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2015年12月22日火曜日

アブラハムのエジプト滞在をめぐる時系列の問題 Wacholder, "How Long Did Abram Stay in Egypt?"

  • Ben Zion Wacholder, "How Long Did Abram Stay in Egypt? A Study in Hellenistic, Qumran, and Rabbinic Chronography," Hebrew Union College Annual 35 (1964), pp. 43-56.

本論文は、アブラハム(混乱を避けるために本エントリーではアブラムの時代のこともアブラハムで表す)のエジプト滞在をめぐる時系列の問題を扱っている。創12:11-20のの記事に関して、古代においては、次の2点が問題となっていた:アブラハムがエジプトを訪れた本当の理由は何か?そして、彼はエジプトにどのくらい滞在したのか?

デメトリオス、アルタパノス、偽エウポレモスらギリシア・ユダヤ人作家は、アブラハムがエジプトを訪れたのは、天文学を含む科学の知識を伝えるためであり、その期間はたとえば20年といったかなり長い期間であるとする。

一方で、『ヨベル書』(宗派テクスト)は、アブラハムがエジプトにいたのは5年であるとしている。他にも『ヨベル書』は、時系列を加え、アブラハムを非難するファラオのセリフを省き、そして民12:22における、ヘブロンがツォアンより7年前に建設された記事を引用している。論文著者によれば、こうした『ヨベル書』の解釈は、『外典創世記』の解釈をもとにして考えるとよく分かるという。両者共に時系列と出来事の順番は同じだが、『外典創世記』はアブラハムがまずヘブロンで2年過ごし、それからエジプトで5年過ごしたことを説明している。いずれにせよ、両者は共に時系列についての関心を持っているといえる。ただし、『外典創世記』が相対的な時間軸を用いるのに対し、『ヨベル書』が絶対的な時間軸を用いていることから、前者の方がより古い時代に書かれたと考えられる。

ただし、『外典創世記』の著者は、自身や『ヨベル書』のような時系列の考え方以外にも、別の考え方があることを知っていたと考えられる。それが、ミシュナー、トセフタ、タルムード、『セデル・オーラム』といったラビ文学に残されている解釈である。これらは、アブラハムがハガルを側女にするためにはサラとの間に10年間子供がいないことが必要だったという見解をもとに、アブラハムがカナンで10年を過ごしたと想定するので、エジプトで過ごしたのは3ヶ月に過ぎなかったと考える。ラビ文学は、さらに「アブラハムのハランからの二度の出発」という解釈をも持っている。

また出12:40における、イスラエルの民がエジプトに住んでいたのは430年という記事と、創15:13における、アブラハムの子孫が違法の国で400年の間奴隷となるという記事とには、30年の矛盾がある。これを解決するために、ラビ文学は、430年とはアブラハムが神の幻を見たときからのことで、400年とはイサクの誕生からのことであると、それぞれ説明する。一方で、『ヨベル書』は430年がイサクの誕生からのことであることを説明するのみで、400年の方には触れない。『外典創世記』によるこの箇所の解釈は失われてしまっているが、傾向から鑑みて、『ヨベル書』と同じものだったに違いないと論文著者は考える。

以上のことから、明らかに時系列の説明に関して、二つの学派――『セデル・オーラム』を始めとするラビ文学に代表される学派と、『ヨベル書』や『外典創世記』を始めとする宗派テクストに代表される学派――があると考えられる。

さらに、デメトリオスを始めとするギリシア・ユダヤ人作家の学派の存在も想定できる。そもそも物語の時系列が研究対象として取り上げられるようになったのは、前3世紀のアレクサンドリアにおいてであり、ギリシアやエジプトの様々な文学の時系列が俎上に挙げられた。論文著者の言い方で言えば、The date of Abram's journey to Canaan became to the Hellenistic Jewish writers  what the fall of Troy to the Greeks (p. 52)となる。

アブラハムのエジプト滞在に関する、ラビ文学、宗派テクスト、ギリシア・ユダヤ人作家の三者の解釈をそれぞれ比べたとき、論文著者は、ラビ文学と宗派テクストとは相容れないが、ギリシア・ユダヤ人作家と宗派テクストとは似たようなポジションを取っていると述べる。確かに、ラビ文学においては、アブラハムのカナン滞在を延ばしたためにエジプトに数か月しか滞在していないのに対し、ギリシア・ユダヤ人作家と宗派テクストにおいては、アブラハムが学問を伝えるのに十分な期間エジプトに滞在していたとされている。

三者のそれぞれの特徴としては以下のように言える:ギリシア・ユダヤ人作家は概して創世記の記述からかけ離れた解釈を施して、当時の文脈に合うように改変を施している。宗派テクストも同様の傾向があるが、それに反する箇所を省かない。ラビ文学はより現代的かつ主観的で、歴史としての聖書の記述よりも、聖書解釈に関心がある。

2015年12月17日木曜日

ユリアヌスがエルサレム神殿を再建しようとしたのはなぜか? Lewy, "Julian the Apostate and the Building of the Temple"

  • Yohanan (Hans) Lewy, "Julian the Apostate and the Building of the Temple," in The Jerusalem Cathedra: Studies in the History, Archaeology, Geography and Ethnography of the Land of Israel, vol. 3, ed. Lee I. Levine (Detroit, Mich.: Wayne State University Press, 1983), pp. 70-96; originally published in Zion 6 (1940/41), pp. 1-32 [Hebrew].
本論文は、ローマ皇帝ユリアヌスが後363年初頭にどうしてエルサレムにユダヤ教の神殿を自費で再建しようとしたのかを、特にその神学的な側面に注目して検証したものである。著者はそれをするのに、ユリアヌスからユダヤ人たちに宛てて書かれた2通の手紙を主たる参考文献としている。

ユリアヌス以前の思想状況。キリスト教の歴史理解においては、ダニエル書(9:27)やイエスによって預言された第二神殿の崩壊が成就したことから、イスラエルの選ばれた民という肩書は無効になった。これに対し、新プラトン主義者のポルフュリオスは、モーセ五書もギリシア文化もキリスト教に属するものでないこと、またキリスト教のダニエル書理解は間違っていることを証明しようとした。しかし、エウセビオスはポルフュリオスに反論し、新約聖書において成就されていない預言など一つも存在しないことを組織的に証明しようとした。そしてユリアヌスの目的は、哲学的にポルフュリオスの方法論に則りつつ、エウセビオスによって拡張されたキリスト教の歴史神学の土台を破壊することだった。

犠牲の政治的・宗教的側面。ユリアヌスはローマ帝国の一体化のために、市民が皇帝に犠牲を捧げることを望んでいたが、キリスト者たちは異教の神々に祈ることを嫌い、それを拒否していた。ユダヤ人は神殿を再建して犠牲祭儀を復活させることを望んでいたので、エルサレムにおける神殿再建はユリアヌスの意図とも合致していた。いうなれば、この犠牲の問題がユリアヌスにエルサレムにおける神殿再建を思いつかせたのであり、こうしたユリアヌスのユダヤ人に対する好意は、実はキリスト教に対する反発から来ていたのである。また犠牲は、ユリアヌスにとって、こうした政治的な意味のみならず、イアンブリコスに代表される新プラトン主義における「弁解の犠牲(sacrifice of pleading)のような宗教的な側面も持っていた。祭司が神に犠牲を捧げるユダヤ教は、この宗教的な側面ともよく調和するのである。

ユリアヌスのユダヤ人理解。ユリアヌスのユダヤ教贔屓には、キリスト教の歴史神学を破壊すること、そしてユダヤ教の犠牲祭儀をローマ式に更新することという2つの理由があったが、彼はユダヤ教のすべてを肯定したわけではなかった。彼は律法における戒律を称賛したが、ユダヤ教の神理解を批判した。特に十戒の第二戒であるヤハウェ以外に神なしという掟には反発した。ユリアヌスにとってユダヤ人とは、部分的な真理を持った、神を畏れる者たちなのである。すなわちユダヤ人は、物質世界を支配する神――ギリシア人は別の名であがめる神――の掟を遵守するという意味では正しいが、他の神々を拒否し、自分たちだけが選ばれたと考えているという意味では誤っているのである。

ユリアヌスの神学。ユリアヌスはユダヤ人の神を、イアンブリコスを通じて、プラトン『ティマイオス』におけるデミウルゴスとして理解していた。世界の創造主たるデミウルゴスは他の神々に人間の支配を委ね、一方でこの神々はそれぞれの民族に掟を与えたのである。それゆえに、世界にはたくさんの宗教が存在するようになった。つまり、ユリアヌスはユダヤ人の神を唯一で特別なものと捉えずに、ギリシア人が別の名で呼ぶ最高神のことだと解釈したのである。そしてこの最高神がエルサレムに住まう神であるならば、神殿を再建しなければならないと考えた。ただし、当然ながらこれはユダヤ人自身による唯一神教的な理解とは異なるものである。デミウルゴスはあくまでたくさんの神々の中で最も偉大な神であるだけである。ユリアヌスは、ゼウス、ヘリオス、セラピスなどを統べる最高神としてユダヤ人の神を捉えることで、排一神教的な信仰を作り出し、すべてをローマの国教システムの中に組み込もうとしたのである。

ユリアヌスの聖書解釈による神理解。ユリアヌスによれば、モーセや預言者たちは哲学の学習によって知性の力を磨かなかったので、神に関する不正確な知識しか得ることができなかった。しかしながらユリアヌスは、モーセより以前のアブラハム、イサク、ヤコブとは、実際には新プラトン主義者たちが伝えているカルデアの魔術師(Chaldean theurgists)たちのことだと述べている。言い換えると、ユリアヌスはユダヤ人の神に関して、カルデアの父祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)の伝統を受け入れたが、モーセや預言者たちの伝統を拒絶したのである。

神殿再建とユリアヌスの神学。このように、ユリアヌスはユダヤ人の神を、ヘリオスに代表されるさまざまな名を持ったローマ帝国の神であると考えたのだったが、それはあくまでキリスト教を否定するためだった。そこで彼は、第一に、キリスト者が学校教師になる権利を剥奪し、第二に、エルサレムの神殿を再建しようとした。神殿を再建することで、ユリアヌスはユダヤ人の神を異教の神々のヒエラルキーの中に位置づけようとしたのである。ユリアヌスはペルシア遠征における勝利をユダヤ教の神のおかげと考えていた節もあり、神殿再建はその感謝のしるしであったともいえる。ユダヤ教の神はローマの神々の中に組み込まれているので、ローマ帝国を救った神として、感謝されるのは当然なのである。

エルサレム神殿の再建というユリアヌスのアイデアは、ユダヤ教が帝国内の他の宗教ともはや矛盾せず、異教の中に位置づけられるに値するものであると考えられていたことを意味している。ユリアヌスはユダヤ教の実践の内的な部分ではなく、あくまで外的な見た目のみを変えようとした。彼はユダヤ人の聖書における誤謬を笑いつつも、彼らが拝む最高神とモーセや預言者の神とを区別し、その最高神こそが異教の神々を統べる者であるとした。いうなれば、ユダヤ教の十戒は、他の神々の存在を否定する第二戒を除いて、異教のそれと異なることはないのである。このようにしてユリアヌスは、皇帝の宗教とユダヤ教との妥協点を見出した。彼はユダヤ人が自分たちの神を拝むのをやめることを望んだのではなく、エルサレムに住まう自分の神を拝みつつ、その神に仕える他の神々もまた存在していることを認識してほしかったのである。この考え方は、エズラ記のキュロス王にも比較され得る。

2015年12月16日水曜日

エウセビオスの護教論 Kofsky, "The Concept of Christian Prehistory"

  • Aryeh Kofsky, Eusebius of Caesarea Against Paganism (Leiden: Brill, 2002), pp. 100-14.
Eusebius of Caesarea Against PaganismEusebius of Caesarea Against Paganism
Arieh Kofsky

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本論文は、カイサリアのエウセビオスの護教論の内在的な論理をまとめたものである。エウセビオスは3つの目的を持って著述活動をしていた:第一に、異教の宗教および哲学を粉砕すること、第二に、キリスト者によって好まれるヘブライ的宗教および哲学が異教のそれよりも優れていると証明すること、そして第三に、いかにしてキリスト教がユダヤ教から離れ、それを上回ったかを説明すること、である。またエウセビオスは、人間をギリシア人、ユダヤ人、そしてキリスト者の3種に分け、中でもキリスト者を第三の民と見なした(あるいは、キリスト教をユダヤ教とヘレニズムとの間に立つ第三の宗教と見なした)。エウセビオスの議論は畢竟するに、キリスト教が異教を破棄したこと、また聖書を受け継ぎつつもキリスト教がユダヤ教から逸脱したことという、二つの批判に対する反論であった。

父祖の宗教とキリスト教との同一視。エウセビオスによれば、キリスト教という名前自体は新しいが、その生き方や宗教的敬虔の倫理的な徳は、アブラハムら父祖の時代から連綿と続いてきたものであるという(『福音の論証』)。一方で、ユダヤ教が始まったのは、モーセが律法を制定してからのことであった。すなわち、エウセビオスはイエスによってもたらされたキリスト教をアブラハムら父祖たちの宗教と同一視しつつ、両者をモーセによって始められたユダヤ教から区別したのである。

ヘブライ人とユダヤ人との区別。『福音の準備』第7巻において、エウセビオスはまず異教の宗教や哲学に真理がないことを示したあと、「ヘブライ的」な宗教な哲学には真理が宿っていることを証明しようとした。このときの「ヘブライ人」は「ユダヤ人」から区別されている。前者が父祖たちのこと、そして引いてはキリスト者のことを意味するのに対し、後者はより後代に出てきたモーセの律法を遵守する者たちのことを意味する。モーセ自身はヘブライ人と見なされ、彼が律法を与えた者たち最初のユダヤ人となった。このユダヤ人たちはエジプトにいたために、エジプト人から悪い影響を受けてしまったのである。それゆえに、アブラハムと神とが交わした約束は、ユダヤ人ではなくキリスト者によって成就した。

