2016年9月30日金曜日

アンティオキア学派再考 Young, "Traditions of Exegesis"

  • Frances M. Young, "Traditions of Exegesis," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 734-51.
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本論文は、特にアンティオキア学派に注目しながら、キリスト教の聖書解釈の諸特徴を明らかにしたものである。著者は、これまでの聖書解釈史の研究がアレクサンドリア学派やアンティオキア学派といった学派の方法論の違いに注目するあまり、共通する伝統の中にある議論の実際を等閑に付してしまっていると指摘している。

アンティオキア学派と見なされるのは、以下の教父たちである:ヨアンネス・クリュソストモス、タルソスのディオドロス、モプスエスティアのテオドロス、キュロスのテオドレトス、エメサのエウセビオス、そしてアドリアノスらである。

これまでの研究では、アレクサンドリア学派が霊的な寓意的(allegorical)解釈をその特徴とするのに対し、アンティオキア学派は字義的(literal)・歴史的な(historical)解釈をその特徴とすると考えられてきた。しかし、著者はそうした一貫した解釈伝統があると言い切っていいのかどうかを問うている。

アンティオキア学派は、少なくとも寓意的解釈を問題視している。ガラ4:24でパウロは明らかに寓意的解釈をしているが、これについてモプスエスティアのテオドロスは、パウロはここで歴史的解釈を退けているわけではなく、ただ過去と現在の出来事と比較するためのものとして寓意的解釈を用いているにすぎないと主張する。言い換えれば、アンティオキア学派が追及しているのは、ユダヤ教の字義的解釈とヘレニズムの寓意的解釈の中間の、予型論的解釈(typology)だということである(この用語自体は現代の研究者によるもの)。

タルソスのディオドロスによると、そもそもギリシア文学における寓意と聖書のそれとは異なるという。ギリシア文学における寓意とは、ある方法で言われている何かや出来事を別様に理解することである。一方で、聖書は歴史を捨て去ることなしに、「観想(テオーリア)」を展開することで、そうした出来事をより高次なレベルで理解するのだった。ディオドロスは、パウロが寓意と呼んでいるのは、この観想のことであると主張した。また彼は、寓意と「隠喩(トロポロギア)」あるいは「直喩(パラボレー)」との違いについても説明している。

テオドロスによれば、聖書解釈が聖書上に見られる文献学的・歴史的な問題の解決を目指すものであるのに対し、説教は明らかな言葉に関して語る教育的・倫理的なものであるという。しかしながら、一般に説教者として知られるクリュソストモスの著作にも問題解決的なものがあり、一方で聖書解釈者として知られるテオドロスの著作にも教育的なものがある。

アンティオキア学派の聖書解釈は、ただ文献学的・歴史的であるだけでなく、教育的・倫理的でもあるのである。倫理的な解釈をも含んでいる以上、アンティオキア学派の特徴である字義的・歴史的な解釈とは、現代の歴史批評家のそれとは大きく異なると言える。逆に、アレクサンドリア学派の代表格であるオリゲネスの聖書解釈にも、寓意的であると同時に、文献学的な方法論が用いられていることを忘れてはならない。

アンティオキア学派とアレクサンドリア学派との違いは、かつてホメロスやギリシア神話の解釈をめぐってなされた修辞的な学派と哲学的な学派との論争に比することができる。ただし、それぞれの学派の主張は、これまで考えられていたように一枚岩ではない。正確に言えば、寓意的解釈をめぐっては両学派は相対しているが、共に倫理的な解釈を重視している点では一致している。ただし、その倫理的な解釈をするための方法論として、アレクサンドリア学派が寓意的解釈を用いるのに対し、アンティオキア学派は説明的・予型論的な方法論である「観想(テオーリア)」を用いたのである。

アンティオキア学派の「観想(テオーリア)」は、人や出来事の類似性に注目し、人の意図や物語の連続における教義的な真理や倫理的な教えを見出すものである。一方で、アレクサンドリア学派の「寓意」は、テクスト上で言われていることとは別のことに隠れている、聖霊の意図を見つけるためのヒントを探し出すことである。アレクサンドリア学派が聖書テクストに地上的な領域と霊的な領域との二重のレベルを見るのに対し、アンティオキア学派はすべての聖書物語のうちに、神の人間愛の神的な働きを追求するのである。ただし、それぞれの特徴は相互に影響し合っている。

