アリストブロスは、二マカ1:10に出てくる人物と同一視されることがあるが、基本的にどのような人物だったかはまるで分っていない。『手紙』よりは修辞的魅力に欠ける問答形式の作品が、5つの断片のみ残っている。それらはすべてエウセビオスによって引用されたものである。ラテン世界ではヒエロニュムスのみが彼の名に言及している。

アリストブロスによれば、モーセの言葉は必ずしも表面的な意味で受け取るべきでなく、メタフォリカルに理解しなければならないという。また彼は、ソクラテス、プラトン、ピタゴラス、さらにオルフェウスまでもが実はユダヤの律法を模倣したのだと考えた。アリストブロスもまた、ホメロスやヘシオドスの黙示的な一節を引用することに集中するあまり、アレクサンドリアの文献学の伝統には疎かった。その神理解はストア派のそれに近く、アラトスの汎神論のような記述が残されている。

アリストブロスが聖書を引用する場合、ほとんど七十人訳に依拠しているが、ヘブライ語テクストに近いところも見つかっている(出3:20)。その引用は必ずしも字義的でなく、多くの場合は短い。聖書解釈に関しては、ある一節にはいつも付加的な意味があるはずだと考えた。複数の意味の解釈を求めるという点で、ヘブライ語の用語で言うところのダラッシュに近い。

まとめると、アリストブロスは自然的な意味に対して関心を持ち、『手紙』はより倫理的な意味に対して関心を持った。前者の方が後者よりも知的だった。

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2017年3月6日月曜日

聖書解釈前史としてのホメロス解釈 Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style" #1

  • Folker Siegert, "Early Jewish Interpretation in a Hellenistic Style," in Hebrew Bible/Old Testament: The History of Its Interpretation 1: From the Beginnings to the Middle Ages (Until 1300), ed. Magne Sæbø (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1996), pp. 130-98, esp. pp. 130-43.

本論文は、ヘレニズム期のユダヤ文学に関する優れた概説である。著者はまず、聖書の解釈に先立って、ヘレニズム期にホメロス作品がいかに解釈されていたかということから論文を始めている。当時、文法学校では生徒たちがホメロス作品を暗記し、そこから文法を学んでいた。すなわちホメロスは教材になっていたのである。さらに言えば、神の霊感を受けた神的な詩人だとも思われていた。しかし同時に、ホメロス作品の宗教的・倫理的内容に関して疑問視されるようにもなっていた。実際、プラトンは『国家』の中でホメロス作品を禁じている。

寓意的解釈。そこで不適切に思われる箇所を「解釈」することで、ホメロス作品を救おうという試みが行われたのである。そのときに用いられたのが、「寓意的解釈」という方法であった。ストア派によれば、ホメロスは実際に語ることができたことよりも多くのことを知っていたが、それを読者に「謎(αἰνίγματα)」として残したのだという。このストア派的な解釈は、ペルガモン学派の方法論に基づくものだった。

ストア派。ホメロス作品に見られる多神教的な世界観は、哲学者クセノファネスらによって攻撃された。ストア派は物質主義的な世界観を持っており、神的な存在のことを、エーテルやプネウマなどと呼ばれる何らかの火のようなものだと考えていたが、そうした世界のシステムを説明するために、伝統的な神々の名前を用いた。こうしたある種の「神学」は、ストア派による哲学の三区分(論理学、自然学、倫理学)における「自然学」に該当するものとなった。

アレクサンドリア文献学。アレクサンドリアにおいては、ホメロス作品は文献学(歴史的・批判的アプローチ)の対象となった。アレクサンドリアの図書館において、文献学者たちは伝えられているテクストを削除することなく、批判記号を用いて校訂した。当時、ホメロス作品を他のギリシア文学から区別するような正典意識があったため、引用するときにもテクストを改変することは許されなかったのである。また彼らは、「ホメロスをホメロスから解釈する」という原則を持っていた。