ヘブライ的神学とキリスト教神学との同一視。ヘブライ人は、誤謬ばかりの異教徒と異なり、理性的な哲学者なので、エウセビオスは、フィロン、アリストブロス、ヨセフスもまたヘブライ人であると見なした。そのように考えることで、エウセビオスは特にフィロンのロゴス神学を三位一体につなげたのだった。その意味で、使徒ヨハネやパウロもまたヘブライ人であった。このようにして、ヘブライ的神学とキリスト教的神学とが同一視された。

七十人訳の重要性。『福音の準備』第8巻では、ユダヤ的政治形態および律法について議論されている。ユダヤ教の律法はあくまでユダヤ人にのみ有効であって、その他の民族には関わりがない。ユダヤ人は嫉妬心から自分たちの律法を隠していたが、七十人訳が作成されたことで、イエスの現れが準備されたのだった。ではなぜそもそもキリスト教は直接父祖の宗教から発生したのではなく、ユダヤ教から生まれたのだろうか。

ユダヤ人哲学者。エウセビオスによれば、それはそもそもユダヤ人の中にも、律法の文字通りの意味に従って生きる者たちと、律法の意味を理解してそこから哲学的に徳を獲得する者たちとがおり、モーセは後者を「ユダヤ人哲学者」として、律法を守る義務を免除した。エウセビオスは、こうしたユダヤ人哲学者の代表例をエッセネ派に見ている。またフィロンのことをヘブライ人哲学者であるとも見ている。エウセビオスによれば、ここでは「ユダヤ人」と「ヘブライ人」との区別に矛盾はないという。なぜならば、ユダヤ人哲学者とは、ユダヤ人の間で父祖の伝統を守り続けるヘブライ人のことだからである。

古い契約と新しい契約。エウセビオスは、父祖の宗教をキリスト教と同一視することを主張はしたが、その無理やりさも自覚していた。というのも、キリスト教は聖書を受け入れたのに、それに沿ってはいないからである。また間にはさまるユダヤ教との関係も問題である。そこでエウセビオスはより現実的な説明もした。彼によれば、2つの契約があり、1つ目の古い契約がユダヤ人の律法であった。この1つ目の契約は、父祖の宗教から離れたときに、多神教や偶像崇拝といったエジプト人の習慣を含んで出来上がったものである。モーセはこれを、メシアの到来によって更新される、あくまで一時的な契約として作った。2つ目の契約は新しい福音であり、すべての民族に向けられている。ただし、この新しい契約は新しくもあり古くもある。なぜなら、この契約はモーセの時代には隠されていたので、一見新しいものであるように見えるが、実際には1つ目の古い契約よりも古い父祖たちの時代から続くものだからである。

モーセは古い契約を一時的なものであると見なしていたので、ユダヤ人による新しい契約の拒否は、実はモーセの意志を裏切るものだといえる。というのも、ローマ人によるエルサレム神殿の破壊は、古い契約が神意によってもはや無効にされたことを示していると考えられたからである。一方で、新しい契約とは、実際には古い契約よりも古い父祖の時代からのものであったので、イエスの生と教えとは、アブラハムの古い宗教の再生であると見なされたのだった(それどころか、父祖たちは実際に「キリスト者」と呼ばれてさえいたのだとエウセビオスは主張する)。

このように考えると、エウセビオスは水平的にキリスト教がユダヤ教とヘレニズムとの間に立っていると考えていただけでなく、垂直的にキリスト教が両者の上に立っていると考えてもいたのが見て取れる。エウセビオスにとってのキリスト教は、ギリシアの誤謬および破損や、モーセによって導入されたすでに無効の契約を置き去りにするものであったのだ。

2015年12月2日水曜日

ヘロドトス『歴史』の方法論とジャンル Luraghi, "Meta-historie"

  • Nino Luraghi, "Meta-historie: Method and Genre in the Histories," in The Cambridge Companion to Herodotus, ed. Carolyn Dewald and John Marincola (Cambridge: Cambridge University Press, 2007), pp. 76-91.
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ヘロドトスの記述の中には、歴史文学においては稀なことに、しばしば一人称で語り手が登場する。これは、他の多くの歴史家が、自分がある情報をどこで手に入れたかを問題にしないことが多いのに対し、ヘロドトスは情報入手のプロセスを語るために、一人称を必要とするからである。論文著者は、情報を集めて評価するプロセスに関する一人称と、「~人が言うところでは」という三人称とを同時に用いることを、「メタ・ヒストリエ」と呼んでいる。本論文は、このメタ・ヒストリエがヘロドトス『歴史』の中でどのように機能しているかを検証したものである。

ヘロドトスの歴史記述には三つの基礎があって、それらは、第一に口頭での情報(アコエー)、第二にヘロドトス自身の目撃証言(オプシス)、そして第三にヘロドトス自身の調査(グノーメー)である。オプシスがヘロドトス自身の経験に根差したものであり、グノーメーがヘロドトス自身が調査して正しいと考えているものであるのに対し、アコエーは必ずしもヘロドトスが正しいかどうか確信があるわけではなく、真実であることを保証しないものである。オプシスとアコエーは、ソクラテス以前の哲学者であるエフェソスのヘラクリトスによっても用いられている方法であったが、これらの方法論だけではヘロドトスの『歴史』を説明できない。そこで、論文著者は、アコエー、すなわち口頭伝承に注目している。

口頭伝承の収集というと、まるでヘロドトスが現代的な科学的な態度で、異なる版を比較し、情報提供者の妥当性を吟味し、情報の流通経路を確かめたかのように見えるかもしれない。実際に、植民地時代以前のアフリカの歴史を再構成するために、口頭伝承に注目したJan Vansinaなどは、ここで言うところの科学的な態度によって、口頭伝承の伝達や機能を分類することに成功した。しかしながら、ヘロドトスにおける語り手による情報提供者への言及を文字通りの意味で取ることはできない。なぜなら、ヘロドトスにおける口頭伝承の情報には、二つの傾向があるからである:第一に、ある民族グループが、いつでも彼ら自身の国で起こったことや、彼ら自身の先祖に起こったことのために引き合いに出されること、第二に、そうしたグループは自分たちを有利な立場にする説明のみを提供していることである。これらから見て、ヘロドトスが情報を得たとしている情報提供者を、現代的な意味でのそれを信じるわけにはいかない。彼は、読者によって期待されている関心や観点を、口頭伝承として提供しているのである。そのときにヘロドトスがあえて情報提供者を出すのは、彼が読者をだまそうとしているというよりも、自分自身をその情報から引き離すためなのである。また、ヘロドトスが他の歴史家からの引用をほとんどしなかったのは、当時は書かれた記録よりも、こうした口頭伝承の方が読者により信頼されたからであると考えられる。

さて、ヘロドトスがメタ・ヒストリエという方法論を採った理由のひとつは、読者の期待に沿うためだったわけだが、もう一つジャンルの問題がある。彼はメタ・ヒストリエの語り手として、自身や読者が必ずしも信じることを求められていないような説を挙げているが、それは、通常ならば文学のジャンルに縛られて語れないようなことを語るためであった。ホメロスがトロイア戦争で語っている内容には異説があるわけだが、ホメロスは叙事詩に適した説のみを歌っている。それぞれの文学ジャンルは、それぞれ語るに適切な内容を選ぶのである。ヘロドトス以前の歴史ジャンルは神話を扱っていたので、叙事詩と変わらない内容であった。しかし、メタ・ヒストリエの方法を用いることで、ヘロドトスは他の文学ジャンルとの違いを示したのである。また複数の語り手を出すことで、他の文学ジャンルであればそのジャンルに縛られて省いてしまうような内容をも語れるようにし、読者に判断を委ねたのだった。

2015年11月29日日曜日

ユダヤ人とユダヤ教 #3 Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism"

  • Steve Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism: Problems of Categorization in Ancient History," Journal for the Study of Judaism 38 (2007), pp. 457-512.

このエントリーでは、第3章と結論部分(pp. 489-512)をまとめたい。第1章では、後200年までユダイスモスという語に「ユダヤ教」という意味はなかったこと、そして第2章では、そもそも古代には「宗教」という概念すらなかったことが語られたが、第3章では、それゆえにギリシア語のユダイオス(Ἰουδαῖος)という語を宗教としてのユダヤ教の信者、すなわち「ユダヤ教徒(Jew)」と訳すのは不適切であり、むしろ民族としての「ユダヤ人(Judaean)」と訳すべきであるということが語られる。

論文著者によれば、ユダイオス/ユダイオイという語は常に「民族(ἔθνος)」としての「ユダヤ人」という意味で使われてきたという。異教徒のギリシア・ラテン作家たちの中では、たとえばストラボン、ポセイドニオス、タキトゥス、そしてディオ・カッシウスが、そしてギリシア語・ラテン語で書いたユダヤ人作家たちの中では、たとえばフィロンとヨセフスが明らかにそのような用法でこの語を用いている。

フィロンは、土地、血縁、祭儀の習慣などといった民族的なつながりの全範囲を含む意味合いでユダイオスという語を用いている。それゆえに、そうした文脈におけるconversionとは、市民権の変化において、ある民族から別の民族に「転向」するという意味であって、決して宗教的に「改宗」するという意味ではなかった。

ヨセフスは、『ユダヤ戦記』において、すでに民族としてのユダヤ人という意味でユダイオスという語を用いている。『ユダヤ古代誌』では、哲学や祭儀と密接に関わる文脈で用いることが多いが、そこからただちに「宗教」を導くことは誤りであると論文著者は述べる。さらに『アピオーンへの反論』では、ユダヤ人は、バビロニア人、エジプト人、カルデア人、アテーナイ人、スパルタ人などと比較されており、またそれぞれの民族は、故国、立法者、父祖の習慣、聖なるテクスト、祭司や貴族、そして市民権を持っているとされている。論文著者によれば、これは現代におけるインド系カナダ人や中国系カナダ人といった移民グループのようなものだという。

むろん、研究者の中には、ユダイオスを少なくともある場合には「ユダヤ教徒(Jew)」と訳すべきだと主張する者たちもいる。その代表として、論文著者はDaniel R. SchwartzとShaye Cohenを挙げている。Schwartzは、バビロン捕囚のような大きな変化によって、ユダイオスは単なる民族から宗教へとなっていったと主張するが、論文著者はどんな民族であれある程度の変化を被り、先祖伝来の政治形態を維持することに苦労しているのだから、ユダヤ人だけを特別に「宗教」へと還元する必要はないと反論する。さらにSchwartzは、『ユダヤ戦記』でのユダイオスは民族的な意味合いだが、『ユダヤ古代誌』でのユダイオスは宗教的な意味合いであるといった妥協案も出すが、論文著者は認めない。一方でCohenは、ハスモン朝の時代になると異教徒の中にユダヤ教徒へと宗教的に「改宗」する者たちが出てきたと述べるが、論文著者は、第1章で見たようにヘレニスモスという概念がそもそも文化や宗教を意味するものではないのだから、ユダイスモスだけ突然に文化や宗教の範疇に置くのはおかしいと反論する。SchwartzもCohenも、古代においてユダイオスという語の用法に途中で変化があったと考えるわけだが、論文著者は文献学上そうした変化は認められないし、もっと後代になって本当にユダヤ人に質的な変化が訪れたときには、ユダイオスではなくヘブライオスという語が使われるようになったと説明している。

こうしたことから、論文著者は以下のように結論を出している:まず、我々は古代の状況、用語、カテゴリーが自分自身のそれらとは異なっていることを知らなければならない。ユダイオス/ユダイオイに関しては、他の民族との類比において、「ユダヤ教徒(Jew)」ではなく「ユダヤ人(Judaean)」と訳すべきである。ユダヤ人は前200年から後200年にかけて民族としての「ユダヤ人」であり続けたのであって、ギリシア・ローマ時代には宗教としての「ユダヤ教」は存在しなかった。稀に「ユダイスモス」という語が使われても、それはユダヤの法や生活に向かうこと、という特別な文脈においてものみ用いられた(「ユダヤ化」)。「ユダイスモス」という語が抽象化された信仰システムとしての「ユダヤ教」という意味合いで使用されたのは、3世紀から5世紀にかけて「クリスティアニスモス」との対比においてであった。ただクリスティアニスモスという概念自体は民族、祭儀、哲学、集団、魔術システムなどの新しい集合体であったので、完全なる「宗教」概念としての「ユダヤ教」は啓蒙時代、すなわち近代の産物である。

2015年11月26日木曜日

ユダヤ人とユダヤ教 #2 Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism"

  • Steve Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism: Problems of Categorization in Ancient History," Journal for the Study of Judaism 38 (2007), pp. 457-512.

