2016年3月31日木曜日

エラトステネスの科学と文学批評 Pfeiffer, "Science and Scholarship: Eratosthenes"

  • Rudolf Pfeiffer, "Science and Scholarship: Eratosthenes," in History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age (Oxford: Clarendon Press, 1968), pp. 152-70.
History of Classical Scholarship: From the Beginning to the End of the Hellenistic Age (Oxford University Press academic monograph reprints)History of Classical Scholarship: From the Beginning to the End of the Hellenistic Age (Oxford University Press academic monograph reprints)
Rudolph Pfeiffer

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古典学の歴史に関する古典的名著から、エラトステネスの項を読みました。アテネにおけるアリストテレスの学派からの影響を受けて、アレクサンドリアでも数学や自然科学が盛んになった。彼らはさまざまな事柄に対する「驚き(θαυμάσια)」を愛していた。中でもエラトステネスは、学者であり詩人であると共に、誰よりも科学者と呼ばれるに相応しい、広い分野に渡る関心を持った人物であった。ただし、関心は広いが一流ではなかったと見なされていたために、ベータやペンタスロス(五種目選手)などと揶揄された。著者はこのエラトステネスがカバーした範囲の広さについて、以下のように書いている:
Who is courageous enough to measure himself even as editor against the university of Eratosthenes, philosopher, mathematician, astronomer, chronographer, geographer, grammarian, and poet?
エラトステネスは、彼の前任のアレクサンドリア図書館長であったアポロニオスおよび、彼のあとに図書館長となったアリストファネスらと同様に、プトレマイオス王家の家庭教師としても奉職した。数学者でもあったエラトステネスは、アルキメデスとも親交があった。アルキメデスは一書をエラトステネスに奉げている。

このように、さまざまな分野で活躍したエラトステネスであったが、自身をφιλόλογοςであると考えていたようである(この言葉自体もエラトステネスが作ったものと見なされている)。フィロロゴスとはすなわち、話したり議論したりするのを愛する者ということで、ときに皮肉な意味でも用いられることがあったが、エラトステネスの理解では、ロゴス全体に関わるさまざまな学術に親しんでいる者のことを指す言葉であった。当時の学者の呼び名としては、他にκριτικόςやγραμματικόςなどがあり、特に後者はもともと韻律の専門家という意味から次第に学者一般という意味になっていったが、エラトステネスは自らをフィロロゴスと規定していた。他にフィロロゴスと呼ばれた学者には、アテーナイのアポロドロスやスケプシスのデメトリオスなどがある。また、ペルガモン学派はフィロロゴスと呼ばれることを拒否し、クリティコスと呼ばれることを好んだという。

エラトステネスの著作は多岐にわたる。まず『古代の喜劇について』という古代のアッティカ喜劇に関する学術書がある。これは喜劇の実際のパフォーマンスや、喜劇に関するアテーナイの学術に刺激されて書かれたものと考えられる。こうした喜劇に関する著作では、エラトステネスの科学者としての面はあまり見られない。一方で、『オリュンピオニカイ』や『クロノグラフォイ』といった著作では、オリュンピア紀を基にした科学的な時系列を研究している(オリュンピア紀以前の出来事に関してはスパルタの王のリストを用いたようである)。また彼の最も偉大な業績である『ゲオグラフィカ』全3巻は、言葉自体もエラトステネスが作ったものであり、ポセイドニオスやストラボンに大きな影響を与えた。『カタステリスモイ』という著作では、星座のカタログと、それぞれの星座の起源に関する神話的かつ民俗的な物語とが扱われている。

エラトステネスの文学批評の特徴としては、文学の効用を教育(διδασκαλία)ではなく娯楽(ψυχαγωγία)のみであると規定したことである。彼はホメロスを始めとした詩人を歴史家としても地誌学者としても見なさなかった。詩には必ずしも現実が反映されていないからである。この考え方には、むろん批判や反論もあった。たとえば、エラトステネスとほぼ同時代人であったパリウムのネオプトレモスや、のちにはホラティウスらは、文学には教育も娯楽もあると主張した。

エラトステネス自身も、王に宛てたエピグラムなどの詩を残しているが、それらは彼の先生であったカリマコスのスタイルからの影響を受けているという。すなわち、彼自身は詩を娯楽と言い切ったわけだが、彼の詩のスタイルは、教訓詩を得意としたカリマコス流だったわけである。とはいっても、詩作はあくまで副業であった。

2016年3月23日水曜日

ホメロスの寓意的解釈とフィロン Kamesar, "The Logos Endiathetos and the Logos Prophorikos in Allegorical Interpretation"

  • Adam Kamesar, "The Logos Endiathetos and the Logos Prophorikos in Allegorical Interpretation: Philo and the D-Scholia to the Iliad," Greek, Roman, and Byzatine Studies 44 (2004), pp. 163-81.

