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2016年6月1日水曜日

アウグスティヌスとヘブライ語聖書 Gallagher, "Augustine on the Hebrew Bible"

  • Edmon L. Gallagher, "Augustine on the Hebrew Bible," Journal of Theological Studies, NS, forthcoming.

本論文は、アウグスティヌスのキャリアの全体を見渡しつつ、彼の七十人訳とヘブライ語聖書とに対する見解がどのように変化していったかを検証したものである。ただし、彼自身はギリシア語に不得手であり、ヘブライ語に至っては読むことができなかったので、彼が読んでいた七十人訳とは古ラテン語訳であり、また彼が読んでいたヘブライ語聖書とはヒエロニュムスによるラテン語訳である。オリゲネスの仕事のおかげで、七十人訳がヘブライ語聖書と異なったテクストを持っていることは知られていたが、それでも多くのキリスト者は七十人訳に神的な地位を与え続けた。七十人の翻訳者たちによる奇跡的な訳文の一致に関する伝説的な起源のゆえにである。ヒエロニュムスはこれに反対し、「ヘブライ的真理」への回帰を主張した。

アウグスティヌスは、聖書翻訳の問題について、394年に初めてヒエロニュムスに手紙を出している(Ep. 28)。彼はヒエロニュムスがヘクサプラ七十人訳を基にしたヨブ記の翻訳を高く評価している。しかし、彼の記述にはヒエロニュムスの翻訳プロジェクトに対する誤解が含まれている。アウグスティヌスは、ヒエロニュムスによるヘクサプラ七十人訳からの翻訳と、ヘブライ語テクストからの翻訳とを混同しているのである。こうした誤解と共に、アウグスティヌスは七十人訳のヘブライ語聖書に対する優位の見解を強めたのだった。

396年に『キリスト教の教えについて』の中で、アウグスティヌスは七十人の翻訳者たちの数的な優位や専門的な技術の高さのみならず、霊的な権威について言及している。そして、翻訳者たちはヘブライ語聖書の不明瞭さゆえに、テクストに変更を施したことを指摘している。それは異教徒に対して適切な文章にするために、聖霊に導かれてなされたことだった。とはいえ、翻訳者たちは言い回しを変えただけであって、意味を変えたわけではないと主張する。そして、翻訳者たちが表現しているその意味を明らかにするために、ヘブライ語テクストを検証することは有効であるとも認めている。

最初の手紙から10年近く経っても返事をもらえなかったため、アウグスティヌスは403年に再度ヒエロニュムスに手紙を書いている(Ep. 71)。このときには彼はヒエロニュムスによるヨブ記のヘブライ語テクストからの翻訳を確認している。アウグスティヌスがヘブライ語からの翻訳を拒否するのは、それが正確になされているかを多くのキリスト者が確認できないからであった。彼はオエアの教会で起きたヨナ書の解釈関する事件など、具体的な例を挙げてこの弊害を訴える。そして、教会が七十人訳を支持するべき理由は、第一に、東方教会と西方教会との統一性を維持するため、そして第二に、ラテン語の翻訳を確認できるギリシア語話者に簡単にアクセスできるためであった。このことについて論文著者は次のように述べている:
The obscurity of the Hebrew allows for multiple interpretations, for which, in Augustine's mind, confirmation is impossible due to general Christian ignorance of Hebrew. It is much easier to confirm a translation from Greek, and the Seventy translators, with their excellent qualities (not to mention divine guidance), no doubt found the appropriate rendering for their Gentile audience. (p. 8 of 18)
404年にヒエロニュムスはようやくアウグスティヌスに返事を送った(Ep. 112)。この中で、ヒエロニュムスは、アウグスティヌスがクリティカル・サインの意味を分かっていないこと、自身の新約聖書の訳文を正しいと考えるなら旧約聖書も同様に考えてほしいこと、自身の翻訳は七十人訳に取って代わるものではないことなどを述べている。

これに対するアウグスティヌスの返信(Ep. 82)は、両者が聖書翻訳について直接語り合った最後の文書である。当時よく言われていた、ユダヤ人がヘブライ語聖書を改竄しているという見解を、アウグスティヌスは取らなかった。彼はもっと穏健に、七十人訳がヘブライ語聖書と異なっているなら、そこには翻訳者の意図があるのであるから、それをあげつらって、七十人訳に慣れたキリスト者に不必要な波風を立てることはないと主張した。ただし、ヒエロニュムスの翻訳がもし本当にヘブライ語聖書と一致するなら、それを検討することに吝かではなかった。