本エントリーでは、第2章(pp. 480-88)をまとめたい。前章で、古代にはシステムとしての「ユダヤ教」なるものは存在しなかったことを確認した(代わりに、たとえばヨセフスは、「ユダヤ人の父祖伝来の伝統(πάτρια)」「ユダヤ人の習慣(ἔθη)」という言葉を用いている。)。それゆえに、ヨセフスが記録しているアピオーンによるユダヤ人批判も、あくまで「民族(エトノス)」としてのユダヤ人を扱っているのであって、「宗教」としてのユダヤ教ではなかった。ヨセフスは、アピオーンを他宗教のメンバーとして描くことはできなかったのである。なぜなら、そのようなカテゴリーが存在しなかったからである。

西洋における「宗教」の概念が近代の産物(おそらくフランス革命やアメリカの独立戦争以降)であって、古代にはそのようなカテゴリーは存在しなかったことは、非西洋の伝統から見ればすぐに分かることである。儒教、道教、ヒンドゥー教、仏教、神道といった、さまざまな側面を含む東洋の伝統を、西洋は-ismの名をつけて宗教というカテゴリーに当てはめたが、これは西洋の信仰との比較を簡単にするために、文化のすべてを信仰システムに抽象化する試みに他ならなかった。我々が「宗教」として理解しているものは、政治、軍事、建築、社会生活、家族などといった各要素のそれぞれに浸透していたのである。

そこで論文著者は、「宗教」に近接する6つの領域を挙げている。これらは「宗教的」な古代の概念だが、現代の「宗教」が表すすべての領域と同等のものではない:

第一に、「民族(ἔθνος)」。それぞれの民族は、父祖(シュンゲネイア)伝来の固有の伝統(パトリア)に表明されている、個別の特徴(フュシス、エートス)を持ち、また神話(ミュトイ)、習慣、規範、集会、法(ノモイ、エテー、ノミマ)、そして政治形態(ポリテイア)を持っている。そうした意味で、ユダイオイもまた、エジプト人、シリア人、ローマ人と同様のエトノスなのである。

第二に、そうしたエトノスが持っている「祭儀(τὰ θεῖα, τὰ ἱερά, θρησκεία, θεῶν θεραπεία, cura / cultus deorum, ritus, religio)」である。これは、祭司、神殿、動物犠牲などを含む。また祭儀を司る祭司はしばしば、貴族やエリート階級の人間でもある。エトノスと祭儀とは必ずしも一対一対応ではなく、いくつもの祭儀を行う都市もあった。犠牲祭儀は古代においては「宗教的」な言葉(聖化、清浄、神の臨在)を最も用いるカテゴリーであるにもかかわらず、現代の意味での「宗教」とは最もかけ離れたものとなっている。

第三に、「哲学(philosophia)」。西洋の宗教に見られる多くの基本的な要素(生活上の実践と結びついた神的存在への信仰、権威ある書物の学習、倫理的な規範の奨励)が、古代の哲学にも見られる。それゆえに、フィロンやヨセフスもまた、「宗教」と最も近いカテゴリーである「哲学」の中で、我々から見れば「宗教的」なグループを哲学者として描いたのである。

第四に、「家族の伝統」。たとえば、誕生、結婚、死、法に関する初歩的な教育、文化の創造の物語、食物の聖別、死者の追悼などといった要素である。

第五に、「集会/交際(θίασοι / collegia)」。これは、教会、シナゴーグ、モスクなどに相当するもので、ある場合には祭儀的な性格を持ち、またある場合には商売上のギルドのような性格を持つ。

そして第六に、「占星術」や「魔術」。バビロニアやペルシアにおける、カルデア人やマギの得意分野として知られている。占星術も魔術も現実や運命を扱うものであり、人間の生の意味を考えることもある。魔術においては、しばしば神の名を含んだ呪文を唱えることもある。

以上のような「宗教的」な活動はどこにでもあったが、これらすべてを「宗教」として理解するという現象は存在しなかったのである。4世紀になって、キリスト教が自己規定を図るために、システムとしてのユダイスモスとクリスティアニスモスという対比をするようになり、この考え方はかなり近代的な意味での「宗教」に近かった。キリスト教的な要素は、ローマの祭儀、市民生活、哲学の学派などを急速に統合していった。しかし、論文著者によれば、それでもキリスト教は我々の「宗教」とはわずかに異なるものであり、どこまでいっても「宗教」とは近代の産物であったという。

ユダヤ人とユダヤ教 #1 Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism"

  • Steve Mason, "Jews, Judaeans, Judaizing, Judaism: Problems of Categorization in Ancient History," Journal for the Study of Judaism 38 (2007), pp. 457-512.

本論文は、ブリル書店から発行されているヨセフスの翻訳と注解シリーズの編者による長尺論文である。同シリーズにおいて「ユダヤ人」と書くに際し、Masonは一般的なJewsではなくJudaeansを採用したのだが、本論文はこの方針への批判に対する弁明にもなっている。このエントリーでは、pp. 457-80の序章および第1章をまとめたい。

歴史学においては、古代の文脈から離れ、今日的な視点から対象を研究する、主として社会科学で用いられるエティックな方法論(統計学、人類学、経済学など)と、古代の文脈に即しつつ、その内的な思考パターン、カテゴリー、そして言語を研究するエミックな方法論とがあるが、本論文は、「ユダヤ」や「ユダヤ人」という用語をエミックな観点から探究したものである。

論文著者は、まず3つの文献学的事実を指摘する:
  1. 古代におけるヘブライ語およびアラム語テクストには、我々にとっての「ユダヤ教」を意味する言葉はない。「ユダヤ人(יהודים)」や地名としての「ユダヤ(יהודה)」はあるが、「ユダヤ教(יהדות)」は存在しないのである。
  2. ギリシア語やラテン語において、「ユダヤ人(Ioudaioi)」という語は頻出するにも関わらず、「ユダヤ教」に相当するἸουδαισμός / Iudaismusは、第二マカベア書で4回および第四マカベア書で1回使われている以外は存在しない。
  3. パウロとアンティオキアのイグナティオスでは限定的な用法に限られるが、後200年から500年にかけてのキリスト教作家は、「ユダヤ教(Ἰουδαισμός / Iudaismus)」という語を気前よく使っている。
「ユダヤ教(Judaism)」における-ismとは、思想や実践が体系化されたものを指すが、キリスト教作家以前のギリシア語やラテン語の用法は、そのような意味ではないということである。むしろ-ismのもととなる-izoという語尾を含む動詞は、自分以外の民族や文化へと渡ったり、それを採用したり、またそれと提携したりすることを指すことが多かった。こうした民族的な-izoは通常、別の潜在的な交友関係、運動、あるいは傾向とのコントラスト(それが明確であれ暗示的であれ)をつける際に用いられた。それゆえに、Ἑλληνισμόςはβαρβαρισμόςとのコントラストの中で用いられ、またἸουδαισμόςもἙλληνισμόςへのリアクションとして用いられたのである(Ἑλληνισμόςは、第二マカベア書においてἸουδαισμόςとの対比の中で初めて出てくる)。

論文著者は、第二マカベア書(2:21, 8:1, 14:38×2)、第四マカベア書(4:26)、パウロ(ガラ1:13-14)、アンティオキアのイグナティオスにおけるユダイスモスの用法をつぶさに検証する。それによると、ユダイスモスという語は、システムとしての「ユダヤ教」という意味ではなく、むしろヘレニスモスへの対抗策として新たに作り出された「ユダヤ化(Judaizing/Judaization)」という意味で取るべきであるという。つまり、ユダイスモスとは、単に信仰によって「ユダヤ人」である状態を保っている状態、すなわち「ユダヤ教」という意味ではなく、脱ユダヤ化(κατάλυσις)した他のユダヤ人を元に戻し、父祖の律法を復権させるという「ユダヤ化」という意味なのである。反対に、パウロやイグナティオスによるΧριστιανισμόςという語は、信徒が「ユダヤ化」(ユダイスモス)する危険に対して、キリストへ戻るという「キリスト化(Christianizing)」を意味していた。いわば、第二マカベア書はヘレニスモスの脅威に対してユダイスモスを擁護していたが、パウロやイグナティオスはユダイスモスの脅威に対する救済策としてクリスティアニスモスという語を作ったのである。

このように2世紀末までは、ユダイスモスという語は、包括的なシステムや生活の規範としての「ユダヤ教」の意味では用いられなかったが、3世紀になると多くのキリスト教作家が過去にさかのぼってユダヤ人の歴史全体をユダイスモスと呼ぶようになった。そのような作家としては、テルトゥリアヌス、オリゲネス、エウセビオス、エピファニオス、ヨアンネス・クリュソストモス、ウィクトリヌス、偽アンブロシウス、アウグスティヌスなどがいる。エウセビオスの時代になるまでには、ユダイスモスという語はユダヤの地における生活から切り離され、明らかに思想のシステムという意味で神学的に用いられるようになった。エウセビオスは、クリスティアニスモスはユダイスモスでもヘレニスモスでもなく、新しい真の神的な哲学であると述べている。自己規定に躍起になっていた教会は、既存のカテゴリーである「ユダヤ人」に自らの信仰を当てはめるのをやめ、キリストへの献身を独立したものとして見なそうとした。そうした対比の中で、ユダイスモスという語がシステマティックに抽象化されていったのである。論文著者によると、3世紀から4世紀のギリシア語で書かれた碑文の中にも同様の変化が見られるという。

2015年11月24日火曜日

クレアルコスはなぜユダヤ人をアリストテレスに会わせたのか? Bar-Kochva, "The Wisdom of the Jew and the Wisdom of Aristotle"

  • Bezalel Bar-Kochva, "The Wisdom of the Jew and the Wisdom of Aristotle," in Internationales Josephus-Kolloquium Brüssel 1998, ed. Jürgen U. Kalms and Folker Siegert (Münsteraner Judaistische Studien 4; Münster: LIT, 1999), pp. 241-50.
Internationales Josephus-Kolloquium, Brüssel 1998 (Münsteraner Judaistische Studien)Internationales Josephus-Kolloquium, Brüssel 1998 (Münsteraner Judaistische Studien)

Lit 1999
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本論文は、ヨセフス『アピオーンへの反論』180-81において引用されている、ソリのクレアルコスが伝えるユダヤ人とアリストテレスとの邂逅譚が、ユダヤ人がアリストテレスよりも賢いという意味合いを本当に伝えようとしているのかを再考したものである。通常、この箇所において、あるユダヤ人がアリストテレスとそのサークルの知的レベルを試し、なおかつ彼らから学ぶよりも多くを彼らに教えたとされている。しかしながら、論文著者は、アリストテレスの弟子であるクレアルコスが、自分の師よりも学識に優れている者としてユダヤ人を描くだろうかという当然の疑問を呈している。

そこで論文著者が注目するのが、παρεδίδου τι μᾶλλον ὧν εἶχενという表現のμᾶλλονの使い方である:
ὡς δὲ πολλοῖς τῶν ἐν παιδείᾳ συνῳκείωτο, παρεδίδου τι μᾶλλον ὧν εἶχεν.
しかしながら、彼が多くの学識ある者たちと共に住んだとき、彼はむしろ自分が持っているもののうちから何らかのものを伝えた〔or 彼はアリストテレスが持っているより多くの何かを伝えた〕。
論文著者は、この箇所のμᾶλλονについて、比較の意味で「より多くの」という意味と、絶対的な意味で「むしろ」という意味との二つがあり得ると述べている。アリストテレスよりもユダヤ人の方が知恵において優れている、という読みを採用したい研究者たちは、これを前者の意味で取るが、論文著者は、ギリシア散文での用法およびコンテクストから、これは後者の意味で取るべきであると述べる。なぜなら、クレアルコスが自分の師であるアリストテレスよりもユダヤ人を優れた者として描くのは不自然だからである。

この読みは、アレクサンドリアのクレメンスによる引用からも支持される。クレメンスは、ギリシアの知恵がユダヤ人に由来することを証明しようとする文書の中で(『ストロマテイス』1.15)、クレアルコスがユダヤ人とアリストテレスとの邂逅を物語っていることを記録している。仮にクレアルコスがユダヤ人の卓越性を描こうとしていたのなら、それをクレメンスが見逃すはずはないが、この箇所においてそのような記述はないのである。

以上から、クレアルコスが述べているのはユダヤ人の知恵がアリストテレスに勝っているということではないと論文著者は結論する。ただし、クレアルコスがユダヤ人に対して好意的な描き方をしていることは疑いない。ギリシアから離れ、違う言葉を話す民族が、自らをギリシア文化と結びつけ、偉大なるアリストテレスとの対話において、ギリシア精神を示したことを言祝いでいることは確かである。

論文著者によれば、クレアルコスは当時キュニコス派と論争をしていたのだが、その論争の中で、東方の「哲学者たち」の理想像を用いて、自らの逍遥学派的なアイデアを表明しようとしていたのだという。言い換えれば、クレアルコスは、ユダヤ人哲学者の持っている自制心(カルテリア)や節制(ソーフロシュネー)は、キュニコス派のそれとは相反するものであると言いたいのである。その際に、より東方のイメージのあるインド人を持ち出さずに、ユダヤ人を出したのは、アリストテレスが小アジアで出くわす可能性がより高かったからである。であるならば、この物語はユダヤ人に関する情報を提供しようとするものではなかったのだといえる。そしてヨセフスもまたこのことに気付いていたので、クレアルコスの記述の全体を引用せず、部分的な引用に留まったのだと考えられる。

さらなる参考文献
The Image of the Jews in Greek Literature: The Hellenistic Period (Hellenistic Culture and Society)The Image of the Jews in Greek Literature: The Hellenistic Period (Hellenistic Culture and Society)
Bezalel Bar-Kochva

University of California Press 2016-03
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2015年11月23日月曜日

テオフラストスにおける哲学者としてのユダヤ人 Satlow, "Theophrastus's Jewish Philosophers"

  • Michael L. Satlow, "Theophrastus's Jewish Philosophers," Journal of Jewish Studies 59 (2008), pp. 1-20.

