2016年4月29日金曜日

ヨハネ7:37-38に関する教父の聖書解釈 Rahner, "Flumina de ventre Christi"

  • Hugo Rahner, "Flumina de ventre Christi: Die patristische Auslegung von Joh 7, 37. 38," Biblica 22 (1941), pp. 269-302, 367-403.

本論文は、ヨハネ福音書7:37-38を教父たちがどのように解釈したかを詳細に分析したものである。ヨハ7:37-38はイエスの言葉であり、伝統的に次のような意味で読まれてきた:
もし誰かが渇いているなら、私のところに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人(=私を信じる者)の内から命の水の川が流れ出るようになる。
ἐάν τις διψᾷ ἐρχέσθω πρός με καὶ πινέτω.
ὁ πιστεύων εἰς ἐμέ καθὼς εἶπεν ἡ γραφή, ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίας αὐτοῦ ῥεύσουσιν ὕδατος ζῶντος.
M.-J. Lagrangeは、こうした従来の読みではなく、コンマを打つ場所を変えることで、次のような読みにするべきだと提案した(1936年):
もし誰かが渇いているなら、私を信じる者は、私のところに来て飲みなさい。
聖書に書いてある通り、彼(=イエス)の内から命の水の川が流れ出るようになる。
ἐάν τις διψᾷ ἐρχέσθω πρός με καὶ πινέτω ὁ πιστεύων εἰς ἐμέ.
καθὼς εἶπεν ἡ γραφή, ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίας αὐτοῦ ῥεύσουσιν ὕδατος ζῶντος. 
従来の読みでは、「彼の内から」というフレーズの「彼」は「私を信じる者」となるが、Lagrangeの読みでは、「イエス」と読むことができるようになる。Lagrangeはむろんのこと、論文著者もまた、Lagrangeの読みの方が神学的な聖書解釈としては正しいと考えている。ただし、論文著者はそうした現代的な解釈に飛びついて、どちらがいいかを決める前に、まず伝統的に教父たちがどのようにこの箇所を解釈してきたのかを分析しているのである。

そのために、論文の第一部において、著者は従来の読みを採用した教父たちを取り上げ、(1)「信じる者」が命の水の源となるとはどういう意味なのか、(2)「聖書に書いてあるとおり」というときの旧約の引用元はどこなのか、という二点が検証されている。続いて第二部では、Lagrangeと同じ読みを採用した教父たちを取り上げ、「イエス」が命の水の源であるという解釈の起源はどこにあるのか、(2)旧約の引用元はどこなのか、という二点が検証される。ここでは、第一部のみをまとめることにする。

命の水の源を「信じる者」とする解釈はオリゲネスに端を発する。オリゲネスのヨハネ福音書注解において、7章部分は失われてしまっているので、彼の見解は他の注解から探してこなければならない。その上で、論文著者によれば、オリゲネスはヨハネの引用元は七十人訳の箴言5:15-16であると考えていたという(オリゲネスの解釈の神学的な側面のまとめは省略):
πῖνε ὕδατα ἀπὸ σῶν ἀγγείων
καὶ ἀπὸ σῶν φρεάτων πηγῆς.
μὴ ὑπερεκχείσθω σοι τὰ ὕδατα ἐκ τῆς σῆς πηγῆς,
εἰς δὲ σὰς πλατείας διαπορευέσθω τὰ σὰ ὕδατα·
あなたの入れ物から飲みなさい
またあなたの泉の貯水池から〔飲みなさい〕
あなたの井戸からあなたに水を溢れさせてはならない
むしろあなたの水をあなたの通りへと流れさせなさい
オリゲネスは、文献学的には、3行目の否定語はあとからの挿入の可能性があることを指摘している。神学的には、フィロンの解釈を取り入れつつ、この箇所には結婚における誠実さなどといった、神秘的な意味合いがあると考えていた。

命の水の源を「信じる者」と見なすこのオリゲネスの解釈は、アタナシオス、ディデュモス、アレクサンドリアのキュリロス、エルサレムのキュリロス、エウセビオスなどといったアレクサンドリアの伝統において、またバシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオスといったカッパドキアの伝統において、さらにモプスエスティアのテオドロス、クリュソストモスといったアンティオキアの伝統において、そしてアンブロシウス、ヒエロニュムス、ヒラリウス、アウグスティヌスといったラテン世界の伝統において、それぞれ受け継がれていった。