以上より、これまで言われてきたように、独立した異なる伝統というものは存在しないと言えるだろう。アンティオキア学派が寓意を否定したのは、それが救済の歴史を揺るがすかもしれないからだった。彼らはテクストの一つの意図に固執したが、歴史性や字義性はアンティオキア学派の主要な特徴とは言えない。

2016年9月28日水曜日

ラテン語聖書 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 505-26.
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本論文は、後600年までのラテン語聖書の成立史を扱っている。著者は成立史を三段階に分けている:第一に、古ラテン語訳、第二に、ヒエロニュムスの改訂と翻訳、そして第三に、古ラテン語訳とヒエロニュムスの翻訳との合流である。

古ラテン語訳。古ラテン語訳は後2世紀のアフリカで作られた。イタリアやローマでなくアフリカで作られたことについては、3世紀以降の北アフリカで、テルトゥリアヌスやキュプリアヌスなどの、ラテン語で書かれたキリスト教文学が興隆したことから理解できる。ローマ教会では4世紀になるまでギリシア語聖書が使われていた。

古ラテン語訳の情報源としては、以下の六つがある:
  1. 教父文学や中世文学での引用
  2. 古ラテン語訳が使われていた頃の聖書写本の断片(800年頃まで)
  3. カロリング朝の聖書(ウルガータ聖書内に含まれる古ラテン語訳の文書)
  4. ヒエロニュムスの翻訳に欠けている七十人訳由来の付加部分
  5. さまざまな典礼式文に含まれる聖書箇所
  6. カピトゥーラとティトゥリの順序
教父時代に、古ラテン語訳を始めとするラテン語聖書が独立した権威を持つことはなかった。ラテン世界にあっても、七十人訳こそが霊感を受けた聖書だったのである。

古ラテン語訳の巻物は見つかっていない。教父の証言やわずかな写本からは、当時の聖書は10巻以上のコーデックス型の書物の形式で読まれていたことが分かっている。これが4世紀の前半になると、次第に一つの大きなコーデックスにすべての文書が写されるようになった。カッシオドルスはこうした大きな写本を「パンデクト」と呼んだ。こうしたパンデクトにまとめられた諸文書は、カピトゥーラと呼ばれる区分に分けられ、番号とタイトルがふられていた。また一行は、ヘクサメーターの一行に当たる16音節ほどで書かれることが多かった。

福音書の順序は古ラテン語訳の時代では確定していなかった。北部イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコの順、偽テオフィロスによる5世紀の福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカの順、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカの順、アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスではマタ・ルカ・マコ・ヨハの順、テルトゥリアヌスやペタウのウィクトリヌスではヨハ・マタ・ルカ・マコの順になっている。

ヒエロニュムス。ヒエロニュムスは序文の中で翻訳理論を語り、また彼の姿勢を批判する者たちを逆批判した。彼の旧約聖書の翻訳は、著作に見られるようなキケロー風の散文と古ラテン語訳の逐語訳との中間を行くようなスタイルだった。

ヒエロニュムスの正典観は、ヘブライ語聖書に伝わっていない文書は含めないというものだった。ただし、例外としてエステル記とダニエル書の付加部分と、トビト記およびユディト記の翻訳をしている。

新約聖書に関して、ヒエロニュムスはすべての文書を翻訳したようなことを述べてはいるが、確実に彼が扱ったと言えるのは福音書のみである。福音書以外の文書に対する序文を書いておらず、また翻訳スタイルも異なっている。パウロ書簡の改訂とその序文を書いた人物として可能性があるのは、シリア人ルフィヌスという人物である。彼はローマにおけるペラギウス派の一員であり、かつてはヒエロニュムスの弟子のひとりであった。