ハンドブック。ホメロス作品を解釈するに当たって出くわす問題点を解決するために便利な、ハンドブックも書かれた。高等学校の教師たちは、そうしたハンドブックを用いて授業を準備したのだった。代表的なものは、偽プルタルコス『ホメロスについて』、問答形式のヘラクリトス『ホメロス問題』、そしてコルヌートス『ギリシア神学抄』である。これらの他にも、ストラボンはホメロスの地理的な知識の正しさを基に、ホメロスを擁護した。

他の解釈法。ホメロス作品の解釈は寓意的な方法だけではない。中期プラトン主義者であるプルタルコスは、崇高な真理を伝えるために神話という形式も必要だと考えた。プルタルコスは寓意的解釈をまったく否定するわけではなく、象徴を「真の意味」にあえて置き換えたりせずに、神話の一般的な輪郭に適合するような類推を見つけようとしたのである。一方で、ウェルギリウスは、ホメロス作品を類型論的(typoligical)に用いることで、ローマの国家の起源を示してみせた。

ヘレニズム・ユダヤ文学の文脈においては、ヨセフスがホメロス作品の合成的な性質やテクストの多様性を指摘し、プラトンによる禁止にも言及している。しかしながら、興味深いことにヘレニズム期のユダヤ人は、ヨセフスを除いて、テクストに対する文献学的な観点に興味を示さなかった。ホメロス作品のみならず、聖書に関しても、アレクサンドリアの文献学が適用されるのはキリスト者であるオリゲネスを待たねばならなかった。その代わり、ユダヤ人は聖書を寓意的に解釈することにより大きな関心を持っていたのである。

古代においては、ユダヤ人はしばしば、他の民族から孤立していることを批判された。ユダヤ人は自分たちの礼拝を清浄に保つためにシナゴーグを建て、他の民族と交わることを望まなかったからである。そこでモーセもまた人間嫌いとして非難された。しかしながら、ユダヤ人は異教の神話や神学との接触を避けようとはしていなかった。彼らもまたホメロスを学び、ヘラクレスやヘルメスを称え、フィロンのような開かれた人物は劇場にも通ったのだった。

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2017年3月4日土曜日

修辞学の歴史 Kennedy, Classical Rhetoric

  • George A. Kennedy, A New History of Classical Rhetoric & Its Christian and Secular Tradition from Ancient to Modern Times (2nd ed.; Chapel Hill: The University of North Carolina Press, 1999).
Classical Rhetoric and Its Christian and Secular Tradition from Ancient to Modern TimesClassical Rhetoric and Its Christian and Secular Tradition from Ancient to Modern Times
George Alexander Kennedy

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本書は、古典的な修辞学が古代から現代にかけてどのように発展したかを検証したものである。著者によると、修辞とは、特定の目的を遂げるために書いたり話したりすることで説得を試みるようなコミュニケーションのことであるという。そして修辞には、一次的(primary)なものと二次的(secondary)なものがある。一次的な修辞とは、口頭のもので、前5世紀にギリシアの修辞学の中で最初に出来上がったものであり、一方で二次的な修辞とは、より広く、文学、芸術、言説といった非口頭的な修辞のためのテクニックのことである。

一次的な修辞の発展は、前4世紀になると、ギリシアでソクラテス、プラトン、アリストテレスらの哲学によってなされた。これらの哲学の中にある「弁証法的な論法(dialectic reasoning)」は法廷においても活用されるようになった。アリストテレスの考えでは、修辞学はある人が無実の罪で牢屋に入れられそうなときなどに役立つという。また彼は、話し方、様式、配置などの具体的な修辞法についても議論している。

ローマ時代になると、キケロー『発明について』やクインティリアヌス『弁論家の教育』などは修辞学の教科書として使われた。いずれも、修辞学は人々の共通の善に使えるべきものだとしている。クインティリアヌスはイソクラテスからの影響を大きく受けており、修辞学的技法を洗練され得るものであるとし、また状況を支配するために使うものだと考えた。彼もまたアリストテレスのように、修辞学における話し方と様式に関心を持ち、体の動かし方、顔、腕、手、足などをいかに使うかをアドバイスしている。一方でキケローは、ソフィストの哲学の伝統と技巧的な修辞学のそれとを合成しようとした。話者は哲学に通じた上で、人々を楽しませつつ、異なった価値観へと聞き手を連れていくのである。