アレクサンドリアのフィロンは、ストア派哲学に見られる、ロゴス・エンディアテトス(内的ロゴス)とロゴス・プロフォリコス(言い表されたロゴス)の原理を、自身の聖書解釈に適用していた。ストア派の考え方においては、我々が自分の理性の中で思惟するときに用いるのがロゴス・エンディアテトスであり、しゃべるときに自分の思考を表現するときに用いるのがロゴス・プロフォリコスであるとされる。五書を解釈する際に、フィロンはモーセをロゴス・エンディアテトスに、そしてアロンをロゴス・プロフォリコスに当てはめている(『劣者の奸計』38-40、『移住』76-81, 84, 169、『改名』208、『出エジプト記問答』2,27, 44)。

本論文は、それぞれのロゴスを物語の登場人物の性格に当てはめるという、フィロンによく似た解釈が『イーリアス』のDスコリアにも見られることから、互いの思想的な影響関係を検証したものである。『イーリアス』のスコリアは3種類あることが知られており、しばしば、Aスコリアはcritical scholia、Bスコリアはexegetical scholiaと呼ばれる。対するDスコリアは、主としてホロメスの言葉遣いの単純な説明や、神話の補足を扱っているが、それ以外にも寓意的解釈が保存されている場合がある。

本論文が扱う『イーリアス』5.385-391においては、神々を攻撃した人間の例として、軍神アレスを縛ったオトスとエフィアルテスが登場するが、Dスコリアにおいて、アレスは「怒り」と、そしてオトスとエフィアルテスは「教育におけるロゴイ」と解釈された。オトスは、ある者が耳から指導を聞くことで教育されるときに用いられるロゴス・プロフォリコスを表しており、エフィアルテスは、ある者が自然(フュシス)によって自発的に発展するときに用いられるロゴス・エンディアテトスを表している。

明らかに「教育」と結びついたロゴス・プロフォリコスはともかく、自発的かつ自然的に発達するというロゴス・エンディアテトスはどのように「教育」と関係しているのか。そこで論文著者は、ギリシア思想史においてプラトンやイソクラテスの時代から伝統的に存在する、修辞学と哲学との衝突を引き合いに出す。フィロンの思想において、ロゴス・プロフォリコスの訓練は修辞学と、一方でロゴス・エンディアテトスの訓練は哲学と結びついていた。人が神と交流するとき、声を出す器官は姿をひそめ、代わりに言葉を介在しないロゴスが現れるわけだが、この後者の高次のロゴスが、哲学と結びついたロゴス・エンディアテトスなのである。Dスコリアもまた、二つのロゴスを「教育におけるロゴイ」と呼ぶとき、この前提を持っていたと考えられる。

Dスコリアの成立年代を特定することは難しいが、論文著者はDスコリアの解釈の特徴から、おそらくヘレニズムの初期から中期にかけてではないかと論じている。Dスコリアは、『イーリアス』における二人の登場人物として評される「教育におけるロゴイ」が、アレスとして表される「怒り」を縛るのだと解釈しているわけだが、この「教育が怒りをコントロールする」という見解と同様のものが、ポセイドニオス、カリトン、キュレネのシュネシオス、フィロン、そしてカッシウス・ディオに見出されるのだという。論文著者は、ここからこの考え方が少なくともヘレニズム中期にまで遡ると考えている。

論文著者は、Dスコリアの解釈の続きから、同書における寓意的解釈の哲学的な視点を2つ指摘している。第一に、怒りと欲望(エピテュミア)とを並置することは、魂の非理性的な部分に関するプラトン思想との関わりを想起させる。これは、ポリュビオス、パナイティオス、そしてバビロニアのディオゲネスらにも見られる。第二に、解釈の続きで今度はヘルメスがロゴスを表し、同時に怒りがやや肯定的に描かれるが、こうした肯定的な怒りは勇気と関わっているとして、テオフラストス、パナイティオス、そしてバビロニアのディオゲネスらに見られるものであるという。以上の2点から、論文著者は、Dスコリアの哲学的な背景は、ストア派はストア派でも、バビロニアのディオゲネスとかなり近いものであると考えている。