ヒエロニュムスは、自身の翻訳を一冊にまとめたパンデクトを持つことはなかった。彼の翻訳は個別のコーデックス形式で回覧された。

古ラテン語訳とヒエロニュムスの翻訳との合流。極めて明らかな例は、エステル記、サムエル記・列王記、そして箴言である。ヘブライ語から翻訳されたエステル記には、ヒエロニュムス自身によってギリシア語テクストの加筆部分が付加され、オベロス記号がしるされた。5世紀になると、イタリアでサムエル記と列王記の古ラテン語訳がヒエロニュムスの訳に付け加えられた。この版はスペインやガリアで広く読まれた。箴言に関しては、ペレグリヌスという不詳の人物が、『ヘクサプラ』七十人訳に基づくヒエロニュムスの改訂版に、古ラテン語訳を付け加えた。

典礼で用いられることの多い詩篇と雅歌に関しては、ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳ではなく、『ヘクサプラ』七十人訳に基づく改訂版が用いられた。

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2016年9月25日日曜日

中世ユダヤ人とギリシア語訳聖書 De Lange, "Jewish Greek Bible Versions"

  • Nicholas de Lange, "Jewish Greek Bible Versions," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), pp. 56-68.
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本論文は、ギリシア語訳聖書のユダヤ教における使用の歴史を扱っている。Henry Barclay Sweteのようなギリシア語訳聖書の研究者たちは、次のような歴史観を持っていた:第一に、ユダヤ人は古いギリシア語訳聖書がキリスト者によって用いられるようになると、それを見捨てた。第二に、アクィラ訳は、キリスト教に対抗するという論争的な目的で作成された。そして第三に、アクィラ訳はあまりにもラビ的であり、なおかつ七十人訳に取って代わることを目的としていたために、キリスト者からは嫌われた。

この歴史観は、中世のユダヤ人がギリシア語聖書を継続して用いていた証拠があるにもかかわらず、長い間極めて支配的だった。そうした証拠としては、たとえばヴェネツィアで発見された14世紀の「ヴェネツィアのギリシア語写本(Graecus Venetus)」や、15世紀のギリシア語訳詩篇写本、そして16世紀にコンスタンティノープルでヘブライ文字で印刷されたギリシア語訳の五書などがある。

この情勢に風穴を開けたのが、D.S. Blondheimによる研究であった。彼は、中世から近世にかけてのユダヤ人が、継続的にギリシア語訳聖書――すなわち七十人訳と、それよりさらに強い影響力を持ったアクィラ訳――からの影響を受け続けてきたことを明らかにした。彼の研究はしばらく無視されていたが、Natalio Fernandez Marcosもまたヘレニズム期ユダヤ教と16世紀のコンスタンティノープルの新しいギリシア語訳聖書との間に大きな懸隔はないのだと主張した。

こうした、ユダヤ人によるギリシア語訳聖書の使用について、大きな証拠となるのが、カイロ・ゲニザからの写本群であった。このゲニザから見つかる写本の多くは10世紀から13世紀に作成されたものだが、中には6世紀のアクィラ訳の列王記や詩篇を含むパリンプセスト、ヘブライ語の横にギリシア語訳を付した9世紀の単語帳、アクィラ訳の特徴を持ったギリシア語訳コヘレト書の断片、またヘブライ文字で書かれたギリシア語の注釈付きのヘブライ語聖書なども見つかっている。

こうした証拠から、6世紀から16世紀にかけての長い期間に渡って、ビザンツ帝国のユダヤ人はギリシア語を用い続けてきたことが明らかとなった。その使用法としては、シナゴーグにおいて会衆の前で口頭で朗読されたと思われるアクィラ訳から、個人的な使用のために作成された非公式のよせあつめまで、さまざまなものがあった。特に後者のような写本を作成した者たちは、高度なギリシア語教育を受けたわけではなく、あくまでヘブライ的な学習の助けになるものとして、ギリシア語の単語長などを作成した。ただし、興味深いことに、そのときのギリシア語の使用は、単純に話し言葉のギリシア語だけではなく、アクィラ訳のような初期の高度な人工的なギリシア語の要素を含んでいた。