キリスト教時代の修辞は、聖書的なものと非聖書的なものとに分かれる。前者としては、旧約聖書の預言、説教、そして律法における修辞や、新約聖書の使徒行伝の使徒たちの修辞が挙げられる。後者としては、アウグスティヌスに対する護教家たちの説教などがある。上で見たギリシアとローマの修辞が、教父時代にキリスト教説教の中でいっしょになるのであった。異教の修辞とキリスト教の修辞との違いは、キリスト教においてはしるしや奇跡によって神の啓示が明かされたと信じていることである。キリスト教の説教には4種類あり、それぞれ宣教、預言、説教、称賛とされている。

オリゲネスは解釈の三つのレベルとして、論理的(logical)、倫理的(ethical)、感情的(emotional)と区分けしたが、これはアリストテレスの論理的(logos)、精神的(ethos)、感情的(pathos)に由来する。ただしオリゲネスは、神からの啓示は聖書のもともとの内容を変える可能性があると考えている。すなわち、オリゲネスは皮肉にも、聖書を解釈する際にはコンテクストから離れてはいけないという反面教師になったのである。

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古代と現代の文学批評の類似性 Nünlist, The Ancient Critic at Work

  • René Nünlist, The Ancient Critic at Work: Terms and Concepts of Literary Criticism in Greek Scholia (Cambridge: Cambridge University Press, 2009).
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René Nuenlist

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本書はスコリアに注目することで、古代の文学批評の実態を検証したものである。スコリアとは、古代の文学作品の特定の一節に関する短い注釈を集めたもののことである。古代の文学批評に関する多くの研究では、アリストテレスの『詩学』やデメトリオスの『様式について』などといった論文が扱われることが多かった。そもそもW. Arendのような研究者は、アレクサンドリアの学者たちの仕事であるスコリアによって、文学作品としてのホメロスの詩は損なわれてしまったと考えていたほどであった。

一方で、著者があえてスコリアを選んだのは、第一に、スコリアは原理の形成よりもその応用を示すからであり、第二に、スコリアは諸論文よりも大きなコーパスを提供するので、より多くのトピックを扱っているからであり、そして第三に、諸論文が散文の修辞に注目するのに対し、スコリアは詩に注目するからである。著者はこのスコリアの利点を生かすために、ホメロス、ヘシオドス、古典劇作家、ピンダロス、カリマコス、テオクリトス、ロードスのアポロニオス、ルキアノスらの作品に関するスコリアを扱っている。

著者によれば、こうしたスコリアを集中的に扱うことによって、古代の注釈者たちは現代の用語で表わされる文学批評の概念をすでに知っており、それらを自分たちの文学批評において用いてたという。著者が扱っているのは以下のトピックである:プロット、時間、物語と台詞、焦点化、読者への効果、欠落と削除、詩的逸脱、著者の特定、様式、ほのめかし、隠された意味、登場人物、神話学、など。たとえば焦点化(focalization)に類似する議論としては、古代の注釈家たちは「話者を考慮することによる解決(λύσις ἐκ τοῦ προσώπου)」といった洗練された議論を持っていた。

こうした現代的な概念が、必ずしも当時の用語での表現ではないにせよ、実際に古代の注釈者たちによって親しまれていたというのは驚くべきことである。古代の議論の価値は、彼らがテクストにしたことと我々がテクストにしていることとの目を見張る類似性に注意を払うことで、現代の読者の目においても高いものとなる。

2017年3月1日水曜日

セルウィウスの寓意的解釈 Jones, "Allegorical Interpretation in Servius"

  • J.W. Jones, Jr., "Allegorical Interpretation in Servius," Classical Journal 56 (1960-1), pp. 217-26.