本論文の結論として、著者は以下の3点を挙げる:第一に、フィロンによるモーセとアロンとをそれぞれロゴス・エンディアテトスとロゴス・プロフォリコスとに当てはめるという寓意的解釈は、Dスコリアにおけるオトスとエフィアルテスとの解釈にインスパイアされたものである。第二に、フィロンのテクストとDスコリアとを比較すると、両者はストア派の考え方を「応用」していることが分かる(修辞学と哲学とをそれぞれのロゴスに結び付けることで、全体的に教育の議論へと持っていく、など)。第三に、この解釈はヘレニズム期のアリスタルコスの時代にはすでにあったものであり、おそらく彼もこれを知っていた可能性がある。

ヒエロニュムス概論 Sparks, "Jerome as Biblical Scholar"

  • H.F.D. Sparks, "Jerome as Biblical Scholar," in The Cambridge History of the Bible, Vol. 1, From the Beginnings to Jerome, ed. P.R. Ackroyd and C.F. Evans (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), pp. 510-41.
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C.F. Evans Peter R. Ackroyd

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本論文は、1970年時点でのヒエロニュムス研究の成果をまとめたものである。再読なので、興味を引かれた部分だけを抜き出しておきたい。

ヒエロニュムスの処女作は、彼がアクィレイアにいた頃に書いたとされる『オバデヤ書注解』であった。これはオバデヤ書に対し、歴史的解釈ではなく寓意的解釈を施した作品であり、後年(403年)に再び取り組んだ『オバデヤ書注解』の序文において、自身でも若書きであることを認めて恥じていた。この処女作は、ヒエロニュムスの希望通り現存しない。

ヒエロニュムスは385年に、後ろ盾だった教皇ダマススが崩御し、シリキウスが次の教皇になると、ローマを離れてパレスチナへと向かったが、その前にエジプトのアレクサンドリアに立ち寄り、盲目のデュデュモスのもとで聖書解釈について学んだ。

ヒエロニュムスの晩年の410年に、西ゴート族のアラリックによってローマが陥落し、ヒエロニュムスも多くの友人を亡くしたが、そのことについては、『エゼキエル書注解』第1巻序文に詳しい。

ヒエロニュムスは新約聖書に関しては、教皇ダマススの指示によって、改訂版を作成したことが知られているが、それは新約聖書全体ではなく、福音書のみと考えられている。その理由は、第一に、アウグスティヌスがヒエロニュムスの福音書にのみ言及していること、そして第二に、ラテン語の使徒行伝、書簡、黙示録は、ヒエロニュムスの翻訳スタイルには似つかわしくないことが挙げられる。

ヒエロニュムスの聖書改訂および翻訳において、彼の存命時から受け入れられていたものは少ない。例外は福音書であるが、それは教皇のコミッションを得たものであること、そして新しい翻訳ではなく既存の翻訳の改訂であったことが理由として考えられる。教会の者たちは、自分たちが読む聖書の好みはいつも保守的であった。ただし、アクイタニアのプロスペル、ヴィエンヌのアウィトゥス、グレゴリオスI世、セビリアのイシドロスらはヒエロニュムスの版を用いた。とりわけ、カッシオドルスは、ヒエロニュムスの翻訳を含んだラテン語聖書の原型を作っており、それはアミアティヌス写本とも密接に関係している。こうして出来上がってきた「ウルガータ聖書」は、次の6要素から成っている:
  1. ヒエロニュムスによるユダヤ教正典の翻訳;
  2. ヒエロニュムスのガリア詩篇;
  3. ヒエロニュムスによるカルデア語からのトビト記とユディト記の翻訳;
  4. 未改訂の知恵の書、シラ書、第一・第二マカベア書、バルク書;
  5. ヒエロニュムスによる福音書の改訂版;
  6. 未詳の編者による使徒行伝、書簡、黙示録の改訂版
ヒエロニュムスは聖書注解者として、注解とはかくあるべきという見解を持っていたが(Apol. 1.16)、ルフィヌスからは、他人の注解と自分の注解とか混ざっていると批判されていた。そのような批判に対し、ヒエロニュムスは、自分があまりに早く口述したために、秘書がそれに追いつかなかったから、そうした混ざり合いが起きたのだと弁解している。ヒエロニュムスは日に1000行は口述したと述べている。

ヒエロニュムスは旧約聖書をキリスト教徒として利用することは憚らなかった。彼は、多くの預言書をキリストやキリスト教の歴史と繋げて読んでいた。ヒエロニュムスの預言書注解は、同時代の誰もが成し遂げることができなかったほどの、彼の業績の中でも特筆すべきものだといえる。

2016年3月20日日曜日

ギリシア哲学諸派による文学批評 Grube, "The Schools of Philosophy"