ビザンツ期のギリシア語訳聖書の写本には、聖書文書の全体を写したものよりも、断片的な引用が多いことから、論文著者は当時のユダヤ人はギリシア語の訳文を暗記しておいて、ヘブライ語原典を朗誦した後にその翻訳をも暗唱していた可能性を指摘している。中には、ギリシア語訳のみが朗誦されたシナゴーグもあったようである。

結論としては、以下のようなことが言える:中世のギリシア語を話すユダヤ人はギリシア語訳聖書を極めて長い期間に渡って用い続けており、それは口頭の場合も書かれたテクストの場合もあった。それは同時代にキリスト者が用いていた、改訂された七十人訳とは異なり、話し言葉やアクィラ訳の要素を含むものだった。

2016年9月14日水曜日

レイノルズ、ウィルソン『古典の継承者たち』 #3

  • L.D. レイノルズ、N.G. ウィルソン「第六章:テクスト批判」、『古典の継承者たち:ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』(西村賀子、吉武純夫訳)国文社、1996年、306-65頁。
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テクスト批判とは、伝承の道筋を遡り、できうる限り元の形に近づくようにテクストを復元しようとする試みである。この過程は、二つの段階に分けられる。第一に、「校合(recentio)」であり、この過程では、証拠資料たる複数の現存写本を基にして、その背後にある、復元可能な最も古いテクスト形態を再構成する。第二に、それが再構成されたときには、そのテクストが真正でない場合、そのテクストを「校訂(emendatio)」して、毀れを抜き出すのである。

テクスト批判の理論の発展。印刷された通俗本ではなく、写本からテクスト批判をする研究の端緒は、Richard Bentleyによる新約聖書の研究(1721年)だった。Johann August ErnestiとFriedrich August Wolfもまた、この原則を古典テクストに適用した。校合のための「系図理論」は、Karl Lachmannによって提唱され、J.A. Bengelの新約聖書研究、Carl Zumptのキケロー研究、そしてJacob Bernaysのルクレティウス研究などで応用された。

校合の系図理論。Paul Maasもまた、系図理論の主唱者のひとりであった。彼によると、系図理論の主要点は、次の二つである。第一に、系図の構成:写字生が写本を写すときに犯す誤り、例えば「省略」や「置き換え」に注目すること。第二に、系図の応用:原型の読みを再構成するために系図を機械的に応用すること、である。

系図法の限界。系図理論が前提としているのは、第一に、諸写本がそれらの手本とされた一冊の本から「垂直に」伝えられるものだということである。しかし、写本の伝承には、「混成」、すなわち「水平の」伝承があったせいで、数グループの誤りによって特徴づけられる部類や系統に諸写本を振り分けることができないことがあるのである。また、第二の前提としては、現存するすべての写本はただひとつの原型にまで遡ることができ、その原型の年代は古代末期から中世初頭だというものである。しかし、伝承の傍流たる分かれた枝を代表する写本はいくらも見つかっている。そして前提の第三は、古代の作家自身が出版後に自分の現テクストに訂正や変更を施した可能性を考慮に入れないことである。これらの三つの前提は、そのまま系図理論の限界を示してもいる。

個々の写本の時期と価値。最良の写本は、決定のための合理的根拠のある箇所で正しい読みを一番多く与える写本であり、一般に写本が古ければ古いほど価値があるとされている。しかし、古くともパピルス写本などは質が悪いものが多い。また比較的後代の諸写本の中に真実が現れることもある(recentiores, non deteriores)。

間接的伝承。ある作家によってなされた別の作家の引用を指す、間接的伝承が有益な転居になることもある。たとえば、『スーダ』辞典には、そうした伝承が多く収録されている。ただし、引用はたいてい記憶に頼って行なわれたので、大部分の場合、校訂者は一時的伝承に従うのが正しいだろう。

他のいくつかの基本的原則。代表的な原則としては、「より難解な読みの方がすぐれている(difficilior lectio potior)」というのがある。写字生はときには故意に、ときにはうっかりと、もはや簡単には理解できないまれな語形や古風な語形をテクストから取り除いたり、自分には習熟できない複雑な思考過程を単純化したりする傾向があった。こうした改竄や矮小化は真正なテクストでない可能性が高いのである。