この書簡と同じ頃に書いた『福音書記者の調和(De consensu Evangelistarum)』において、アウグスティヌスは、福音書間における違いと、ヘブライ語聖書と七十人訳との違いとを比較している(たとえば、マタ21:5とヨハ12:15とにあるゼカ9:9について)。そして、彼によれば、七十人の翻訳者たちが行使している言い回しの自由さとは、福音書記者たちによるそれと同じものであり、それはあくまで表現のバリエーションにすぎないという。翻訳がヘブライ語聖書に近いに越したことはないが、翻訳者たちはヘブライ語聖書の言い回しから離れても、原文の意味や意図を保持しているのである。

419/20年頃に書かれた『七書研究(Quaestiones in Heptateuchum)』において、アウグスティヌスはヘブライ語聖書が解釈に役立つことを認めている。そのときに彼が使ったヘブライ語聖書とはもちろんヒエロニュムスによるものだが、彼はその名前に言及していない。

アウグスティヌスが七十人訳とヘブライ語聖書との問題に関して最も詳細な議論をしているのは、『神の国』第15巻と第18巻である。彼は、使徒たちが七十人訳から引用していることから七十人訳の権威を強調するが、おそらくヒエロニュムスの影響で、使徒たちはヘブライ語聖書からも引用していることを認めている。第15巻においては創5章の系図が扱われているが、そこでの時系列について、アウグスティヌスはヘブライ語聖書が正しい数字を保存していると述べる。七十人訳は、翻訳者でよってでもユダヤ人によってでもなく、写字生によって損なわれてしまったために、別の時系列を持っている。この場合は誤りはヘブライ語聖書に照らして修正されなければならない。

一方で、第18巻においては、ヨナ書3:4における数字の違い(ヘブライ語聖書:40日、七十人訳:3日)が問題になるが、ここではアウグスティヌスは翻訳者たちが意図的に数字を変えることで、単なる歴史ではなく、キリストの預言を意味しているのだと述べている。ただし、ここにおいて初めてアウグスティヌスは、ヘブライ語聖書の数字もまたキリストに関する霊的な意味が隠されているのだと主張する。すなわち、彼は七十人訳とヘブライ語聖書とは、一見一致していないように見えるが、実際には調和しているというのである。

アウグスティヌスは七十人の翻訳者がヘブライ語聖書からテクストを変更するときのモデルとして、第一に、聖霊が別の言い回しで同じことを言っている場合、そして第二に、聖霊が別のことを言っている場合を挙げている(18.43)。ヨナ書の例はこのうち一つ目の場合に相当する。すなわち、ヘブライ語聖書の40日と七十人訳の3日とは、一見数字は違えど、キリストにおいて顕示された霊的な現実においては同じことを表現しているというのである。

このようにして、アウグスティヌスは『神の国』において、七十人訳とヘブライ語聖書とが共に霊的に同じことを述べているという結論に至った(altitudo prophetica)。七十人訳は、使徒による使用、奇跡的な一致の原因譚、そして教会での受容によって、一方でヘブライ語聖書は預言者によって語られた言葉の記録、使徒による使用、そしてときに七十人訳よりも正確な記録として、両者は共に権威があり、共に神的だからである。先行研究者(Josef Lössl, Anne-Marie la Bonnardièreら)がよりミニマリスト的立場を取るのに対し、論文著者はこの点を強く強調している。ただし、アウグスティヌスは礼拝での使用に関しては、ヘブライ語聖書の意義を押し出すことはなかった。七十人訳に慣れた会衆に波風を立てたり、東方教会との統合を危うくすることをよしとしなかったからである。

以上の経緯を踏まえて、論文著者は聖書テクストのバリエーションに関する可能性を、3つの観点からまとめている:第一に、ヘブライ語聖書が損なわれている場合。ただし、アウグスティヌスはこの可能性は考慮に入れていない。なぜなら、この可能性が仮にあったとしても、すでに七十人の翻訳者によって修正されているはずだからである(むろん、実際には死海文書を見れば分かるとおり、ヘブライ語聖書自体に複数の伝承がある)。

第二に、ギリシア語写本のテクストが損なわれている場合。これは『神の国』第15巻で扱った創5章の系図の問題がそれに当たる。アウグスティヌスはその理由は写字生の誤りであるとして、この場合は七十人訳でもテクストが修正されなければならない。

第三に、七十人の翻訳者が意図的にテクストを改変した場合。これは『神の国』第18巻で扱ったヨナ書のケースが相当する。ヒエロニュムスはこうした改変を否定的に捉え、それゆえに七十人訳のテクストは信用できないと考えたが、アウグスティヌスはこれを肯定的に捉え、それゆえに七十人訳に霊的な権威があると考えた。そしてそのとき、七十人訳と異なったテクストを持つヘブライ語聖書は、その七十人訳の霊的な異同に気付くために重要な存在であると評価したのである:
Comparison of the Greek with the Hebrew—accessing both in Latin translation—allows the serious student of God's word to perceive the deeper significance that is inaccessible to those who use only one text. (p. 18 of 18)
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