  • G.M.A. Grube, "The Schools of Philosophy," inThe Greek and Roman Critics (London: Methuen, 1965), pp. 134-49.
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本章では、アカデメイア、ストア派、ペリパトス派、ヘルマゴラスの学派らが、どのように詩や修辞の理論を扱ったかについて説明されている。前2世紀のヘルマゴラスまでは、修辞学者よりも哲学者の方がむしろ、修辞的な理論のイニシアチブを取っていた。とはいえ、その姿勢は学派によって大きく異なってもいる。ただし、エピクロス派のみは修辞学にまったく意味を見出さず、文学批評の理論にいかなる貢献もしなかった。

アカデメイアの者たちは、プラトンの偏見を受け継ぎ、修辞学をあまり重視しなかった。プラトン自身は、文学批評に関しても、少なくともある程度の貢献をしたが、彼の弟子たちはまるで無関心だったようである。

ストア派は修辞学に強い関心を示した。中でも彼らが熱中したのは、語源学である。アレクサンドリアの文献学者たちが、語源学を単に言葉の歴史的な学問と捉えたのに対し、ストア派はオノマトペをもとに、ものそれ自体とその名前との自然的な関係性を考察した。その点で、analogistであったアレクサンドリア文献学者に対し、ストア派はanolmalistの性格を持っていた。ストア派は修辞学と弁証法との類似関係を指摘しつつ、ストア派的な哲学者のみがよき弁論家になれると主張した。ただし、ストア派は虚飾を好まないので、修辞的な徳目に簡潔さを加え、また形式よりも内容を重視した。一方で、哲学の真理に至るには詩的な工夫も必要と考えていたので、音のよさをないがしろにしたわけではなかった。

アリストテレスの議論を受け継いだペリパトス派は、文学と修辞学の歴史にも最大の影響を与えている。ただし、彼らが学派として何か独創的なことを主張したというより、アリストテレスとテオフラストスの独創的な見解に依拠して語っていたと見るべきである。たとえば、3種類の弁論(審議、法廷、演示)、5種類の修辞技法(創案、主題の配置、様式、提示法、記憶)、文学スタイルの4種類の徳目(正しい言葉、明晰さ、適切さ、装飾[、簡潔さ(ストア派)])などの定式は、基礎となる部分をアリストテレスとテオフラストスに依拠しつつ、ペリパトス派が定めたものである。ただし、文学の3種類のスタイル(素朴、壮大、その中間)や弁論の4部分(導入、物語、証明、結論)は、ペリパトス派のものとは考えにくい。特に弁論の4部分は、イソクラテスやテオデクテスなどによって、4つ以外の定式も提案されている。

またペリパトス派の文学理論で特筆すべきは、失われたアリストテレス『詩学』第2巻にあったと考えられる、喜劇の理論である。コイスリニアヌス小論(Tractatus Coislinianus)という掌編は、この失われたアリストテレスの理論を部分的でも含んでいると考えられている。その中で、笑いは言語による笑いと状況による笑いとの2つに分類され、それぞれさらに7つと9つの下位分野に分かれている。言語による笑いは、同音異義語、同意語、饒舌、類音語、指小語、言葉の変化、そして言葉の性などの誤りに分けられ、状況による笑いは、あることを別のもののようにすること、欺き、不可能性、非論理的な方法を通して潜在的な終わりに至ること、思いもよらぬこと、ある人物を実際よりも悪く描くこと、大衆的な踊り、よりよい選択が可能な中でのより悪い選択、そして論理的な手順を欠くことに分けられる。細かい点において疑いはあれど、大きなくくりではこれはアリストテレス的といえる。

ここまでは、哲学者が修辞学の理論を先取りしてきたが、前2世紀のヘルマゴラスがこうした議論を修辞学のフィールドに引き戻したのだった。彼は、弁論家の主題を、一般と特殊に分けた。また彼は弁論における4つの立場(事実、定義、質、異議)を定義した。こうした定式は、修辞学の歴史ならびに法律学の歴史にも属している。ヘルマゴラスによって再興された修辞学は、ローマ世界に伝えられた。

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2016年3月18日金曜日

アレクサンドリアの文学批評 Grube, "Alexandria"

  • G.M.A. Grube, "Alexandria," inThe Greek and Roman Critics (London: Methuen, 1965), pp. 103-9.
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本章は、ヘレニズム期のアレクサンドリアにおける文学批評について概観したものである。この時期のギリシア語には、むろん共通語としてシンプルなスタイルを持ったコイネー・ギリシア語もあるが、それ以外にも、華やかでやや冗長なアジアニズムのギリシア語もあった。このアジアニズムは、キケローやクインティリアヌスらによって、しばしばアッティシズムと対比的に語られるが、多くの場合その論調は否定的である。アジアニズムのギリシア語として代表的なのは、前3世紀中頃のマグネシアのヘゲシアスである。