テクストの毀れ。テクストの誤りにはいくつか種類がある。第一に、古代や中世の諸隊の特徴が原因となって起こる間違い(分かち書きでないこと、文字の酷似、省略形の読み違え、数字、単語の混同)。第二に、綴りと発音の変化から生じるもの。第三に、省略によるもの。第四に、付加の誤り。第五に、置き換えの誤り。第六に、文脈によって引き起こされる誤り。第七に、キリスト教思想の影響。第八に、写字生の意図的行為に由来する間違い。

伝承の流動的諸形態。実用書の便覧は、その情報が時代遅れになったり、読者の要求にとって不十分なものだったり、あるいは逆に綿密すぎたりすることが読者にとって不便なので、伝承がより流動的になりがちであった。

2016年9月11日日曜日

レイノルズ、ウィルソン『古典の継承者たち』 #2

  • L.D. レイノルズ、N.G. ウィルソン「第二章:東のギリシア語圏」、『古典の継承者たち:ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』(西村賀子、吉武純夫訳)国文社、1996年、75-124頁。
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帝政ローマの学問と文学。ローマの帝政期、ギリシアと東地中海のギリシア化された属州では、知的生活の衰退が見られた。文学研究に顕著な進歩はなく、力点は次第に修辞学の研究に移った。後二世紀になると、たとえもはや過去の偉大な時代に匹敵する活動を達成できないにしても、少なくとも文学上の技法において過去の偉大な時代に張り合おうとする動きはあった。そのひとつがアッティカ風文体の模倣であった。トゥキュディデスやアリアノスを模した、極めて人工的な文体の擬古主義がはるかビザンツ時代末期まで続いた。それに伴い、アテナイの文学が学校で盛んに読まれた。

キリスト教会と古典研究。多くのキリスト者は古典テクストを読もうとしなかったために、多くの作品が失われた。ただし、教養ある異教徒に訴えるキリスト教作品を書くために、ユスティノスやクレメンスは、ストア派やプラトンから借用した専門用語を用いた。オリゲネスは、テクスト批判の領域でも異教徒文化に学ぼうとして、『ヘクサプラ』を作成した。バシレイオスやナジアンゾスのグレゴリオスは、異教の作品にも有益なものがあることを認めた。アポリナリスは、学校カリキュラムを完全にキリスト教化するために、詩篇をヘクサメトロスに、あるいは福音書をプラトンの対話篇風にアレンジした。とはいえ、基本的には、学校では依然として古典作品が講義された。教会が敵対的だったのは、むしろ異端の書いた本だった。

ビザンツ時代初期。古代世界の大学においては、きちんとしたアッティカ風文体を書くことのできる行政官になるための訓練が施された。この修辞学とアッティカ風文体の興隆に伴い、「スコリア」、すなわち注を別冊の独立した本とせずに、テクストの欄外に書くことが発明された。四世紀から五世紀のことである。また、ガザのプロコピオスは、「カティーナ」、すなわち複数の解釈者たちの意見を一語一句引用しながら編集した、聖書のランニング・コメンタリーを発明した。この時期には、通常読まれる文献の範囲が次第に狭まった(ヴィラモーヴィッツ)。また六世紀の後半まで、古典教育と古典研究がほとんど行なわれなかった。

オリエントにおけるギリシア語テクスト。ニシビスとエデッサで、ギリシア語テクストがシリア語に翻訳された。四世紀から五世紀にかけて、新約聖書や教父文学のみならず、アリストテレス、テオフラストス、ルキアノス、ディオニュシオス・トラクスなどがその対象となった。これらにはアラビア語訳もあったが、すでにあるシリア語訳からの重訳だった。アラビア人は、ほとんど科学と哲学にのみ関心を持った。代表的な人物としては、フナイン・イブン・イスハークが挙げられる。また、アルメニア語訳の聖書、フィロン、エウセビオス、プラトン、ディオニュシオス・トラクス、カリマコス、そしてエウリピデスなどもあった。