本論文において著者は、テオフラストス、メガステネス、クレアルコスがユダヤ人を「哲学者」であると述べていることに関して、なぜそのような同一視がなされるようになったのかを探究している。結論から先に言えば、それは第一に、彼らギリシア人が「哲学者」と分類していた、東方の諸国における「賢者」や「祭司」という分類の中に、ユダヤ人が(誤って)含まれてしまったためであり、第二に、ユダヤ人の習慣として知られていた反偶像主義(aniconism)が、ギリシアにおける哲学的なそれと同一視されたためである。言い換えれば、ユダヤ人は、誤って入れられた賢者/祭司の階級、そしてギリシアの哲学的な反偶像主義との類似という、二重の意味で「哲学的」であると見なされたのである。

テオフラストスは、ユダヤ人が「哲学者というゲノス」であると述べているが、論文著者はその意味を、「民族」「国家」「人種」などいろいろあるなかで、「階級」という意味で取っている。つまり、彼はユダヤ人を、シリア人の内部にある哲学的な階級の一種として見なしているのである。これまで、Hans Lewyの研究などから、一旦ギリシア人が自分たちの思い込みによってユダヤ人の起源に適したカテゴリーを見出すと、彼らはユダヤ人を哲学者と見なし、彼らに適当な性格付けをしてきたことが明らかになっている。
これは古代ギリシアの民俗学や歴史学における次の二つの傾向とも一致している。すなわち、第一に、東方にエキゾチックな知が存在するという理想化の傾向、そして第二に、すでに流布している神話や先行者たちの報告に従って、自分で見てもいないにもかかわらず、「科学的な」説明をするという傾向である。こうした傾向によって、ユダヤ人が「東方の祭司/賢者」と一度見なされてしまうと、その先の説明は最初から決まってしまうのである。

そこから著者は、「ではなぜそもそもギリシア人歴史家たちはユダヤ人を祭司/賢者カテゴリーに入れたのか」と問う。インド人に最初に言及したギリシア人は、オネシクリトスであり、そのあとにメガステネスが続くわけだが、彼らのインド人描写といえば、犬儒派をモデルとした空想の産物に過ぎなかった。つまり、二人ともインド人賢者の思想をつぶさに研究した上で彼らを「哲学者」と呼んでいるわけではない。ここの「哲学者」は、深い知識を持った孤立した思想家を指すわけでも、ある哲学の学派に属するメンバーのことを指すわけでもない。そもそも前4世紀における「哲学」とは、第一に、実用的な訓練であり、第二に、政治的あるいは法律上の理論であった。それゆえに、ギリシア人はインド人賢者たちの持つ奇妙だが訓練された振る舞いを見たり、彼らが王たちに政治的なアドバイスをする姿を見たりしたことから、彼らを自分たちの知る最も近いカテゴリーである「哲学者」に当てはめたのである。この意味での「哲学者」の姿は、儀式を司ったり、実用的な技術(癒しなど)を提供したりする、古代近東における「賢者」のそれに近い。

論文著者はさらに、テオフラストスがブラフマンをインド人の中の一階級と見なしているのと同様に、彼がユダヤ人をシリア人の中の一階級と見なしていることに注目する(本来ならばユダヤ人は別の民族であるのだから、これは奇妙である)。また特に彼がユダヤ人の犠牲の作法に興味を持っていることにも注目する。ここから、論文著者は、テオフラストスが言及しているのはユダヤ人全体ではなく、ユダヤ人の中でも祭司のことだったと推論する。ユダヤ人の祭司は、祭儀を司る者であるから、東方の賢者イメージとオーバーラップする。そして、一度ユダヤ人の祭司が「哲学者」と規定されると、すべてのユダヤ人まで「哲学者」になってしまったのである。

さらにテオフラストスは、ユダヤ人が夜に犠牲を供するのは、すべてを見そなわす太陽から隠れるためであると述べている。おそらく彼は夕方に行われるタミッドかペサハの子羊の犠牲についての断片的な知識を持っていたのだと思われるが、ここで注目すべきは、ユダヤ人が星や太陽を含めた天に何らかの重要性を認めているとテオフラストスが考えていたことである。同様の記述は、ヘカタイオスの記録にも残されており、そちらではよりはっきりと、ユダヤ人が天を神的なものと考えている旨が記されている。ここから論文著者は、両者はここでユダヤ人の反偶像主義を暗示しているのだと考えた。そしてそのことが、特にテオフラストスをして、ユダヤ人を哲学者であると考えしめたのであるとする。ギリシアにおいても、神の姿をどのように考えるかについては、長い伝統があった。コロフォンのクセノファネスやヘラクリトスは、神人同型的な神観を否定し、より哲学的な神概念を提示した。このギリシア的な形而上学的な神概念を下敷きに、テオフラストスはユダヤ教の反偶像主義を「哲学的」と評価したのだと考えられる。

さらなる参考文献(順不同)
  • John Gager, The Origins of Anti-Semitism: Attitudes Toward Judaism in Pagan and Christian Antiquity (New York, 1985).
  • Louis H. Feldman, Jew and Gentile in the Ancient World (Princeton, 1993).
  • Peter Schäfer, Judeophobia: Attitudes toward the Jews in the Ancient World (Cambridge, 1997).
  • Bezalel Bar-Kochva, Pseudo-Hecataeus, "On the Jews": Legitimising the Jewish Diaspora (Berkeley, 1996).
  • Idem, "The Wisdom of the Jew and the Wisdom of Aristotle," in Internationales Josephus-Kolloquium Brüssel 1998, ed. Jürgen U. Kalms and Folker Siegert (Münster, 1999), pp. 241-50.
  • Shaye J.D. Cohen, The Beginnings of Jewishness: Boundaries, Varieties, Uncertainties (Berkeley, 1999).
  • Emilio Gabba, "The Growth of Anti-Judaism or the Greek Attitude towards the Jews," in Cambridge History of Judaism 2, ed. W.D. Davies and L. Finkelstein (Cambridge, 1984), pp. 618-24.

2015年11月20日金曜日

ギリシア哲学者としてのアブラハム Feldman, "Abraham the Greek Philosopher in Josephus"

  • Louis H. Feldman, "Abraham the Greek Philosopher in Josephus," Transactions and Proceedings of the American Philological Association 99 (1968), pp. 143-56.

本論文の中で著者は、アピオーンやアポロニオス・モロンによるユダヤ人批判に反論するヨセフスの護教的テクニックの一つとして、アブラハムをギリシア哲学者として描くことを挙げている。ヨセフスのアブラハムは、神の存在に関する目的論的議論を洗練された方法で逆転させる鋭さを持ちつつも、相手の話を聞く柔軟さを併せ持ち、しかも自身の科学的知識をエジプトの哲学者たちと共有する気前良さをも持っていた。

『古代誌』におけるヨセフスの護教論の目的は、非ユダヤ人からの批判に対抗することであったので、そうした非ユダヤ人読者にアピールするようなアブラハム像を創り出したのだった。ヨセフスは、トゥーキュディデースが描いた政治家ペリクレスのように、論理学と説得能力を持ったアブラハムを描いた。そもそも、古代における哲学の目的は、相手を説得し、転向させることであった。

論文著者は、そうしたアブラハムの論理的な演繹法のうちでも最も重要なものとして、神の唯一性の証明を挙げている。ユダヤ文学の中では、『アブラハムの黙示録』、『ヨベル書』、『創世記ラバー』などで、アブラハムが自身の理性を通じてこの見解に至ったことが描かれている。ただし、ヨセフスのアブラハムは、ストア派などギリシア哲学における証明方法を用いているのが特徴的である。しかも、多くの哲学者が天体の秩序だった動きに基づいて神の存在を証明するの対し、ヨセフスのみは――論文著者の調べた限りでは――ただ一人、天体の無秩序な動きに基づいてそれをしているという。キケロー『神々の本姓について』で描かれるクレアンテスは、神の存在を証明するものとして、嵐や地震といったこの世界における異常な出来事と共に、天体の秩序だった動きを挙げている。ヨセフスは、完全な自由意思を持った非物質的なユダヤ的な神概念を持っているがゆえに、クレアンテスの二つの議論を一つにまとめたような証明に至ったのだと考えられる(ただし、論文著者によれば、ヨセフスは哲学者というガラではないという)。

こうしたアブラハムを賢者として描く方法は偽エウポレモスにも見られるものであるから、ヨセフスの独創ではないが、ヨセフスはアブラハムを天文学者かつ論理学者として、より強調して描いている。ラビ文学や偽フィロンが、アブラハムが巻き込まれるカルデアでの騒動を、主に信仰の問題として描くのに対し、ヨセフスは、アブラハムが科学的かつ哲学的な議論において反発されたとしている。

ピタゴラスやソロンのようなソクラテス以前の哲学者たちが、マギ、インド人、エジプト人などの賢者たちと哲学的な議論するという典型的なイメージがヘレニズム時代にはあったが(フィロストラトス、プラトン『ティマイオス』)、アブラハムがエジプトを訪れたこともこのイメージを下敷きにして描かれている。事実、ヨセフスは『アピオーンへの反論』の中で、教養あるユダヤ人が小アジアにいたアリストテレスを訪ねて、知識を交換する様子を描いている。
ラビ文学にも同様の描写はあるが(ベホロット8b)、そちらではアブラハムは伝道者として描かれることが多く、ヘレニズム的な様式の哲学的な議論はほとんど出てこない。ヨセフスの描くエジプト人と対話するアブラハムは、論理学、哲学、修辞学、科学に秀でた極めて知性的で教養あるヘレニズム的紳士であった。それどころか、アブラハムは、のちにエジプト人が名声を得るに至った計算術や天文学に関する知識を、当のエジプト人に教えた人物となった。そうした知識を惜しげもなく与えるほど気前のよい人物としてアブラハムを描きたかったのである。ラビ文学においては、天文学の知識を持つアブラハムを肯定的に描く伝統は、中世になるまでなかった。むしろ、ラビたちは天文学や占星術を魔術と見なしていたので、アブラハムがそれを知っているがゆえに子供をなかなか得ることができなかったと説明していたほどである。

天文学者としてアブラハムを描くのは、先に述べたように偽エウポレモスにも見られるものであったので、ヨセフスはそれを流用して、ギリシアの読者にアピールするように、天文学のような科学的な精神を持った人物としてアブラハムを描いた。しかしながら、興味深いことに、フィロンはアブラハムはカルデアで天文学の知識を持っていたが、それは目に見える世界への執着であり、そこから出て目に見えない世界へと入ることによって、純粋な哲学者になったとした。ラビ文学は、アブラハムが占星術に関する知識を持っていたとしているが、神がアブラハムを説得して占星術を手放させたと伝えている。

ヨセフスは護教的理由から、哲学者かつ科学者としての側面を強調しつつ、アブラハムを典型的な国民的ヒーローとして描こうとしたのだった。

2015年11月19日木曜日

エビオン派キリスト教徒について Schoeps, "Ebionite Christianity"

  • H.J. Schoeps, "Ebionite Christianity," Journal of Theological Studies 4 (1953), pp. 219-24.

エビオン派のキリスト教とは、ローマの偽クレメンス、シュンマコス、福音書系の黙示文学、ラビ文学や教父文学などによって知られる、2世紀のユダヤ・キリスト者の共同体である。彼らはエルサレムを離れてコイレ・シリアやトランス・ヨルダンに移住した、最初期のキリスト教徒たちであった。論文著者はこのエビオン派について、そのキリスト論、反パウロ主義、そしてユダヤ法への姿勢という3つの観点から説明する。

キリスト論。エビオン派はイエスのことを、律法を完全に遵守する預言者だと考えていた。すなわち、イエスは神の子ではなく、あくまで人の子と見なされたのである。イエスが神の力を得たのは、誕生のときや先在のときではなく、洗礼を受けたその日からであった。いわば、イエスは神の実の子ではなく、洗礼によって縁組した養子なのである(adoptionist Christology)。この人の子は、天へと上ったあとも、救済のときに最後の審判のために再臨することが期待されていたが、再臨の遅れによって、エビオン派の神学は次第に廃れ、カトリック教会の発展につながることになる。一方で、イエスはモーセのような「真の預言者」と見なされていた。モーセがユダヤ人にとっての世話役であったのと同様に、イエスは異邦人にとっての世話役であった。

反パウロ主義。エビオン派は教会におけるパウロの役割をまったく重視しなかった。パウロの使徒性がビジョンと啓示によってのみ担保されていたのに対し、真の使徒性はイエスとの直接の個人的な関わりこそが裏打ちするのだと彼らは考えたのである。それゆえにパウロは、真の使徒たちと共同する者といった役割にまで格下げされたのだった。この理由の一つとしては、回心前のパウロによるキリスト教への非道な行為もあったと考えられる。

エビオン派の律法理解。エビオン派は自他共に認める律法の熱狂的な支持者であり、それを厳格に守るあまり、菜食主義、清貧、そして清浄を旨としていた。一方で、モーセの律法を組織的に変更した点もある。彼らは律法の変更によって、以下のことを否定した:動物犠牲の血なまぐさい祭儀、イスラエルの王政、聖書の中で成就しなかった預言、そして神人同型説である。彼らにとって、イエスは律法の遵守者であると同時に、律法の改革者でもあったのである。中でも、動物祭儀の否定は、エビオン派による反パウロ主義とつながっていて重要である。というのも、パウロによるイエスの死の救済論的評価とは、まさにイエスを贖いの犠牲とすることに他ならなかったからである。いわば、イエスは洗礼の水によって、犠牲という火を鎮火したのだった。このように、一見矛盾する、律法の厳守と改革とは、律法と神の意志との乖離を埋めるためのものであった。

歴史の中でのエビオン派の位置。すでに見たように、エビオン派の考え方は、祭儀の場所としてのエルサレム神殿の否定であった。これと似た考え方は、エッセネ派にも見られる。論文著者は、アイン・フェシュカのツァドク派、ダマスカス教会、エッセネ派、そしてエビオン派が教義上の関連性を持っていると指摘する。

2015年11月17日火曜日

アブラハム神殿放火物語に見るビザンツ・シリア・ユダヤの聖書解釈の関係性 Adler, "Abraham and the Burning of the Temple of Idols"

  • William Adler, "Abraham and the Burning of the Temple of Idols: Jubilees' Traditions in Christian Chronography," Jewish Quarterly Review 77 (1986), pp. 95-117.