中でもオリゲネスの解釈を有名にさせたのは、アンブロシウスとヒエロニュムスの二人であった。特にアンブロシウスは、ラテン語のオリゲネスといってもいいほどに、オリゲネス(とフィロン)の聖書解釈に通じていた。アンブロシウスは「命の水」を聖霊および福音書的な認識と見なし、その水が湧き出る場所である「腹」をヌースと見なした。彼は、オリゲネスが指摘したように、箴言をヨハネの引用元であると見なした。そして、旧約の歴史的な出来事をキリスト教的に内面化するような寓意的解釈によって、この箇所を、新約聖書という泉から水を飲んだ者が今度は別の人にとっての泉になるという意味で捉えたのだった。

ヒエロニュムスは、ウルガータ聖書という新しい翻訳を作成したことで、七十人訳の権威を失墜させたとして激しく批判されていたが、ヨハ7:38におけるイエスの台詞の分析に基づいて、自身の翻訳を弁明したのだった。すなわち、ヒエロニュムスによれば、この箇所においてイエスが引用している旧約箇所は、ヘブライ語テクストとは一致するが七十人訳とは一致しないというのである。ただし、彼はその旧約箇所の引用元がどこであるかについては、ただ箴言であると指摘するのみで、具体的な箇所は述べていない。そこで、論文著者は、オリゲネスとアンブロシウスの見解に基づいて、ヒエロニュムスも引用元を箴5:15-16と考えていたに違いないと結論する。ただし、論文著者が言及しているとおり、この結論は、彼以前に16世紀スペインのイエズス会士フランツ・トレドによってすでに導かれていた。一方で、ヒエロニュムスの校訂版を編纂した18世紀のイエズス会士Dominic Vallarsiは、箴18:4こそが引用元であると指摘したが、論文著者はこの決定は恣意的であると断じている。

このように、アンブロシウスとヒエロニュムスとは、ヨハネにおけるイエスの台詞には旧約からの引用があり、それは箴言であると考えていたわけだが、エルサレムのキュリロス、モプスエスティアのテオドロス、クリュソストモス、そしてアレクサンドリアのキュリロスらは、そもそもこれを特定の引用とは見なさなかった。彼らによれば、イエスは旧約を正確に引用したのではなく、むしろより一般的な意味で聖書の全体を指し、水と泉のメシア的救済のイメージを利用しつつ、「聖書が信じることを命じているように、私を信じる者は」と述べているのだという。

2016年4月17日日曜日

教師としての詩人 Russell, "The Poet as Teacher"

  • D.A. Russell, "The Poet as Teacher," in Criticism in Antiquity (Berkeley: University of California Press, 1981), pp. 84-98.
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本章は、古代の文芸批評における、詩人の役割について扱っている。アリストファネスはかつて、子供たちが教師を持っているように、大人たちは詩人を持っていると述べた。古代のギリシア・ローマにおいて、詩人の仕事はある種の教育を授けることでもあったのだ。

ただし、詩人をこのようにある意味で実用的に理解するというのは、必ずしも普遍的な見解ではなかった。むしろ詩は娯楽を与えるためのものであるというのが前5世紀からの共通見解であった。それが次第に、娯楽と実用性とのコンビネーションが賢明な詩人の目的だったと理解されるようになった。ヘレニズム期の理論家であるネオプトレモスは、実用性は詩の内容から、娯楽は言葉の響きから来るものだと説明した。他にも、詩人の目的な徳を教えることであり、娯楽は偶然それについてくるものだと説明する者もいた。

このような議論があったのは、詩が主題とする神話の中に、しばしば倫理的に非難されるべき箇所があるからであった。こうした詩の倫理について最初に批判した人物としては、クセノファネスが挙げられる。彼は、倫理の教育のために社会的な機会を用いるような詩のスタイルを推奨していた。これは翻って言えば、少なくとも前5世紀までは詩の伝統的な主題は非倫理的であると見なされていたということである。またヘロドトスは、ホメロスが物語の娯楽要素である美的効果にこだわるあまり、事実を曲げていることを批判した。