九世紀の古典復興。ビザンツ時代の学問的偉業は、九世紀になって現れるようになった。羊皮紙の需要が増え、大文字ではなく小文字体で写本が作成された。もともとアンシャル字体で書かれていた写本を小文字に書き直す作業も行なわれた。ギリシア語テクストには同じ出所に由来すると見られる現存写本すべてに共通する誤りが多くあり、しかもこの出所はたいてい九世紀の写本だと考えられている。この時代の高名な学者としては、ポティオスがいる。彼はユダヤ人の魔法使いと取引をして、知識を手に入れたという伝説がある。彼はたくさんの書物を要約した『ビブリオテケ』を著し、書評を発明したとされている。その範囲は広く、ギリシアの小説家、異端の作家、そして反キリスト教の作家の著作まで読んだが、詩はほとんど扱わなかった。これはアレタスなども同様であった。

ビザンツ時代後期。10世紀になると、辞書と初歩的な百科事典を合わせたものである『スーダ』が編纂された。これはアルファベット順の配列を有する最も古い百科事典である。またギリシア詞華集や重要な写本類も、この時代に作成された。写字生の筆跡鑑定をすると、これらの写本がごく少数の学者と教師と専門的写字生の手によって作成されたことが分かる。この時代の代表的な人物はミカエル・プセロスである。彼は哲学、異教文学、そして教父文学にも強い関心を抱いた。特にナジアンゾスのグレゴリオスに傾倒したようである。12世紀には、テッサロニカ司教エウスタティオスが古典の注釈書を寓意的解釈によって著した。彼よりもやや格が落ちるが、ツェツェスやコルニテスといった注釈家たちも活躍した。

しかしながら、1204年の第四次十字軍によってコンスタンティノポリスが占領・略奪されたことによる被害は甚大だった。1261年にふたたびギリシア人皇帝が同市を統治できるようになると、ラテン語の知識を持つマクシモス・プラヌデスが、ラテン世界の学識をギリシア語に翻訳した。またデメトリオス・トリクリニオスは、ビザンツの学者にあって珍しく、詩の韻律に関する研究を残している。彼はまた、さまざまな作家へのスコリアを書き改めたことなどにより、近代の校訂者の先駆者と見なされている。

古典研究は非常に広く行なわれていた。つまり、文学が読まれていただけでなく、古代に書かれた技術書や科学書はなお十分注目に値し、読めばそれだけ見返りもあるほど最新情報を含んでいた。こうした古典研究の興隆は、パライオロゴス朝ルネサンスと呼ばれている。ビザンツ人の主な功績は、広い範囲に渡る古典のテクストに興味を抱き、他の国の学者たちがそれらを利用してその真価を認める立場に立つまでテクストを保存したことであった。

2016年9月7日水曜日

レイノルズ、ウィルソン『古典の継承者たち』 #1

  • L.D. レイノルズ、N.G. ウィルソン「第一章:古代」、『古典の継承者たち:ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史』(西村賀子、吉武純夫訳)国文社、1996年、11-74頁。
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ギリシア・ラテン語テクストの伝承史に関する古典的名著の第一章から、関心を引かれたところを要点のみ挙げておく。

古代の書物。書籍取引が初めてギリシアに出現したのは、前五世紀中葉かその少し後のこと。本の形態は、損傷しやすい巻子本であった。パピルスは片方の面のみに文字を書いた。パピルスの代わりに羊皮紙を使うようになったのは、ペルガモンにおいて。テクストは、詩も散文も分かち書きせずに書かれていた。

ムーセイオンの図書館とヘレニズム時代の学問。ディオニュシア祭のような主要な祭典で公演された劇の公式写本は、劇場または公文書館で保管された。ムーセイオンは、ムーサを祭る神殿であると共に、文学・科学研究共同体の中心施設であった。ムーセイオンの学者は定期的に授業をした形跡はない。ムーセイオンの図書館の所蔵図書数は、20万巻から49万巻。