本論文の中で著者は、エデッサのヤコブやバル・ヘブラエウスといったシリア語聖書解釈の中にある、アブラハムの偶像破壊に関するユダヤ教由来の聖書解釈が、『ヨベル書』のようなユダヤ文献に直接基づくものではなく、実はシュンケッロスらビザンツ時代の古代誌家たちが保存するより古代のギリシア語伝承(エウセビオス、アンドロニコス、アフリカノス、アンニアノスら)に基づくものであると論じている。

ビザンツの古代誌家たちは、アブラハムの偶像破壊やそれに続くハランからの脱出というユダヤ教ミドラッシュを知っており、それを『ヨベル書』から引用したとさえ主張しているが(ゲオルギオス・ケドレノス)、しばしばそれは現在残っているエチオピア語訳『ヨベル書』の内容とは異なっている。論文著者は、4種類の聖書解釈(何人かのロゴセテス古代誌家たちの要約、ゲオルギオス・シュンケッロス、ゲオルギオス・ケドレノス、修道士ゲオルギオス)をまず紹介する。それによると、ロゴセテス歴史家とシュンケッロスの解釈がより古いものであるという。しかし、修道士ゲオルギオスの解釈はエピファニオス『パナリオン』を翻訳し、かつヨアンネス・マララスの解釈を折衷したものであったり、ロゴセテス歴史家の解釈はユリオス・アフリカノスからのものであったりする。つまり、エチオピア語訳『ヨベル書』から直接引用したものではない。

シュンケッロスは、アブラハムとテラの年齢に関する時系列の矛盾を解決するための解釈を保存している。時系列ではハランでのテラの死の方がアブラハムのハラン出発より先に来ているが、それはテラが先に実際に死んだのではなく、アブラハム出発後のテラは精神的には死んだも同然だったからだという解釈である。これはユダヤ教文書である『創世記ラバー』に収録されている解釈である。『創世記ラバー』の解釈とはこうである:年齢だけを見ると、アブラハムは明らかにテラの死より先にハランを出発したことになっているが、聖書ではテラの死を先に書くことで、父を置いて出て行ったという罪状からアブラハムを解放し、同時に偶像崇拝者であるテラの生など死も同然だと指摘している。ただし、シュンケッロスと『創世記ラバー』では細部が異なるので、論文著者は、シュンケッロスのネタ元は、5世紀のアレクサンドリアの古代誌家であるアンニアノスとパノドロスではないかと述べている。

著者はさらに、アブラハムに関する同様の解釈を、なぜシリア語で著作した古代誌家たちも知っていたのかを検証する。そこで彼が議論の叩き台とするのが、次のSebastian Brockの論文である。
この中でBrockは、ヒエロニュムスが保存するアブラハムに関するユダヤ伝承と『ヨベル書』とをまず比較し、両者共に、アブラハムがウルを出発したのが60歳であったと言及していることに注目する。同時にこの60歳という数字は、シリア語伝承にも残されている。しかし、Brockは『ヨベル書』とシリア語伝承との相違も指摘している:アブラハムの神殿放火とウルからの出発を因果関係で結ぶシリア語伝承に対し、『ヨベル書』ではそれが薄く、神殿放火とウルからの出発との間に3年のブランクを置いているため、創世記の時系列と矛盾をきたしている。こうしたことから、Brockは、シリア語伝承は現在の『ヨベル書』に依拠しているのではなく、むしろ『ヨベル書』と共通のより古く純粋なソースに依拠していると論じている。

しかしながらAdlerは、このBrockの主張に対し、次の2点を反論する:第一に、ヒエロニュムスが保存するユダヤ伝承とシリア語伝承とは同じものではない。シリア語伝承は、時系列の矛盾に関する関心が薄いのである。第二に、ヒエロニュムスが保存するユダヤ伝承の時系列とシリア語伝承のそれとは異なっている。前者ではアブラハムがハランで75年過ごしたとされるのに対し、後者では14年である。ヒエロニュムス、シリア語伝承、『ヨベル書』が共有しているのは、アブラハムが偶像崇拝にはっきりと反対したのは60歳のときだったということである。

こうしたことから、Adlerは以下のように主張する:シリア語伝承は、Brockの言うように『ヨベル書』のプロトタイプからのものではなく、ビザンツ古代誌家に知られていたギリシア古代誌家たちの解釈からのものである。そもそもBrock自身が、シリア語伝承の中にギリシア語からの影響を認めているではないか。つまり、しばしばあるシリア語伝承がユダヤ伝承由来とされることがあるが、ことはそう単純ではない。その伝承は、直接ユダヤ教聖書解釈から来たものではなく、ビザンツ古代誌家がギリシア古代誌家から知り得た解釈を通して来たものなのである。

2015年11月16日月曜日

アブラハム物語の時系列における矛盾 Brock, "Abraham and the Ravens"

  • S. P. Brock, "Abraham and the Ravens: A Syriac Counterpart to Jubilees 11-12 and Its Implications," Journal for the Study of Judaism 9 (1978), pp. 135-52.

本論文において、著者は『ヨベル書』11-12章におけるアブラハムの物語に関して、『ヨベル書』と、それと似た内容を保存するシリア語伝承とを比較することで、後者が実は単なる前者の翻訳ではなく、むしろ同じソースを共有していること、なおかつ後者の方が元来の解釈意図に沿っていることを示している。このシリア語伝承は、『カテーナ・セウェリ(Catena Severi)』と、エデッサのヤコブによるリタルバのヨハネ宛て書簡に保存されている。

『カテーナ』と『ヤコブ書簡』とは、共に同じソースに依拠していると考えられる。論文著者は、この2つのシリア語伝承と『ヨベル書』とを比較しつつ、いくつかの類似点と相違点とを明らかにしている。そのうち特に以下のことを挙げておきたい:
  • 両者共に、アブラハムが異教の神殿を燃やしたときの年齢を60歳にしている;
  • 『ヨベル書』はアブラハムによる神殿放火と、ウルからの出発とを結びつけていないが(実際、神殿放火のあとも彼らは3年間ウルに住み続けている)、シリア語伝承はこの2つの出来事を因果関係として結びつけている。
  • 『ヨベル書』では、アブラハムがハラン移住後に父テラと14年間共に住んだことが明らかにされているが、テラの死には触れられていないのに対し、シリア語伝承では、ウル出発から14年後にテラがハランで死に、そのときアブラハムは74歳だったことが言及されている。
こうした比較から、論文著者は、シリア語伝承の方が『ヨベル書』よりも、特に時系列の矛盾の解決に関して、物語の発展における古代の状態を維持していると述べる。では、その時系列の矛盾とは何か。

創世記11章から12章にかけて、アブラハムの年齢とテラの年齢には矛盾がある。11:26において、テラは70歳のときにアブラハムが生まれたとされており、11:32では、テラは205歳で死んだことになっている。しかしながら、テラの死に言及したあとの12:4で、アブラハムがハランを75歳で出発したことになっているが、それだとテラはアブラハムのハラン出発のあとさらに60年生きていたことになってしまう。この矛盾は早くから知られており、『創世記ラバー』39:7や使徒行伝7:4などに、その解決の一端を見ることができる。最もラディカルなのはサマリヤ五書で、何とテラが死亡した年齢を変えて、145歳で死んだことにしている。こうすると、70歳(アブラハムが生まれたときのテラの年齢)+75歳(アブラハムがハランを出発したときの年齢)=145歳となり、アブラハムはテラが145歳で死んでからハランを出発したことになる。

しかし、これでは聖書本文を改変せざるを得なくなる。聖書本文を変えずにこの矛盾を解消する方法としては、2つ考えられる。第一に、バル・ヘブラエウスのように、アブラハムは75歳のときに一度ハランを出発し(テラ145歳)、その後ウルに戻ってきて、テラが205歳で死んでから(アブラハム135歳)、再びハランを出発したという解釈である。この二度の出発のうち、聖書は最初の出発のみに言及しているとバル・ヘブラエウスは考える。

第二に、ヒエロニュムスのように、テラが死んだ205歳のときにアブラハムが135歳ではなく75歳であるようにするために、アブラハムが60歳の時に火をくぐることで生まれ変わり、そこを0歳として数えなおすという解釈である。つまり、ヒエロニュムスは火事に関わる出来事がアブラハムが60歳のときに起こったことだという解釈を保存しているわけだが、すでに見たように、60歳という数字は『ヨベル書』にもシリア語伝承にも残されている。

ただし、ヒエロニュムスはテラの死との関係性をもとに60歳という数字を出しており、テラの死はシリア語伝承でも言及されているわけだが、『ヨベル書』には言及がないので、論文著者は、『ヨベル書』は60歳という数字を知っているだけにすぎず、その背後にある解釈のロジックには無知であると主張する。また、ウルからの出発と火事の出来事とを因果関係で結んでいることから、ヒエロニュムスが保存する伝承は、『ヨベル書』よりもシリア語伝承により近いものだと言える。

他にもいくつかの理由から、論文著者は、以下のような結論を導いている:第一に、シリア語伝承は、『ヨベル書』そのものではなく、『ヨベル書』が下敷きにしたソースに由来するものであること、第二に、両者は創世記の時系列の矛盾を解消するために腐心しているが、シリア語伝承の方がより古い状態を保存しており、『ヨベル書』はその解釈の背後にある論理を無視したまま、いくつかの要素を再利用しているにすぎないこと、などである。

死海文書に関するイマニュエル・トーヴのインタビュー

わりと最近公開されたらしきイマニュエル・トーヴ(Emanuel Tov)先生のインタビューがありました。どうやら、2013年にウクライナ・カトリック大学で開催されたコンフェレンス(International Biblical Conference "Biblical Studies, West and East: Trends, Challenges and Prospects")でのインタビューのようです。トーヴ先生は、いわずもがなですが、ヘブライ語聖書と七十人訳の本文批評の専門家であり、また死海文書の校訂テクスト出版のメイン・エディターとして、Discoveries in the Judean Desert(DJD)シリーズを完結に導いた功労者です。ビデオの中では、死海文書研究について、平易な英語で分かりやすく語っています。

ヨセフスとパリサイ派 Neusner, "Josephus's Pherisees"

  • ジェイコブ・ノイズナー「ヨセフスとパリサイ派」、L.H. フェルトマンと秦剛平(編)『ヨセフス研究2:ヨセフスとキリスト教』山本書店、1985年、117-60頁=Jacob Neusner, "Josephus's Pharisees: A Complete Repertoire," in Josephus, Judaism, and Christianity, ed. Louis H. Feldman and Gohei Hata (Detroit: Wayne State University Press, 1987), pp. 274-92.
ヨセフス研究〈2〉ヨセフスとキリスト教 (1985年)ヨセフス研究〈2〉ヨセフスとキリスト教 (1985年)
秦 剛平

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本論文で、著者は、ヨセフスによるパリサイ派に関する記述を比較検討することで、モートン・スミスによるパリサイ派理解が正しいことを論証しつつ、それまでの理解を批判している。そのスミスによるパリサイ派理解とは、要約すると以下のようなものである:
ヨセフスの『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』とを比較すると、前者においてヨセフスはパリサイ派についてさほど詳述していないし、描いたとしてもアレクサンドラ・サロメの迷信に付け込んで政治的権力を手に入れた偽善者として描写している。しかしながら後者において、ヨセフスはパリサイ派が民衆の間で人気がある者たちとして描いている。しかも、サロメの夫であるアレクサンドロス・ヤンナイオス(反パリサイ派)ですら、死ぬ間際にパリサイ派を認めていたという記述を付け加えている。いわば、『古代誌』においてヨセフスは、エルサレムを占領したローマに対する政治的配慮から、手を組むならパリサイ派にしろと推奨しているのである。
つまり、ヨセフスが『古代誌』で描くパリサイ派の姿は、ヨセフスのプロパガンダによる歪曲である。これまでの多くの研究者たちは、『古代誌』の記述をもとに、後70年以前におけるユダヤ教の規範的宗派はパリサイ派だったという「汎パリサイ・汎ラビ的」見解を持っていたが、スミスとノイズナーは、『古代誌』の記述はパリサイ派の実際を描いたものではないし、またおそらく後70年以前のパリサイ派は多くの諸派のうちの一つにすぎなかったと主張するのである。

論文著者はまず、『自伝』における記述から、ヨセフスが自分をパリサイ派であると見なしていたこと、そしてガリラヤで指揮官を務めていたときに、パリサイ派のシメオン・ベン・ガマリエルと対立したために解任されたことに触れている。

次に、著者は、『戦記』のパリサイ派について、アレクサンドラ・サロメとの関係、ヘロデの宮廷で賄賂を受け取っていたこと、そして哲学の学派の一つとして説明されていることなどから検証していく。ここではパリサイ派は、宗教の実践や律法の解釈では卓越しているが、マカベア王朝で政治的実権を握り、敵対者を殺害した者たちとして描かれている。しかしながら、彼はここでは、パリサイ派が最も人気がある宗派であるとか、民衆に支持があるなどとは述べていない。

一方で、『古代誌』のパリサイ派は目立つ存在として描かれている。それどころか、パリサイ派の協力なしではパレスチナ統治は成り立たないとさえ述べている。著者は、パリサイ派について、哲学の学派の一つ、ヨアネス・ヒュルカノスとの関係性、アレクサンドラ・サロメとの関係性、ヘロデの宮廷での出来事などから説明していく。それによると、パリサイ派は市井の人々によって支持されており、アレクサンドロス・ヤンナイオスにも最終的には認められ、アレクサンドラ・サロメの後ろ盾を得ている。さらには、『戦記』では描かれていた、パリサイ派による敵対勢力へのリンチも、『古代誌』では隠ぺいされている。

こうしたことから、著者は、パリサイ派を後70年以前のパレスチナ・ユダヤ教の中の規範的宗派として言及することはできないと結論付ける。歴史上のパリサイ派について我々が学ぶことができるのは、パリサイ派の影響力や権力ではなく、第一に、ハスモン王朝の政治に深くかかわる政治結社だったこと、第二に、ユダヤ社会の主流の民族哲学とは異なる特有の哲学を持った学派だったことである。そして政党としてのパリサイ派は前1世紀の最初の50年は有効に機能したが、それ以後は、個々人のパリサイ派は存在しても、派としてのグループはヒレル時代までには政治的活動を停止したのである。