前285年にアレクサンドリアの図書館ができあがると、そこを拠点にギリシア文学批評の文献学者たちが活動するようになった。本章では、ゼノドトス、カリマコス、エラトステネス、ビザンティウムのアリストファネス、そしてアリスタルコスが取り上げられている。ゼノドトスは、アレクサンドリアにおける最初のホメロス校訂者であった。ゼノドトスは、校訂版を作成するに当たって、しばしば主観的な判断から、詩の一部の削除を指定するオベロス記号を写本に記した。しかしながら、彼は削除を指定するだけであって、その箇所を実際に写本から削除はしなかった(それゆえに、現在でもその部分を検討することができる)。彼の姿勢はやや言語によりすぎ、歴史的な観点が抜けているとされているが、自分の頭の中だけで校訂作業をしたわけでないのである。

カリマコスは文学の学者であると同時に詩人でもあった。彼の詩は、当時のアレクサンドリアの文学者たちの考え方の傾向をよく保存している。ギリシア本国からは離れた場所であるアレクサンドリアの文学はギリシア文学としては傍流であるが、それゆえにこそ、当地の作家たちは偉大な古典期の作家たちの功績を明確に意識しており、同時に自分たちの時代はそれには及ばないことも知っていた。ゆえに、アレクサンドリアの文学は、文学史を熟知した博識な詩人が博識な読者に宛てた勉強文学であった。またジャンルに関しても、大規模な叙事詩や悲劇ではなく、小規模な賛歌、エピグラム、牧歌、抒情詩などが中心となった。内容的には、倫理的な教訓ではなく、(高いレベルでの)娯楽に徹したものとなった(むろん、プラクシファネスやネオプトレモスといった反対者たちもいる)。

博識だが、一流ではなかったと評されていたために、ベータとも呼ばれたエラトステネスは、詩の目的とは娯楽を提供することであって、決して教訓を与えることではないと述べていた。それゆえに、詩人は兵法、農業、修辞学などに秀でている必要はなく、また詩の中で正しい知識を述べなければいけないわけではないとした。このエラトステネスの主張は、のちにストラボンによって激しく批判されることになる。

ビザンティウムのアリストファネスは、ギリシア語のアクセントや句読点、そして校訂のための記号などを発明したと言われている。また彼はさまざまな劇作品に短い序文(ヒュポセシス)を付し、その作品のジャンルを決定したが、今もってその判断が踏襲されている。

アレクサンドリアの学者の中でも最も偉大な人物とされるのが、アリスタルコスである。前180年頃にアレクサンドリアの図書館長となったアリスタルコスは、それまでに培われてきた校訂や批評の方法論を発展させたのである。彼の腕前が遺憾なく発揮されているのは、ホメロスのスコリアと注解である。彼の姿勢は、写本にあるテクストをなるべく改変しないようにするという保守的なものであった。また、「ホメロスはホメロス自身によって解釈されるべき」という有名な言い回しからも分かるように、彼はホメロスのある一節を解釈する際に、ホメロス文学コーパス上(『イリアス』と『オデュッセイア』)で同じ用語や言い回しがないか調べ、それを参考に意味を定めていった。それゆえに、一般的に「恐れ」を意味するフォボスという言葉が、ホメロスでは「敗北」を意味することなどを発見した。このことから、同時に彼はハパクス・レゴメナに特に注意を払った。また、ホメロスの物語はホメロス当時の、あるいは彼が描く英雄たちの時代の基準で理解されるべきであって、仮に解釈者にとって奇異な箇所があっても、それを不適切だとして改変すべきではないとした。これは文学批評の歴史の中でも、極めて大きな一歩であった。こうした規範をもとに、アリスタルコスは詩人の解釈の自由度を認めつつ、行き過ぎた歴史性から文学を解放したのである。彼の弟子であるディオニュシオス・トラクスは、その師よりも文法や言語学に注目した。

こうして発展してきたアレクサンドリアの文学批評に対し、ペルガモンでも一味違った文学批評の伝統が築かれていた。アリスタルコスの同時代人であるマロスのクラテスは、ストア派の言語理論をもとに、経験主義的なanomalistの観点から批評を行なった(このときアレクサンドリア学派は教条主義的なanalogistと位置づけられる)。クラテスが一時期ローマで暮らしたことから、ペルガモン学派の考え方はラテン文学に移され、ウァッローなどに影響を与えた。

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2016年3月15日火曜日

新約聖書中の旧約引用 Allison, JR., "The Old Testament in the New Testament"