ムーセイオンの学者たちは、ホメロス・テクストを校訂することで、それを標準として押し付けもした。しかし、読者の便宜を図る手立てを発達させた:たとえば、アルファベットをイオニア式に統一したり、句読法を向上させたり、アクセント記号を発明したりした(ビザンティウムのアリストファネス)。文学の注釈的研究は、対象作品とは別個の書物として書かれた。そうした研究はほとんど失われたが、後代のスコリアから復元できる。彼らの研究の問題は、登場人物、特に神々の「品位のない行動(アプレペイア)」が書かれた詩行を安易に「真正でない」として退けたことである。ただし、その修正案はテクスト上ではなく、あくまで別冊の注釈に書いたので、テクストが損傷を受けることはなかった。彼らの解釈法は、「ホメロスをホメロスから説明する」というものであった。

ヘレニズム時代のその他の研究。ムーセイオンに匹敵し得る文学研究所としては、ペルガモンの図書館がある。ここでは、とりわけ地誌と刻文(ポレモン)、また地理学(クラテス)の研究が盛んだった。ストア派によるホメロス研究としては、ヘラクレイトスが挙げられる。ディオニュシオス・トラクスは、正式なギリシア語文法書を初めて著した。前一世紀のディデュモスは、すでにあった大量の批判的研究を編纂した。

共和政ローマの書物と学問。ラテン文学が始まったのは前三世紀。ナエウィウスとエンニウスは国民的な地位を得た。文法の研究は、マロスのクラテスによって初めてローマに紹介された。ランパディオやウァルグンテイウスといった文法学者が活躍したあと、ルキウス・アエリウス・スティロが登場した。アエリウスは、プラウトゥスの校訂において、アレクサンドリアのテクスト批判記号を初めてローマで用いた。アエリウスの弟子であったウァロは、演劇の真作を確定するために、文献学的手法を用いた。ウェリウス・フラックスは最初のラテン語辞書である『語の意味について』を著した。ローマの最初の公共図書館は、前39年にガイウス・アシニウス・ポリオによって作られた。キケローの友人であるアッティクスは、書写職人を多く抱えていた。古代における出版においては、著者は友人たちの手元にある写本を改変してくれと頼むことによって、すでに出版したテクストに変更を加えた。

帝政初期の発展。図書館の普及によって、教育への関心が高まった。特に学校教育において題材として取り上げられたのは、詩文ではホラティウス、ルカヌス、ウェルギリウス、テレンティウスであり、散文ではキケローとサルスティウスであった。一世紀の学者の中で、当時最も高名だったのは、ベイルートのマルクス・ウァレリウス・プロブスであった。彼はアレクサンドリアの校訂記号を用いて、ウェルギリウス、ホラティウス、そしてルクレティウスなどを研究した。

二世紀の擬古主義。創作文学が衰え、過去の作家に対する熱狂的な関心が起こった。その端緒はプロブスであるが、代表的なのはアウルス・ゲッリウスの『アッティカの夜』である。

概要と注釈書。三世紀になると、異教文化が実質的に衰退してきた。偉大な古典作品を完全に収録した写本ではなく、その概要や抄録が多く流通するようになった。注釈者としては、アエリウス・ドナトゥスとセルウィウスが代表的である。自由七学科(リベラル・アーツ)もこの時代に確定していった。

巻子本から綴本へ。二世紀から四世紀にかけて、書物は巻子本から綴本へと形態を変えていった。もともとはパピルスの巻子本だったのが、羊皮紙の綴本になったのである。後者に対する最初の言及は、マルティアリスの詩の中にある。綴本は、特にキリスト教徒の用いる聖書テクストに見られる形式でもあった。

西ローマ帝国における四世紀の異教とキリスト教。異教とキリスト教との闘争の頂点は、四世紀のアンブロシウスとクィントゥス・アウレリウス・シュンマクスの討論に見られる。異教の学識者たちを生き生きと描いた作品としては、マクロビウスの『サトゥルナリア』がある。異教文学は、明らかにキリスト教教育には適していなかったが、アンブロシウス、アウグスティヌス、そしてヒエロニュムスは、とりわけキケローのような異教文学に対し、警戒心を持ちつつも、その学識を利用した。キリスト教が優勢になってからも、学校教育はそれまでどおりの異教文学に則って行われた。それは修道院が新しい教育を施すようになるまで続いた。