参考エントリー

2015年11月14日土曜日

秦「ヘレニズム・ローマ世界のモーセ像」

  • 秦剛平「ヘレニズム・ローマ世界のモーセ像」、L.H. フェルトマンと秦剛平(編)『ヨセフス研究4:ヨセフス・ヘレニズム・ヘブライズムII』山本書店、1986年、145-86、328-32頁。

本論文で、著者はヘレニズム・ローマ時代のモーセ像を、(1)異民族に対する好奇心からモーセを紹介したり、言及したりしている資料、(2)ユダヤ人の律法制定者に否定的な価値判断を加えている資料、そして(3)明確なアンチ・セミティズムの立場から、モーセの人となりや、出エジプトの物語を創作している資料、の三種類から明らかにし、なおかつそのようなモーセ像を創出するに至ったギリシア人とユダヤ人との関係性を説明している。

第一のカテゴリーでは、ヘカタイオス、ポセイドニオス、ポンペイウス・トログス、ディオドロスが扱われている。ヘカタイオスはユダヤ人をエジプトにおける外国人として描いている。悪疫の発生が外国人の存在に帰されたので、ユダヤ人も他の外国人と共に追放された。ただし、描き方は敵対的というより、民俗学的な関心に基づいている。事実、モーセは高く評価されている。あたかも聖書を引用しているように見える箇所があるが、その可能性は低い。なぜなら、シナゴーグに関する記述がほとんどないからである。ストラボン『地誌』に引用されるポセイドニオスは、ユダヤ人の起源はエジプト人であり、彼らはエジプト人が動物を神とすることを不満に思い、エジプトを出たと説明する。ただし、批判的ではない。ポンペイウス・トログスは、疥癬とらい病にかかった者たちがモーセと共に追放されたと述べる。ただし、モーセの容姿の美しさを高く評価している。ディオドロスは、やはりレプラに罹った病人たちが追放され、彼らが他の民族と食卓を共にしないと説明している。またエルサレムの神殿にはロバに乗ったモーセの像があると述べる。

第二のカテゴリーでは、クインティリアヌス、タキトゥス、ユウェナリスが扱われる。クインティリアヌスは、モーセを「ユダヤ人の迷信の創始者」と述べる。タキトゥスは、ユダヤ人がかつて豚肉を食べたために疥癬にかかったので、今では口にしないと説明する。またユダヤ人は怠惰ゆえに安息日と7年ごとに休養することにも触れている。このことについてはセネカも述べている。ユウェナリスは、ユダヤ人が同胞以外には道を尋ねられても教えず、泉に案内することもしないと説明する。

第三のカテゴリーでは、マネトン、リュシマコス、カイレモン、アピオーンが扱われる。このうちマネトンとカイレモンはエジプトの聖職者である。マネトンは、モーセをヘリオポリスの神官だったとし、また神々を跪拝しない無神論者と説明する。リュシマコスは、疥癬とらい病の件に触れつつ、モーセの教えが「他人に善意を示すな、最悪のことを忠告せよ、神々の聖所を破壊せよ」というものだったと述べる。またユダヤ人を無神論者として描く。カイレモンは、エジプトを追放された浮上の者たちの指導者がモーセとヨセフであったと述べる。アピオーンは、ユダヤ人がレプラ患者、盲人、ちんばのエジプト人であり、ロバを崇拝している(ディオドロス同様)と述べている。彼らの文書はギリシア・ローマ世界で広まり、タキトゥスには、リュシマコス、アピオーンらの文書からの影響が見られる。

こうした文書が書かれるに至った経緯として、論文著者は、アレクサンドリアでの出来事に注目する。プトレマイオス王朝支配のアレクサンドリアでは、反ユダヤ感情はまだ文書上に留まっていたが、同地がローマの属州となったときに、ユダヤ人がローマに対し、他のギリシア人と同等の市民権イソポリテイアを求めたことが、ギリシア人の反ユダヤ感情に火をつけた。後38年に、ローマでユダヤの王として認められたアグリッパがアレクサンドリアに立ち寄ると、当地のユダヤ人がアグリッパ王を中傷する寸劇を上演した。そして、それに興奮したギリシア人の民衆がシナゴーグを襲ったのである。フィロン率いるユダヤ人使節と、アピオーン率いるギリシア人使節とが、皇帝カリグラと接見したが、カリグラはエルサレム神殿に自分の像を立てるように命じた。

41年にカリグラが死ぬと、新皇帝クラウディウスは、ディアスポラ・ユダヤ人の権利と特権を保証する勅令を発布した。論文著者は、この勅令がユダヤ人に有利なものであったがゆえに、ギリシア人の反ユダヤ感情は収まらず、のちに70年にエルサレムが陥落したときも、アレクサンドリアのユダヤ人が援軍を送ることもできない状況になったのではないかと考察する。事実、73年に落ち延びてきたシカリオイが反ローマ宣伝をしようとすると、アレクサンドリアのユダヤ社会は彼らを官憲に引き渡した。

こうした事情から、上の作家たちの中には、ユダヤ人とモーセを批判的に描く者が多かったわけだが、彼らは七十人訳を実際に読んでいたわけではない。七十人訳は、翻訳であっても、あくまで聖なる書物としてシナゴーグで読まれていたはずであると、論文著者は考える。

参考エントリー

2015年11月9日月曜日

ギリシア文学において最初にユダヤ人に言及したのは誰か? Stern and Murray, "Hecataeus of Abdera and Theophrastus"

  • Menahem Stern and Oswyn Murray, "Hecataeus of Abdera and Theophrastus on Jews and Egyptians," Journal of Egyptian Archaeology 59 (1973), pp. 159-68.

本論文は、ギリシア人によるユダヤ人への言及はアブデラのヘカタイオスとテオフラストスのどちらが先であるかについて、SternとMurrayがそれぞれ議論している2本の論考を、1本の論文として出版したものである。

テオフラストス『敬虔について』の断片を発見したJacob Bernayは、1866年に、テオフラストスこそがギリシア文学において最初にユダヤ人に言及した人物であると指摘した。この説はTh. Reinachによっても支持された。しかしながら、1938年にWerner Jaegerは、テオフラストスの記述はアブデラのヘカタイオスに依拠していると反論したのだった。Jaegerの説は、O. Regenbogen, F. Jacoby, A.D. Noch, E.J. Bickerman, J. Gutman, M. Hengelといった多くの研究者に受け入れられ、なかば定説となった。

Jaegerは、ヘカタイオス『エジプト史』の成立を前305年以降と考えている。一方で、Jaegerによれば、テオフラストス『鉱物について』という書物はいくつかの理由から前300年以降の成立と考えることができ、なおかつその中にヘカタイオスの著作からの情報と思しき記述が見受けられるために、テオフラストスは『鉱物』でヘカタイオスに依拠しているのだから、『敬虔』でのユダヤ人描写においても同様であるに違いないというのである。

本論文の著者は両方とも、このJaegerの時期設定はどこかしら受け入れがたいと考えている。短く言えば、SternはJaegerによるヘカタイオスの成立年代は正しいが、テオフラストス(『敬虔』)の成立年代はもっと古いはずなので、テオフラストスの方が先だと考えている。一方で、Murrayは、Jaegerによるテオフラストスの成立年代は誤っており、テオフラストスに関するSternの修正は基本的には正しいが、JaegerもSternもヘカタイオスの成立年代については誤っており、実はもっと古いはずなので、ヘカタイオスの方が先だと考えている。

Sternによれば、テオフラストス『鉱物』を吟味すると、言及されている年号から、おそらくは前315年頃には同書が成立していたと述べている。すなわち、Jaegerによってヘカタイオス『エジプト史』が成立したと考えられている前305年より10年も前である。そもそもある著作(『鉱物』)でヘカタイオスに依拠しているからといって、別の著作(『敬虔』)でも同様とは限らない。また、ユダヤ教に関しては、テオフラストスよりヘカタイオスの方が正確なので、後者の方がより後代である可能性が高い。さらに、テオフラストスは前319年に不敬虔であることを咎められ、裁判沙汰になっており、『敬虔』はそれに対する自己弁護として書かれた可能性もある。となれば、同書の成立は少なくとも前320年から前310年頃と考えるべきである。

以上から、Sternは、ユダヤ人に最初に言及したギリシア人はテオフラストスであり、彼はヘカタイオスに依拠してはいないと結論付けた。

一方で、Murrayは、Sternによるテオフラストス『鉱物』(前315年)の成立年代は正しいが、ヘカタイオス『エジプト史』が前305年の成立であると考える必要はないと述べる。このことを彼は、むしろヘカタイオスの著作を吟味することで、以下の5つの理由から正当化している。第一に、『エジプト史』において言及されている最後の出来事は、前320年に行われたアピスの葬礼であること。第二に、前305年に王となったプトレマイオスがどこにも王としては言及されていないこと。第三に、ユダヤ人への関心が強く、その知識はおそらく前320-前318年に行われたペルシア遠征で得られた可能性が高いこと。第四に、前321年から前312年頃に首都になったアレクサンドリアへの言及はなく、それ以前の首都であったメンフィスへの言及はたくさんあること。そして第五に、Murrayの以前の研究で明らかにされたとおり、ヘカタイオスの姿勢がプトレマイオス朝初期の傾向に即してあること。

以上から、Murrayは、少なくともヘカタイオス『エジプト史』は前312年以前には書かれていたと主張する。前3世紀になってから『インド史』を書いたメガステネスは、すでにヘカタイオスを民族誌のスタンダードと考えていたことも、ヘカタイオスが古いことを支持する。さらに、Murrayによれば、テオフラストス『鉱物』には、ヘカタイオス『エジプト史』の記述に依拠していると思しき箇所がいくつかあるので、少なくとも『鉱物』を書いたときに、テオフラストスはヘカタイオスを参照していた可能性が高いとする。では、『敬虔』はどうかというと、Murrayは、確信はないが、『鉱物』と同時期に書かれたものであると考えており、そうであるならばやはりヘカタイオスの記述をもとに書かれた可能性を否定できないと述べる。

読んでみると、両者共に、ヘカタイオス『エジプト史』とテオフラストス『鉱物』との関係性については、ある程度しっかりした議論をしているが、こと『敬虔』に関しては、かなり推測に頼らざるを得ないようである。

2015年11月7日土曜日

ギリシア人とユダヤ人 Jaeger, "Greeks and Jews"

  • Werner Jaeger, "Greeks and Jews: The First Greek Records of Jewish Religion and Civilization," Journal of Religion 18 (1938), pp. 127-43.

本論文は、ヘレニズム期におけるギリシア人とユダヤ人との関係を明快に解き明かしたマスターピースである。たとえ自身はユダヤ人に関する記述を残してはいなくとも、ユダヤ人を含む東方世界の諸民族の理解への道を整えたのは、アリストテレスその人であった、と論文著者は述べる。彼のキャリアの初期に書かれた、完全には現存しない作品の中で、アリストテレスは東方世界の宗教への関心を見せていた。そうした作品群のひとつである『哲学について』において、アリストテレスはオリエントの「哲学」に言及している。論文著者は、ここでの「哲学」とは厳密な意味でのギリシア哲学のことではなく、いわばゾロアスター教のマギが持つ知恵、すなわち「神学」というほどの意味であると指摘する。

一方で、アリストテレスと同時期のプラトン主義哲学者たちもまた、プラトンによる善の原理を彷彿とさせる、ゾロアスター教の形而上学的な二元論に関心を持っていた。しかし、アリストテレスは彼らのプラトン的二元論に反対し、それを彼の厳格な一元論、さらには神学的な観点から言えば、一神教に取り換えたのである。論文著者曰く、こうした傾向を持つアリストテレスがもしユダヤ教を知っていれば、間違いなく言及していたであろうし、逆にアリストテレスがユダヤ教に好意的に言及していたならば、後代のユダヤ人歴史家たちは間違いなくそれを引用していたはずである。しかし、残念ながらそうした事実はない。

代わりに、アリストテレスの弟子であるソリのクレアルコスは、師匠がユダヤ人と出くわした場面を描いている。おそらくクレアルコスは、ユダヤ人口の多かったキプロスあたりで、実際にユダヤ人に出会っていた可能性は十分ある。また、同様にアリストテレスの弟子であるテオフラストスもまた、新プラトン主義者ポルフュリオスの『自制について』に引用されている、『敬虔について』の中でユダヤ人に言及している。

テオフラストスはユダヤ人を「哲学的な人種である」と述べている。そのこころとして、彼は2点ユダヤ人の哲学的な性質を挙げる。第一に、ユダヤ人が自分では食べない動物を犠牲に奉げる習慣を持っていること、第二に、ユダヤ人が祭りの夜に神を賛美し、神に関する議論をしながら星を観ることである。これは、ヘレニズム期に新しく生まれてきた、自然神学的な特徴を示している。加えて、テオフラストスははっきりとは明言していないが、彼は間違いなくユダヤ人が唯一なる神を信仰していることを知っていたはずであり、そうであるがゆえにユダヤ人を「哲学的な人種である」と説明しているのだと考えられる。

テオフラストスはさらに、ユダヤ人が動物のみならず人間をも犠牲として神に捧げた最初の民族であると述べている。これは、彼が部分的にでも聖書の物語を知っていたことを意味する。なぜならば、カインとアベルは初めて神に犠牲を捧げた人間であり、イサクを犠牲にしようとしたアブラハムは始めて人を犠牲にしようとした人間であるからである。むろん、七十人訳の翻訳がまだ完成していなかった時代に生きたテオフラストスが聖書を読めたはずもないので、おそらく彼は何らかのソースを持っていたと考えられる。

こうした記述を残すテオフラストスのソースは何であろうか?論文著者は、それは『エジプト史』を書いたアブデラのヘカタイオスであると考えた。エジプトの歴史資料を自由に使うことのできる位置にいたヘカタイオスは、エジプトの君主制をプラトン的な理想の国家像として描いた。そしてすべての文明がエジプトに由来するという説明をする中で、ユダヤ人がいかにしてエジプトを出ていったかについて触れているのである。前288年に死んだテオフラストスが、前300年頃に書かれたとされるヘカタイオスの『エジプト史』を読んでいた可能性は十分ある。

ただし、ヘカタイオス自身がユダヤを訪れたことがあるとは考えにくい。おそらく彼はアレクサンドリアなどで、ギリシア語を話せるユダヤ人と接触したのであろう。彼は、七十人訳完成以前であるにも関わらず、申命記の一節らしき文章も引用している。一方で、ヘカタイオスにはユダヤ人の歴史を誤解している部分も少なくない。特に、モーセがエジプトを出てエルサレムの町を作っていくところなど、明らかな誤りだが、もしかしたらそれは彼がモーセの逸話を、ギリシアにおける通常の植民地の作り方に合わせて変更したからかもしれない。さらにヘカタイオスは、明言はしていないが、やはりテオフラストスと同じように、ユダヤ人が純粋な一神教を奉持していると考えていた節がある。

テオフラストスもヘカタイオスも、ユダヤ人たちが持っている、普遍的な一神教に基づいた宗教システムと、神権政治的なヒエラルキーに基づいた政治システムを考慮することで、ユダヤ人が「哲学的な人種である」という結論に至ったのである。

アリストテレスとユダヤ賢者の邂逅 Lewy, "Aristotle and the Jewish Sage"

  • Hans Lewy, "Aristotle and the Jewish Sage according to Clearchus of Soli," Harvard Theological Review 31 (1938), pp. 205-35.