  • Dale C. Allison, JR., "The Old Testament in the New Testament," in The New Cambridge History of the Bible, 1, From the Beginnings to 600, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 479-502.
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本論文は、新約聖書中の旧約引用について概観したものである。いわゆる「旧約聖書」を引用したり暗示したりするのは、新約記者に限らず、多くの古代ユダヤ文書がしてきたことである。中でも新約は数多くの引用をしており、直接的な引用と認められるだけでも225箇所があるという。このことは、新約記者の旧約知識の深さのみならず、その読者のリテラシーの高さをも伺える。

マタイ、ヨハネ、パウロ、そして黙示録はヘブライ語聖書の知識を持っていたと思われるが、他の多くの新約記者はギリシア語訳聖書から引用している。中でも多く引用されているのは、五書(特に創世記)、詩篇、イザヤ書である。この傾向は、新約聖書以降にも見られるもので、エウセビオスまでのキリスト教作家、死海文書、偽典、フィロンや一部のラビ文学でも似たような傾向を見ることができる。この三書に次ぐのは十二小預言書とダニエル書である。

引用は、多くの場合、権威を付加するために行われる。キリスト者同士の議論においても、結局は聖書の解釈が決め手となるし、一方で、キリスト教の外部のユダヤ人との議論においても、イエスの行状がユダヤ的な観点から認められづらいときに、聖書の引用がその正当化に役立った。旧約の引用は、イエスのことやイエスが関わった出来事がすでに預言者たちによって預言されていたことを示すのである。引用するときには、おそらく共通のテスティモニア(イエスが預言的な期待の成就であったことを証明する聖句の引用集)が用いられたようである。新約記者たちはしばしば引用元を誤ってしまうことがあるが、それはこの共通のテスティモニアがそもそも誤っていたからだと考えられる。旧約の引用はしばしば現在形でなされるが、これは死海文書のように、旧約の預言が、新約記者の同時代の出来事と密接に関わっていると考えられていたからである。

暗示は同定するのが困難である。しかし、暗示を組み込むことによって、読者をより能動的にする効果がある。イエスの奇跡譚には、多くの旧約からの暗示が見られる。現在の学者はこの事実を、奇跡譚が創作であることの証拠と見るが、古代のキリスト教作家たちは、これを信仰の擁護に用いたのだった。暗示を同定するのは難しいが、論文著者は7つのポイントを指摘している:
  1. 共通の語彙、語順、テーマ、イメージ、構造、状況を持っていること;
  2. 上の要素が、あまりありふれすぎていないこと;
  3. あるテクスト(例:創世記)が別のテクスト(例:ヨハネ福音書)の伝統において卓越したものであること;
  4. あるテクストの著者が、別のテクストに他の箇所でも関心を持っていること;
  5. 聖書解釈史において、その暗示の妥当性が高いものであると認められていること;
  6. ある箇所が暗示であると解釈することで議論やテーマと合致しつつ意味を高めること;
  7. ある箇所が暗示であると解釈することで解釈上の困難が除かれること。
また、個別の引用だけでなく、マタイの14-15章における一連の詩篇からの引用のように、ひとつのシリーズとなっているものもある。同様の例としては、マタイの冒頭と出エジプト記、またルカと列王記上におけるエリヤとエリシャの物語などがある。

古代における新約聖書の読者は、こうした引用や暗示を敏感に察知していた。これは現代の読者よりも、日常的に礼拝に出席していた古代の読者の方がより敏感であったろうと思われる。引用や暗示を察知する能力は、書物を読める能力があったかどうかとは、必ずしも関係ない。文字が読めなくとも、聖書に関する広い知識を持った人たちはいたはずである。

新約記者は、しばしばもとの文脈を無視して引用することもあった。しかし、たとえばパウロがもとの文脈を無視していたとしても、彼の議論を全体として見たときに、引用元の文脈に沿っていることもある。すなわち、新約記者たちは、ただ単に個別の一行一行を引用しているのではなく、全体の文脈ごと移していることがあるのである。確かに、聖書を引用することは、神の言葉を引用するということであり、すなわち、自分のテクストに権威を付加することであったが、もともとユダヤ教にとて、もとの文脈を離れて引用することはさほど奇異なことではなかった。

2016年3月11日金曜日

テオフラストスの定式 Grube, "Theophrastus"

  • G.M.A. Grube, "Theophrastus," inThe Greek and Roman Critics (London: Methuen, 1965), pp. 103-9.
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古代における文学批評上の2つの定式がテオフラストスに帰されているが、著者はそれらが本当にテオフラストスに始まるものなのかを検証している。テオフラストスの著書は幅広い分野に及んでいるが、わずかなものを除いてほとんど残っていない。