このように、倫理的な低さおよび事実の歪曲に関して、詩は否定的に評価されることがあったわけだが、これに対し、二つの点から擁護がなされた。第一に、詩が祭儀、法、そして生活の芸術において文明的な貢献をしたこと(アリストファネス、ホラーティウス)、第二に、詩人が問題のある物語を寓意化し、その内的な意味を明らかにしたことである。

ただし、プラトンはこれらの擁護の両方を否定した。『国家』において、プラトンはさまざま徳について語っているが、ホメロスにおける英雄や神々は、この徳のことごとくに当てはまらないのである。プラトンによれば、詩は明らかに読者の感情に影響を及ぼし、そうして刺激された感情は人間の自然な傾向や弱さを推し進めてしまうのだという。プルタルコスは、プラトン主義者として、この考え方をむろん引き継いではいるが、彼は詩の文脈を理解することと、詩人の言葉や状況の特殊性を歴史的に理解することなどを重視した。プラトンもプルタルコスも、詩の教育的な力を認めており、詩が読者の倫理的な姿勢を決めるとしている。それゆえにこそ、詩は厳格にコントロールされねばらないのである。

アリストテレスは、より複雑な見解を持っていた。彼が重視していたのは、詩の美的な質であり、その倫理性についてはほとんど関心を示さなかった。彼は、必要とあれば、詩において悪を模倣することも認めていた。アリストテレスによれば、確かに詩にも教育的な効果はあるが、あくまでそれは二次的で、詩の娯楽性が学びを含んでいるのだと考えた。すなわち、仮に詩が教育的あるいは実用的なレベルにおける有用性を持っていたとしても、それはあくまで付随的なものだというのである。アリストテレスは、詩人を倫理的な観点から批判する者たちの言説を一切認めようとはしなかった。

アリストテレスの考え方は、どうやら後代の者たちによく理解されていなかったような節があるという。ホラティウスはアリストテレスの影響を強く受けていたが、それでも彼は詩の倫理的な側面についてよく述べていた。と同時に、詩にとって真実であることは主たる目的ではなく、聴衆の関心を引くことが肝要であるとも考えていた。

アレクサンドリアの文献学者たちは、詩の目的をはっきり娯楽(プシュカゴギア)であると宣言した。彼らによれば、詩の中に神話的で非合理なことが出てきても、それをもって詩人を非難するのは的外れだと述べた。なぜなら、詩人の目的は真実を語ることではなかったからである。カリマコスなどは特に、詩のテクニックについて主として関心を持った。一方でストア派は、はっきりとホメロスは教育的であったと宣言した。ストア派によれば、詩のテクニックは、教育的な需要を満たすためのものであるという。そしてこうした見解を持ちつつ、ストア派が詩を解釈するに際して用いたのが、寓意的解釈であった。

ヘラクリトスは、寓意的解釈の萌芽を、アルキロコスやアルカイオスら初期の抒情詩人の中に見ている。ヘラクリトス自身の寓意的解釈は、神々や神話の寓意的解釈のみならず、抽象名詞の擬人化のようなものまで含んでいる。そしてそのようにして行なった解釈を、詩の作者の本当の意図だったと考えた。彼の考え方においては、寓意的解釈と象徴化とがあまり区別なく同居しているのである。

2016年4月8日金曜日

古代の詩人たちに関するコルヌートスの見解 Tate, "Cornutus and the Poets"

  • J. Tate, "Cornutus and the Poets," The Classical Quarterly 23 (1929), pp. 41-45.

コルヌートスは、ネロ帝の時代に活躍したストア派の哲学者である。本論文は、コルヌートスがホメロスやヘシオドスといった詩人たちの哲学的な側面をどのように評価していたかを検証したものである。

ギリシア神学を扱った論文の第17章において、コルヌートスは、詩人たちが歌う神話を安易に寓意的に解釈することを批判している。これは寓意的解釈の有効性を主張するストア派の主流派とは異なる見解である。コルヌートスによれば、ソクラテス以前の哲学者も神話を用いたが、詩人たちは神話のロマンスの部分ばかりを取り上げ、古代の哲学者たちによる寓意を部分的にしか伝えていないのだという。