以下かなり長文かつ、途中から話の流れが分かりづらくなるが、それは筆者がまだ論文の内容を完全には消化しきれていないためである。ここではとりあえずのまとめを残しておきたい。

(I)ヨセフスは『アピオーンへの反論』1.177-81において、逍遥学派哲学者であるソリのクレアルコスがユダヤ人に言及している箇所を引用している。クレアルコスの著書『眠りについて』の中では、彼の師匠であるアリストテレスがあるユダヤ賢者と出会い、哲学的な議論をした場面が描かれている。ヨセフスはここでの彼らの議論がどのようなものであったかまでは引用していないので、その内容はよく分からない。ヨセフスの意図はただ、ユダヤ人が古くから教養あるギリシア人とつきあいがあったことを示すことで、ユダヤ人が新しい民族であるというアピオーンの主張に反論することだった。引用から分かることはただ、アリストテレスがこのユダヤ賢者の「不思議な性質と哲学」を称えており、なおかつ「何らかの驚くべき夢のようなこと」を学んだということである。

ところで、新プラトン主義者であるプロクロスもまた、『プラトン「国家」注解』の中で、クレアルコスの『眠りについて』を引用している。そこには、眠っている子供から魂を引き出す実験をした魔術師の逸話が残されている。論文著者(および先行研究者ら)は、この魔術師こそ、ヨセフスの引用でアリストテレスと会ったユダヤ人その人であると指摘する。論文著者は、この推論をもとに、不明な点の多いヨセフスの引用におけるユダヤ人を、プロクロスの引用における魔術師の描写から解き明かしていく。

そこで論文著者が注目するのが、プロクロスの引用における、肉体から解き放たれた魂の議論である。魂がどのように肉体から解き放たれるのかというのは、プラトンの時代からの議論であった。そして、眠りは、魂が本来のかたちを取り戻すひとつの契機であると考えられていた。それゆえに、ヨセフスの引用におけるアリストテレスとユダヤ人とが交わした哲学的な会話にも、この眠りと夢に関する事柄があったかもしれないと論文著者は考える。ヨセフスの引用における「何らかの驚くべき夢のようなこと」という記述もこれを暗示している。

ただし、本来ならば、こうした催眠術師のような存在と、通常の理解でのユダヤ人のイメージとは相いれないものであるはずである。しかし、論文著者は、ユダヤ人の起源に関するクレアルコスの見解をもとにこの矛盾を説明しようとする。ヨセフスの引用において、クレアルコスはユダヤ人がインドの哲学者の末裔であると説明している。すなわち、インドにおいては哲学者は「カラノス」と呼ばれ、シリアにおいては「ユダヤ人」と呼ばれていたというのである。このカラノスとはインドの裸形者たちのことであり、あるカラノスがアレクサンドロスの東方遠征において、王の前で自らを火の中に投じたことが知られていた。またギリシアではこのカラノスたちは、東方における他の宗教共同体と関連付けられていた。それゆえに、クレアルコスは他の著作において、裸形者たちがゾロアスター教におけるマギの末裔でもあると説明している。そして、これらマギたちは、魂の不死性を信じていることが知られていた。いうなれば、ユダヤ人もまたこれら東方の聖職者たちの間接的な末裔であると見なされていたので、ユダヤ人が魂の不死性を信じる催眠術師であるという同一視も成り立つわけである。

ヨセフスがアリストテレスとユダヤ人との邂逅において、催眠術師のくだりを省いたのは、それがギリシア人の目から見てばかばかしく見える可能性があるからで、一方で、プロクロスが魔術師のくだりでその正体がユダヤ人であることを隠したのは、アリストテレスと議論したという名誉をユダヤ人に与えるのを惜しんだからであると考えられる。

(II)ただし、ヨセフスの引用において、このユダヤ人は「言語においてのみならず、魂においてもギリシア人であった」とも描写されているが、それはなぜなのか。論文著者は、これをクレアルコスの執筆意図から説明しようとする。クレアルコスの『眠りについて』は、アリストテレスを主人公にしたプラトン的な対話文学である。論文著者は、この作品をプラトン『国家』第10巻と比較する。プラトン『国家』は、有名な知恵の教師が出てきて、魂が実在することを証明するために、奇妙な神話的・寓話的な体験をするという新しい文学形式となっていた。プロクロスの魔術師と同一視されうる、クレアルコスにおけるユダヤ人も、こうした対話文学における登場人物の中に組み込まれるのである。

ただし、以下の2点には注意すべきである:後代のプラトン主義者たちが創作した、この文学形式の作品の中で、奇妙な体験をするのはギリシア人であるのに対し、プラトン『国家』それ自体とクレアルコス『眠りについて』では、バルバロイがそうした体験をしている。また他の作品では、語り手が他の人に起こったことを語っているのに対し、クレアルコスでは語り手としてのアリストテレスが自分自身に起こったことを語っている。

クレアルコスは、プラトン以来のギリシア知識人の例にもれず、主として正確な知識を欠いているがゆえの憧れから、親オリエント的傾向を持っており、それは同時に親ユダヤ人的傾向にもなっていた。ただし、ユダヤ人に関する知識が極めて限られていたがゆえに、彼らを独立した人種と見なさず、ペルシアにおけるマギやインドにおけるブラフマンのように、シリアにおける祭司集団だと見なしたのだった。そして、そうした祭司階級への高い評価から、クレアルコスは、ユダヤ人を神学や天文学に生涯を捧げる哲学的なセクトの一員と信じたのである。

こうしたギリシア人のオリエント趣味は、初期ヘレニズムの文学作品に大きな影響を及ぼしている。特に、ギリシア賢者の伝記文学においては、タレスやピタゴラスらがオリエントに行って東方の賢者たちから知恵を授かるという形式が好まれた。アリストテレスの弟子であるタレントゥムのアリストクセノスは、ソクラテスがインド人と出会う物語を書いた。また実際にインドに行ったとされるメガステネスはインド思想について著述を残しており、なおかつ哲学はインド人にもユダヤ人にも昔から知られていたと書いている。アリストクセノスのような文学の流行と、メガステネスによるインド人とユダヤ人との共通性とから、クレアルコスはユダヤ人をインド人の末裔としたのかもしれない。

(III)いうなれば、クレアルコスのユダヤ人は、現実のユダヤ人ではなく、作家の想像力による創作の中の人物である可能性が高い。ところ、ヨセフスは182節において最後にユダヤ人が「驚くべき自制心と節制」について語ったと、結論めいたものを述べているが、そこからは、ヨセフスが引用しているクレアルコスの記述には続きがあり、そこにはユダヤ教の食餌規定などの決まりが書かれていたことがうかがわれる。しかし、それをヨセフスが省いたのは、おそらく実際のユダヤ人から見るとやや都合の悪いことが書かれていたからであり、ギリシア人を超えたユダヤ人のイメージを植え付けようとしていた彼の意図にそぐわなかったからかもしれない。

ところが、論文著者は、この省略部分には、むしろ禁欲主義と眠りとの関係が書かれていた可能性を指摘する。新プラトン主義者のオリュンピオドロスは、『プラトン「パイドン」注解』の中で、アリストテレスがある男と会った物語を語っている。それによると、その男はまったく眠ることがなく、また太陽のような空気のみを糧としているという。この描写はいかにもプラトン的かつピタゴラス的なものである。「太陽のような空気」とはエーテルのことに違いない。またエーテルのみを糧にする禁欲的な生活をすることで、不死なる魂を清浄に保とうとしている。この魂の不死性という考え方は東方の賢者たちに共有されていたもので、彼らと比較されていたユダヤ人も当然持っているものとされていた(ヘルミッポス)。もしこのようなことが書かれていたならば、ヨセフスはやはりこれをあまりに馬鹿げているとして省かなければならなかった。

(IV)クレアルコスは、このように当時の文学的流行やステレオタイプなどをもとにユダヤ人を描いているため、あまり批判的な目を持っていない。彼の作品のテーマは、友情、動物、格言、なぞなぞ、性的なもの、プラトンの称賛など多岐に渡っており、文字通りさまざまなテーマを逍遥してはいる。しかし、また聞きをもとにした紋切り型の作品ばかりなので、アリストテレス的な経験主義に基づいた批判精神には欠けている。むしろ、クレアルコスのテーマはプラトンの弟子であるスペウシッポスなどと共通の要素が見受けられる。またピタゴラス主義の影響も多大である。こうしたことから、よく言えば、クレアルコスはプラトンとアリストテレスの教えの矛盾を調和させようとした最初の者たちのうちの一人であるともいえる。

(V)魂が肉体から分離可能であると考えたプラトンに対し、アリストテレスは肉体と、それと共に死ぬ魂との不可分な調和を説いた。すると、魂を肉体から引き出す魔術師の話を語る、クレアルコスのアリストテレスは実は完全なるプラトン主義者になってしまっている。むろん、この逸話自体は、プラトンが死んでアリストテレスがアカデミアを去り、小アジアにいた時代なので、まだプラトンの影響下にあったということもできる。が、やはりクレアルコスは意図的にアリストテレスの権威を用いてプラトンの説を正しいものとして描こうとしていると考えられる。

2015年11月3日火曜日

フィロンにおける魂の上昇 Schäfer, "Philo: The Ascent of the Soul"

  • Peter Schäfer, The Origins of Jewish Mysticism (Tübingen: Mohr Siebeck, 2009), pp. 154-74.
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哲学者としてのフィロンは独自の思想家ではないが、中期プラトン主義、中期ストア派、新ピタゴラス主義を折衷した思想を持っているばかりか、のちに新プラトン主義と呼ばれることになる思想の萌芽すら持っている。ただし、ラビ・ユダヤ教文学における影響はほぼ皆無であり、後代のユダヤ思想家によるフィロンへの言及は、16世紀のアザリヤ・デイ・ロッシを待たなければならなかった。

フィロンの神概念。フィロンにとっての神は、プラトン的な用語のト・オンで表されるような完全に超越的な神である。『律法詳論』において、フィロンは、神が存在するか、神の本質とは何かという問いを立てる。第一の問いについては、現実世界がいかに秩序だっているかを見れば、それが理性を持った何かによって前もって計画され、創造されたことが分かるという。第二の問いについては、究極的に人は神の本質を見ることはできないと答える。代わりに、不可知で、到達不可能で、そして超越的な神の栄光を表す力(デュナミス)を見ることができるのである。またこの神の力によって創造された、永遠かつ不変のイデアの宇宙が、人間の知性(mind)によって認識されうる可知的世界(intelligible world/kosmos noetos)である。一方で、人間の感覚(sense)によって知覚されうるのは、可感的世界(sence-perceptible [visible] world/kosmos aisthetos)である。フィロンは、可知的世界を兄、そして可感的世界を弟としつつ、可感的世界は可知的世界のコピーであると説明している。

この神の力を代表するのが、ロゴスとソフィアである。ロゴスは、可知的世界の起源に関わる力である。神はロゴスという創造的な力を用いて、建築家のようにまず可知的世界を思い浮かべ、それからソフィアを用いて可感的世界を作るのである。可感的世界は、父としての神と、母としての知識(エピステーメー=ソフィア)とが一つになることで生まれた若い方の息子なのである。年長の息子は、神とロゴスとの子である可知的世界である。ただし、これはソフィアの方がロゴスより劣ることを意味するのではなく、存在論的に両者は同一だと見なされる。

肉体と魂、感覚と知性。聖書において、肉体と魂との区別というのは重要ではなかったが、ヘレニズム期になるとギリシア思想の影響で、両者が区別されるようになった。フィロンは、悪しき肉体が魂を閉じ込めていると考えた。普通の人間は、最も気高い部分である魂や知性ではなく、肉体にかかずらってしまっているが、魂は本当の哲学を持ち、不滅かつ非物質的な存在を部分的に持っている。ここで、フィロンは魂(soul)と知性(mind)とを同じような意味で用いているが、魂がより広義の意味を持つのに対し、知性は魂のうちでも特に理性的な部分のみを指している。この知性によって、人間は可感的世界を超えて、イデアの可知的世界につながることができるのである。ロゴスやソフィアが超越的な神の反映であったように、人間の知性もまたロゴスやソフィアの反映になっている。すなわち、神のロゴスと人間の知性(ロゴス)とは密接に関わっているのである。この神のロゴスは、哲学者の知恵とは異なり、教育によって獲得できるものではなく、self-inspiredかつself-taughtなものである。