テオフラストスの見解は、基本的に常に師であるアリストテレスのそれと一致しているが、これは彼がただ師の受け売りだけをしていたということを意味しない。テオフラストスはアリストテレスの見解をより明確にし、発展させてもいる。これは特に、散文のリズムに関する議論において見ることができる。またテオフラストスは、アリストテレスよりも詩の教育的な効果を強調した。さらに、彼は文章の威厳は、言葉の選択、言葉の並び、そしてその形式(σχήματα)によって決まると述べているが、ここでの「スケーマタ」という言葉の使用は彼に特有のものである。

テオフラストスによれば、弁論には2つの観点、すなわち「内容」と「聴衆への効果」があり、哲学者が前者を重視するのに対し、詩人や修辞学者は後者を重視するのだという。これもアリストテレスが述べていたことではあるが、アリストテレスが哲学者と詩人との観点の違いをさほど明確に区別していなかったのに対し、テオフラストスはそれをはっきりと分けたのだった。

このように、テオフラストスはアリストテレスの概念を繰り返したり、解釈したりしつつ、自分自身の見解を付け加えたが、アリストテレスの見解と食い違うようなことはついぞなかった。

テオフラストスに帰される定式の一つ目は、文学におけるスタイルの四つの徳目(four virtues of style)である。アリストテレスはこの文学スタイルの徳目として、「明晰さ」のみを挙げているが、テオフラストスは「言語の純粋さ」、「適切さ(πρέπον)」、そして「装飾」を挙げている。これらの4つを特権的に徳目として選んだのはテオフラストスなのか、またそれを徳目と呼んだのも彼が初めてなのだろうか。これをテオフラストスに帰しているのはキケローであるが、論文著者によれば、キケローはこうした専門用語を極めて不用意に使う人物なので、彼の証言は当てにならないという。それゆえに、この定式をテオフラストスの独創と考えることは難しそうである。

定式の二つ目は、文学における三つのスタイル(three styles)である。すべての作家や弁論家は、時と場合に応じて、「素朴(plain)」、「壮大(grand)」、そしてその「中間(intermediate)」のスタイルを使い分けることを求められていたが、テオフラストスはこの「三つのスタイル(τρίτη λέξις)」を区分けたと考えられていた。テオフラストスは、壮大な弁論と素朴な弁論との中間のスタイルとして、カルケドンのトラシュマコスを挙げているのだという。ここからは、テオフラストスがゴルギアスのような壮大な弁論とリュシアスのような素朴な弁論と、さらにその中間のトラシュマコスの弁論とを想定していたことがはっきりと分かる。しかし、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、トラシュマコス自身がこうした三っつのスタイルを想定して自身を中間に位置づけたとしているようなので、やはりこの定式もテオフラストスのみに帰することは難しい。

以上のことから、やはりテオフラストスの特徴は、その関心の広さと、彼の師であるアリストテレスの見解の言い換え、詳細な説明、そしてその仕上げといえそうである(ただし、後4世紀のラテン文法家ディオメデスによれば、テオフラストスによる悲劇の定義は彼の独創であったと述べてはいる)。

2016年3月9日水曜日

ギリシアの教育者としてのホメロス Verdenius, Homer, The Educator of the Greeks

  • W.J. Verdenius, Homer, The Educator of the Greeks (Mededelingen der Koninklijke Nederlandse Akademie van Wetenschappen, Afd. Letterkunde, Nieuwe Reeks, deel 33, No. 5; Amsterdam: North-Holland Publishing, 1970).
Homer, the educator of the Greeks (Mededelingen der Koninklijke Nederlandse Akademie van Wetenschappen, afd. Letterkunde. Nieuwe Reeks, deel 33, no. 5)Homer, the educator of the Greeks (Mededelingen der Koninklijke Nederlandse Akademie van Wetenschappen, afd. Letterkunde. Nieuwe Reeks, deel 33, no. 5)
W. J Verdenius

North-Holland Pub. Co 1970
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本書の中で、著者は以下の二つの点を検証すると宣言している。第一に、詩人ホメロスはギリシア人に教育的な影響を与えたのか、そして与えたとすればその影響は他の詩人によるそれよりも大きいのか。第二に、ホメロスはどのような点について人々を教導しようとしたのか。言い換えれば、彼の作品はどの程度まで教訓的な詩であるといえるのか。

研究史においては、Werner Jaegerによる研究が代表的である。Jaegerによれば、古代のギリシア人たちは常にホメロスを教育者として見なしてきたという。そしてホメロス自身の教育的な意図も大きなものだったと評価している。しかしながら、論文著者は、次第に研究者たちはホメロスの教育的な意図を否定する方向に向かっているとする。そこで、著者自身は、ホメロスのギリシア文化への影響を検証するために、時間的には古典期に絞り、また芸術・文学・哲学への影響ではなく、一般の人々の考え方や生活への影響を調べることに集中することにした。