コルヌートスの寓意的解釈自体はストア派由来のものであるが、詩人に対する低い評価はその限りではない。というのも、クリュシッポスは、古代の詩人をあたかもストア派であったかのように語っていることをキケローから批判されているし、ストラボンはホメロスの詩は哲学論文であり、ホメロスは哲学者であると見なしているし、そして寓意的解釈者のヘラクリトスはホメロスの哲学と知恵について語っているからである。とはいえ、ホメロスがストア派において最も理想的な人物であるかといえばそうではない。ストア派哲学者たちは、ホメロスが自分の創作を入れていること、彼の知識が不足していること、そして大衆を相手にしていることなどを批判してはいる。しかし、ホメロスがそうした非科学的な箇所を含みながらも、寓意的解釈によって正しい知識をも伝えようとしていることを、ストア派は高く評価していたのである。

それゆえに、詩人の誤りの強調と、その哲学的な性格の否定とは、コルヌートスがストア派から異なっている特徴になっている(彼は、語源学的解釈に関しても、クレアンテスやクリュシッポスよりも穏当なものをよしとした。言葉遊びはなるべく慎まなければならないという方針だったからである)。こうしたコルヌートスの逸脱は、キケローによる批判(古代の詩人を、現在から見ることで、あたかもストア派の哲学者であったかのように解釈するべきではない)に対するコルヌートスなりの回答であったと思われる。コルヌートスによれば、古代の詩人たちは確かにストア派哲学者ではないが、彼らの作品における神話は、ストア派的な寓意的解釈と親和性が高く、また彼らよりも前の哲学者らの見解を反映しているという。

コルヌートスにおけるこうした非ストア派的な考え方は、アリストテレスに依拠したものであると思われる。アリストテレスは、神話から、エッセンスとなる神学を抽出し、残りは創作だから必要ないものだと考えた。また彼は、ずっと古代にも哲学はあったのだが、それは詩人たちの神話の中にしか残っていないのだとも考えていた。

以上から、コルヌートスは、詩人たちが哲学的な真理を含んでいると考える点においてはアリストテレス的であるが、それがほんのわずかでしかないと考えるアリストテレスに対し、もっと多くがあるはずだと考える点においてはストア派的である。一方で、すべてのストア派的な原理が詩人たちの作品にあるとは考えなかった点においては非ストア派的であるが、詩人たちが哲学的なシステムを必ずしも伝えなくてもいいと考えていた点では非アリストテレス的である。

2016年4月1日金曜日

文献学者アリスタルコス Pfeiffer, "Atistarchus: The Art of Interpretation"

  • Rudolf Pfeiffer, "Atistarchus: The Art of Interpretation," in History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age (Oxford: Clarendon Press, 1968), pp. 210-33.
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サモトラケ島で生まれたアリスタルコスは、人となりはあまり知られていないが、外見に気を使わない人物だったと言われている。彼は第五代のアレクサンドリア図書館長として奉職しつつ、他の図書館長たちと同様に、プトレマイオス王家の家庭教師としても活躍した。中でも彼はプトレマイオス7世ネオス・フィロパトルと親しかったために、前145/4年頃にこの王が政争でプトレマイオス8世エウエルゲテス2世に敗れると、アリスタルコスはキプロス島に逃れたのだった。シュラクサイのモスコスを始めとする40人もの弟子がいたというが、こうした弟子たちもロードス島、ペルガモン、アテーナイなどへと逃れたために、アリスタルコスのあとの図書館長は、キュダスという何の教養もない軍人が勤めることになった。

アリスタルコスの仕事は、先人たちが残したギャップを埋めることであった。彼以前の図書館長たちは、自分が校訂した作品に関する著作をするときに、専ら「モノグラフ(συγγράμματα)」を書いたが、アリスタルコスはモノグラフのみならず、「注解(ὑπομνήματα)」をも得意とし、一説では800巻もの注解をものしたという。アリスタルコスの注解は、『イーリアス』のヴェネツィア写本の欄外にあるスコリアに残されている。このスコリアは、ディデュモス、アリストニコス、ヘロディアン、そしてニカノルという4人の学者によって作成された。