本論文は、ウェルギリウスの注解で知られるセルウィウスがどのように寓意的解釈を用いたかを検証した論文である。ラテン作家たちにとっての「寓意(allegoria)」とは、後代での用法のように解釈のひとつの種類のことではなく、いわゆる「比喩(figure of speech)」のことを指していた。つまり、セルウィウス自身はウェルギリウスの詩を寓意的に解釈したつもりはなく、ウェルギリウスが用いていた比喩表現を発見したと考えていたのである。

古代においては、現代で言うところの「寓意的解釈」に当たるものとして、四つの解釈法が考案された:第一に、「歴史的(historical)解釈」では、実在の人物や出来事が何らかの意味を暗示していると見なされた。第二に、「自然的(physical)解釈」では、神々が自然現象や力と同一視された。第三に、「倫理的(moral/ethical)解釈」では、神々が抽象的な概念に同一視されたり、表面上は悪の行為や状況に倫理的な価値が見出された。第四に、「エウヘメリズム的(euhemeristic)解釈」では、神々が神格化された人間の英雄たちのことだと理解された。著者は、これら四つの「寓意的解釈」に加え、セルウィウスの注解の中には第五の解釈として「ローマの祭儀からの(ex ritu Romano)寓意的解釈」とでも言うべきものがあると指摘している。

「歴史的解釈」は53例あり、あちこちで見られるが散発的であると言える。セルウィウスの考えでは、ウェルギリウスは『アエネーイス』の主人公であるアエネーアースの人物像をローマ皇帝に匹敵するものだと見なしていたが、実際にはそれはセルウィウス自身の考えであった。そこで、セルウィウスはウェルギリウスによってアエネーアースに帰されている行為を、皇帝による同様の行為の先駆けと見なしたのだった。

「自然的解釈」は35例ある。これは、ウェルギリウスが神々を描写するときに、あるときには神人同型的に扱い、またあるときには単純な自然現象として扱ったことに由来する。セルウィウスは「自然的解釈」を施すときには、ギリシアの自然哲学者たち(physici)に直接的に依拠したり、あるいは間接的に依拠したりした。間接的の場合には、ストア派のコルヌートス、偽ヘラクリトス、キケロー、ウァッローらを参照したようである。

「倫理的解釈」は18例あり、特に『アエネーイス』第6巻に集中している。セルウィウスはこの巻に出てくる冥界のシーンの全体を寓意だと見なしている。彼は特にエピクロス派詩人のルクレティウスや、ピタゴラスなどに依拠しながら、作中の出来事に倫理的な意味を持たせた。

「エウヘメリズム的解釈」は44例もある。多くの場合セルウィウスは、ウェルギリウスによって言及されている神話的な獣や怪物などは、もともとは別の存在が獣化・怪物化したものだと解釈しようとした。エウヘメリズムとは神々の起源を神格化された英雄に求める考え方であるが、セルウィウスの時代には神々は「自然的解釈」をされることが多かった。パラエファロスやポリュビオスのように、セルウィウスもまた神話のような物語(fabula)の元には何らかの真理が存すると考えた。そこで、セルウィウスはウェルギリウス作品中の獣や怪物とは、もともとは障がいを持った人や現実の動物を詩人が比喩的に表現したものだと解釈した。ただし多くの場合、セルウィウスの解釈には出典があった(ウァッロー、サルスティウス、ヒュギアノス、セプティミウス・セレヌス、エラトステネス、シチリアのディオドロスら)。

これらに加えて、著者は「ローマの祭儀からの寓意的解釈」を20例挙げている。これらの中で、宗教的な事柄に関するウェルギリウスの知識が執拗に議論されている。一見、あたかもウェルギリウスの見解であるかのように見えるが、『ダニエルのスコリア』と呼ばれるスコリアの中に収められたセルウィウスの注解は、実は彼自身のものではなく、アエリウス・ドナトゥスの失われた注解ではないかと考えられている。それゆえに、セルウィウス自身の注解ではこれらの解釈を否定することもある。なぜなら、第一に、セルウィウスの見解はより哲学的なものであり、第二に、少し前の世代であるドナトゥスの読者にとっては祭儀の問題は重要でも、セルウィウスの時代にはすでにそうではなかったからである。

以上より、セルウィウスが中世の寓意的解釈と異なり、単一のプランによって『アエネーイス』を寓意的に扱っているわけではないことが分かる。また一般的に、セルウィウスが言及している寓意は、ウェルギリウス自身が用いた寓意を明らかにしようとするものではなく、むしろ注解者自身の声や彼が影響を受けた者の声だと言える。

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