ギリシアにおいて「詩人」といえばホメロスのことを指すことからも分かるように、ホメロスは広く読まれていた。その影響力の大きさから、しばしばホメロス自身が神格化されることもあった。そうした意味で、彼の作品は「ギリシア人の聖書」であったのである。しかし、教育プログラムにおいては、ホメロスはしばしば聖書以上の文化的な力を持っていたともいえる。生徒たちは読み書きを学ぶときにホメロスを習い、暗記することを求められた。ホメロスの学習は単に読み書きだけのためではなく、徳を養うためでもあった。アイスキュロスやクセノファネスも、ホメロスから徳を学べることを指摘している。

ギリシア人は子供のときに一度ホメロスを習っておしまいというわけではなく、吟遊詩人の朗誦を通して、何度も新たに学びなおした。プラトンの『イオー』は、そうした吟遊詩人たちによる涙を誘う感動的な朗誦を伝えている。しかも詩人たちはホメロスを吟じるだけでなく、詩についての講義も行ったことが知られている。一方で、ソフィストたちもホメロスの称賛者として、ホメロスについて語っていた。しかし、彼らは自身の理論を証明するために、ときにホメロスを批判することもあった。むろんホメロスを語るのは吟遊詩人とソフィストだけでなく、プラトン『プロタゴラス』冒頭に出てくるソクラテスの友人のように、普通の人物が何にでもホメロスを引き合いに出すということがしばしばあった。

ホメロスの詩に倫理的な模範を見出すことも行われていた。アナクサゴラスやピタゴラス主義者たち、さらにはアリストテレスまでもが、ホメロスの詩から倫理的な教訓を引き出すことがあった。これに対し、プラトンはそうした試みを一切せず、ホメロスを批判的に扱うことで知られている。しかし、逆に言えば、プラトンがホメロスを批判的に扱わなければならないほど、当時の人々の間でホメロスの倫理的な影響力が大きかったともいえる。

プラトンは、ホメロスの詩が人々を善へと導かず、理性よりもむしろ感情に頼らせてしまう点を批判していた。さらにプラトンによれば、ホメロスが神話を破壊したことも咎められるべきであるという。ホメロスの詩に出てくる神々の所業を後ろ盾に、自分のしでかした不始末を正当化する者たちがいたのである。その例としては、前3世紀の哲学者メニッポスの記述が挙げられている。一方で、プラトンはホメロスがギリシアに与えた影響すべてが悪かったわけではないとも認めている。ギリシアの徳の要素がホメロスの詩から発展したこともまた否めないのである。それゆえに、プラトンは作中でソクラテスにホメロスを引用させ、自身の理論を証明したりする場面もある。そのように、もともとの文脈を無視してホメロスを引用し、自身の説を裏付けるという行為はよく行われていた。この点も聖書によく似ている。

ホメロスの詩の引用は、政治的な文脈、技術的な文脈(家事、戦争、修辞)などでも見られる。ホメロスの詩の登場人物の特徴を、自分の身の回りの人に当てはめるような遊びも行われることがあったという。これは特に酒席での余興のようなかたちで行なわれた。

宗教に関するホメロスの教育的な影響も大きい。作品の中でも、神託やまじないや魔除けなどが登場する。ヘロドトスによれば、ホメロスとヘシオドスは神々を体系化し、名前を与え、役割によって組織化したという。つまりオリュンポスのパンテオンはホメロスによって体系化されたのである。神のイメージに関して、たとえばアテーナがフクロウを従えるという典型的なイメージも、ホメロスの詩に由来する。

ホメロス自身の教育的な意図に関しては、論文著者によれば明らかにJaegerの説は行き過ぎであったが、Eric Havelockは、ホメロスの教育論の倫理的な側面ではなく、百科全書的な側面は認めるべきであると述べている。そうしたホメロスの教育的な意図を感じられる例として、論文著者は7つのポイントを挙げている。ただし、神学的な教訓主義は、『イーリアス』よりも『オデュッセイア』に多く見られるものだとも指摘している。

結論としては、ホメロスの叙事詩は、『オデュッセイア』のセイレーンの歌でも述べられているように、快楽と知識とを与えてくれるものであった。そうした意味で、ホメロスが第一に文学的な快楽を目的としていたとしても、教育的な意図をも持っていたことは疑いない。ホメロスの詩は一つの目的でくくることはできないのである。教訓詩であるヘシオドスが100パーセント教訓的でないように、ホメロスの詩も100パーセント英雄的なものでもないのである。