アリスタルコスの注解の研究は、近代のホメロス文献学と密接に関わっている。1788人に発見された先のヴェネツィア写本をもとに、F.A. WolfはProlegomena ad Homerum (1795)を上梓した。この中でWolfは、アリスタルコスが書いたのは注解だけであり、また彼が作成したホメロスの校訂版は複数ではなかったと主張した。しかし、これに対してK. LehrはDe Aristarchi studiis Homericis (1833)において反論し、ディデュモスは少なくともアリスタルコスによる二種類の校訂版と二種類の注解を持っていたと主張した。20世紀になると、H. Erbseが、アリスタルコスの著作が言及されるときに用いられる、ἐκδόσεις, διορθώσεις, ὑπομνήματαといった言葉の用法を検証し、第一に、アリスタルコスが書いた注解はおそらく一種類であること、そして第二に、彼は独自の校訂版を作成することはなかったことを主張した。いわば、ErbseはWolfの主張に立ち返ったのである。

以上は近代のアリスタルコス観であるが、古代においては、たとえばディデュモスはアリスタルコスがホメロスのテクストの二種類の改訂版を作成したと述べるが、アリスタルコスの弟子だったアンモニオスは一種類の版のみしかなかったと述べる。また注解に関しては、Aスコリアは複数の注解があったと報告している。こうしたことから、論文著者はこの経緯を以下のようにまとめている:第一に、アリストファネスの校訂によるテクストに基づいたアリスタルコスの最初の注解が出版され、第二に、アリスタルコスによるテクストの改訂がなされ、第三に、その自身による改訂版を用いた二つ目の注解が出版され、最後に、彼自身による再度の改訂がなされた。

アリスタルコスは、ゼノドトスとアリストファネスによって導入された欄外における印を用いた。パピルスのスクロールを用いていた時代には、テクストと注解とは別のスクロールに書かれており、テクストに使われた印は、注解における本文引用や見出しにおいても繰り返されていたが、コーデックスを用いるようになると、欄外に十分に注解を付すことができるようになった。

アリスタルコスはこのようにホメロスを重点的に取り上げはしたが、他の非ホメロス的文学に関する文学批評をも残している。ヘシオドスのような教訓叙事詩、さまざまな抒情詩、ピンダロス、バッキュリデス、アルクマン、ステシコロス、サッフォー、アルカイオス、またアイスキネス、ソフォクレス、エウリピデス、アリストファネスらの劇にも注解コメントを残している。さらに、アリスタルコスはヘロドトスのような散文作者に初めて注解コメントをつけたことでも知られている。

このように、たくさんの注解を残したアリスタルコスの解釈原理として有名なのは、ポルフュリオスが伝えている、「ホメロスをホメロスから説明する(Ὅμηρον ἐξ Ὅμήρου σαφηνίζειν)」というものである。本当に彼がこうした言い回しをしたのかは不明だが、少なくともこの原理は他の箇所から知られるアリスタルコスの意見と一致しているという。論文著者が考えるところでは、この言い回し自体はポルフュリオスによる発案であろうと考えている。

注解をする中で、アリスタルコスは文法的、あるいは韻律学的な発見もしている。実際に、文法的な類推は彼の手法のひとつであった。それによって、アリスタルコスは、「非ホメロス的な(οὐκ Ὁμηρικῶς)」ところや「後ホメロス的/ありきたりな(κυκλικῶς)」ところを発見し、そうした箇所を消去するのではなく、「改竄(τὸ ἀθετεῖν )」として印をつけたのだった。アリスタルコスによって整えられたこの方法は、のちの学者たちによっても踏襲されることになった。

アリスタルコス自身の、ホメロス詩観としては、エラトステネスと同様に、ホメロスは教育ではなく娯楽を目的として詩を書いたというものであった。いうなれば、アリスタルコスは、ホメロスの創造性と陳腐さとを区別するアリストテレス的・カリマコス的な見解を受け入れ、クリティカル・サインを用いることでそれを明確にしたわけである。

プトレマイオス7世と8世との政争によって、アリスタルコス以降、アレクサンドリア図書館における卓越した学者たちの伝統は途絶えてしまった:
They were, as we have seen, connected by personal links, as the younger scholars were the pupils of the previous generations; but there were no διαδοχαί, as in the philosophical schools with their particular δόξαι. The great Alexandrians were united, not by doctrine, but by the common love of letters, and every one of them was an independent individuality.