魂が見る神。預言者は、神を見ることのできる特権を有する存在である。フィロンによると、太陽が我々の知性であるとすると、昼は通常の状態であるが、日没になると、エクスタシー、神的憑依、霊的狂乱が訪れるという。言い換えれば、フィロンは神の光は人間の光と反発し合うものではなく、神の光が預言者に訪れると、人間の知性は肉体から退くのである。すなわち、人間の知性は段階的に上昇して神の光に至るのではなく、まったく別物に入れ替わるということである。

預言者の中でも最も重要なのは、言うまでもなくモーセである。出24:2の解釈において、モーセは神のそばもとに近づける唯一の預言者であり、彼の側近であるアロン、ナダブ、アビフらはモーセと共に山に登ることは許されたが、神の近くにはいけない者たち、そして民衆は山のふもとにいなければならない存在であると解釈されている。モーセの神的かつ霊的な預言者の知性は、肉体と魂という二項対立を離れ、純粋な知性である単一の実体、すなわちモナドへと変化する。アルメニア語訳でのみ残されている『出エジプト記問答』においては、この二項対立から統一体へ、肉体と魂から純粋な魂へ、そして可死の世界から不死の世界へと至るモーセの変化は、モーセの存命中に起こったとさえ説明されている。とはいえ、神の高みへと至ることができるのはモーセだけではなく、正しい手順を踏めば、いかなる人も同様に純粋な魂を持つことができるという。

『世界の創造』によると、魂は、憑依状態になったコリュバンテスのように、神によって神的な狂乱に満たされると、可感的世界を離れ、神のロゴスによって創造された可知的世界へと至る。そして魂は神を見ようとするが、その願いはかなわない。魂は神の光の奔流によって目をくらまされ、何も見えなくなってしまうのである。『アブラハムの移住』によると、フィロン自身もこうした経験をしたことがあり、哲学的な著作もまた、真の預言者のように神的な霊感を受けた者のみが書くことができると述べている。

2015年10月31日土曜日

ユダヤ・ヘレニズム歴史文学概観 Geiger, "Form and Content in Jewish-Hellenistic Historiography"

  • Joseph Geiger, "Form and Content in Jewish-Hellenistic Historiography," Scripta Classica Israelica 8 (1988), pp. 120-29.

本論文は、ヘレニズム期のユダヤ人による歴史文学の概観である。Felix Jacobyがギリシア人歴史家の著作のコレクションを作成したとき(Die Fragmente der griechischen Historiker)、彼は「ギリシア人」を「ギリシア語で著作した人」としたので、ユダヤ人であってもギリシア語で著作をものした者も、このコレクションに収録されることになった。しかし、ギリシア語で書いたユダヤ人歴史家が、他のギリシア人作家と何も変わらないのか、それとも彼らがギリシア語で書いたことで何らかの変化があったのかは問われるべき問いである。

論文著者によれば、第二マカベア書は形式はヘレニズム的で内容はユダヤ的な文書であるという。第二マカベア書は、キレネ人ヤソンの5巻の書物を要約したものだと本文の中に書いてあるが、長い歴史ものの要約(epitome)というのは、ヘレニズム期の流行りだったことが知られている。つまり、第二マカベア書において、この要約というギリシアの文学形式に則ったことで、内容にも少なからぬ影響があるのである。

ひとたび作家が書物を書くことを決めると、彼は不可避的に文学ジャンルを考えねばならず、そしてどのジャンルに自分がこれから書く作品が属するのかを決めなければならない。しかも、ギリシアの文学ジャンルはヘブライ文学やアラム文学の要求とは必ずしも一致していないため、ヘブライ文学の特徴を完全に維持したままギリシア語の著作を書くことは難しいのである。こうしたことから鑑みるに、キレネ人ヤソンの著作も、おそらく王や政治家の業績に関する歴史記述であっただと思われる。こうした文学は、一連の統治者の歴史を語ることで、ある国の歴史を描こうとするものである。

こうしたギリシアの歴史記述に沿って書いたユダヤ人歴史家として、論文著者は、『ユダヤの王たちについて』を書いたデメトリオス、『ユダヤの王たちについて』を書いたエウポレモス、そして『系図に従ったユダヤの王たちについて』を書いたティベリアのユストスを例に挙げている。これらのタイトルについて考えると、当時のヘブライ文学においては、まだタイトルをつける方法が定まっていなかったが、この歴史家たちの作品タイトルは、明らかにギリシアの歴史文学の作法に則ったものである。また、彼らは自分たちの作品を、自分たちの時代にまで繋げているが、これもギリシアの歴史文学の作法といっていい。それは、自分自身を歴史の中の登場人物と考えているからである。

2015年10月18日日曜日

ヘカタイオスとストラボン(およびポセイドニオス) Gager, "Moses the Wise Lawgiver of the Jews"

  • John G. Gager, Moses in Greco-Roman Paganism (SBLMS 16; Nashville: Abingdon Press, 1972), pp. 25-43.
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異教のギリシア文学におけるモーセへの最初の言及は、アブデラのヘカタイオス(前300年頃)『エジプト史』においてである。『エジプト史』はシケリアのディオドロス(前1世紀)『歴史叢書』の中に引用され、さらにそれがフォティオス『図書総覧』の中に引用されて残っている。

冒頭では、すべての外国人がエジプトから追放された出来事に触れている。これはギリシア的な視点から書かれているが、卓越したエジプト人たちに対する、ギリシア人とユダヤ人という描き方になっている。といっても、モーセに対しては特別の敬意が払われており、他のエジプトの法制定者に対するのと同じ敬称が付されている。

引用者であるディオドロスは別の箇所において、非エジプト人の法制定者たちのリストを挙げ、最後に神「Iao」に使えるモーセを挙げている。ユダヤ人の神をIaoと呼ぶのは、ウァッロー(前27年死去)などにも見られるが、前6-5世紀のエレファンティネのパピルスにも同様の表現が見られるので、ディオドロスのみならず、ヘカタイオスもこの神の名を知っていた可能性もある。

ヘカタイオスはモーセの立法上の活動を説明している。その律法は宗教的なものと社会的なものに分かれるが、いずれもギリシア的なモデルに従って説明されている。たとえば、モーセの偶像禁止は、ギリシア哲学における伝統的な神人同型説の否定および同一化に由来するものとなる。

ヘカタイオスの説明の中には、五書からの引用と思しき一節があるが、ヘカタイオスの時代に完全なギリシア語訳聖書は存在しなかったので、おそらくアレクサンドリアにおけるユダヤ人から口頭で伝わってきたものを、彼がパラフレーズしたと考えられる。

ヘカタイオスはモーセが12部族を分けたと述べている。これはむろん聖書の記述とは矛盾するが、フィロンも同様の説明をしている。プラトンは、『法律』において、法制定者が人々に12の部分を割り当てるべきであるという説明をしているため、ヘカタイオスもフィロンも、哲学的なギリシアの法制定者のイメージをモーセに付しているといえる。

ヘカタイオスの説明においては、土地の割り当ては平等になされるべきだが、祭司たちは特別に他の人々よりも多くの割り当てをもらうことになっている。これも聖書の記述とは矛盾するが、ヘカタイオスはギリシア人の考え方に従って、リーダーは些事にわずらわされるべきでないということと、市民は法に守られるということをここで示しているのである。また、そうして得た土地は勝手に売ってはいけないことが述べられているが、これは貧者の救済と人口レベルの維持を目的としたものだった。特に人口のコントロールはギリシア哲学の課題であった。

ヘカタイオスの説明は概してユダヤ人に対して肯定的なものだが、二か所だけ否定的にも取れる箇所がある。それは、ユダヤの儀礼と文明が「異なっている(exellagmenos)」という説明と、彼らの文化は「外国人に対して非社会的で敵対的である(apanthropos tis kai misoxenos)」という説明である。しかし論文著者によれば、ディオドロスの他の箇所での「異なっている」という言葉の使い方から、この語は必ずしも否定的とはいえないし、また当時の民俗誌学的な作家の常として、thaumasiaとnomina barbarikaに関するセクションを入れるものだったのだという。

いうなれば、ヘカタイオスによるユダヤ人の描写は、ヘレニズム民俗誌学の典型とえるものである。さらにいえば、ヘロドロス以前のイオニア民俗誌学から受け継いだ伝統的な要素と、ヘレニズム期特有の要素との融合である。前者は特に、①神理解と犠牲の実践を含む「宗教的な法(religious laws)」、②結婚の慣習などを含む「普通でない慣習(unusual customs)」、そして③埋葬方法などに強い関心を持つ。一方で、後者はアリストテレスや逍遥学派の影響下で、政治制度への関心を強め、さらにさまざまな人々の歴史的な起源や、外国人の特異性に関心を持つ。

ストラボンの『地理誌』16巻におけるユダヤ人の描写は、ポセイドニオスに帰されることが多い。この中で、ユダヤ人はエジプト人の子孫であるとの説明があるが、これはよく言われていた説であり、ストラボンはあえてそれを選択しているように思われる。リュシマコスやアピオーンは、ユダヤ人の出エジプトを、疫病に罹患したエジプト人が追い出された物語であると説明しているので、ストラボンの説明は、ある意味ではこうした反ユダヤ的説明の一解釈であるともいえる。

こうした経緯から、モーセもまたエジプト人の祭司であったということになる。これはマネトンやアピオーンらによっても述べられていた見解である。つまり、モーセはヘリオポリスの地元の祭司として知られたエジプト人であるという説は、ストラボン以前の少なくとも前1世紀にはあったのである。

ストラボンはユダヤ教の神を説明するに際して、2つの要素を挙げている:第一に、神は天や地を含む我々すべてを含む一者である。第二に、神は我々が言うところの点や地や自然(フュシス)である。第一の説明はヘカタイオスにも見られるものだったが、第二の説明は明らかにストア派的な言説である。またヘカタイオスは、モーセによる偶像禁止の理由を、神は人間と同じ形をしているわけではないことから説明したが、ストラボンは、エジプト人の神獣同型説とギリシア人の神人同型説との両方の否定だと説明している。これはギリシアの伝統的な批判の方法でもあった。

ストラボンはモーセを神学者としてのみならず、影響力のある教師としても描いている。そこでモーセは軍事ではなく、神殿や祭儀に関する法を定める者となる。神殿祭儀の法においては、神はただ贅沢な犠牲では喜ばないというピタゴラス派のアイデアが入っている。モーセの軍事行動にも注目したヘカタイオスと異なり、ストラボンのモーセは自身の制度や外交手腕によって物事をさばいている人物という印象である。さらにいえば、ストラボンはヘカタイオスよりも、モーセの宗教指導者としての側面に注目しているのである。そしてそれを自身のストア派哲学のイメージの中で説明するという手法を取っている。

2015年10月16日金曜日

アブデラのヘカタイオス『エジプト史』

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シケリアのディオドロス『歴史叢書』40.3中に引用される、アブデラのヘカタイオス『エジプト史』におけるユダヤ民族の描写のまとめ。

出エジプトの逸話の翻案。エジプトに疫病が流行ったため、エジプト人はそれを自国中に住む異邦人の宗教や犠牲のせいにした。そこでエジプト人たちは外国人を追い出した。リーダーの中には、ダナウスやカドモスといった有名人もいたが、中でも最も人数の多いグループのリーダーがモーセだった。

ギリシア的な植民化。モーセは知恵と勇気に秀でた人物で、エルサレムの町の基礎を築き、神殿を建設した。神殿は祭司を持ち、礼拝と儀式を司り、律法を定め、政治を取り仕切った。モーセは民を12の部族に分けた。神の偶像を持たないのは、神が人間の形をしておらず、地を囲む天であるから。ユダヤ民族は他の民族と異なる犠牲を奉げており、非社会的で不寛容な生活を送っていた。

祭司政治。モーセは民の中から祭司たちを任命した。この祭司たちは裁判官としても働いた。祭司政治ゆえに、ユダヤ人は王を持ったことがなかった(サムエル記・列王記との矛盾)。祭司たちのうち最も優れた者は大祭司となり、神の戒律を伝える者として働いた。律法制定者は近隣の諸民族との闘いに軍隊を率いる。勝ち取った土地は、個々の市民には平等に分け、より広い土地は祭司たちに渡される(申18との矛盾)。

個々人は自身の地所を売ることを禁じられている。土地に住む者たちは子供をしつける義務がある。結婚や埋葬に関しても、非常に異なった慣習を持っているが、ペルシアやマケドニアの支配下に置かれているうちに、そうした慣習はなくなっていった。

ストラボン『地理誌』16.2.35-37

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ストラボン『地理誌』16.2.35-37におけるユダヤ民族の描写のまとめと考察。中期ストア派のポセイドニオスに帰される部分。

モーセはエジプトの祭司の一人。下エジプトを治めていたが、当地の状態に不満足のために、神的存在を崇拝する民と共にユダヤへと移った。エルサレムへの移住においては、軍隊による征服は行われなかった。うらやむような土地ではなく、岩場にすぎなかったから。周りは不毛の土地。ギリシアの植民地化の方法に則っている。ユダヤ教の脱民族主義化

ユダヤ人は、動物を神とするエジプト人、人間の形をした神を敬うギリシア人とは違う神を信じている。神は人間や自然のすべてを「取り囲む=浸透する」唯一の存在である。それゆえに像なき神を崇拝しなければならない。神を哲学的に概念化している。

夢見のいい者は聖域の中で寝る。上サム3:3などに見られるincubationの考え方。神殿で寝て神の摂理や啓示を得る。儀式上の清浄を倫理的な清浄と同一視する。礼拝や儀式の描写はシンプル。ユダヤ法の儀式的な要素を排除

モーセは普通ではありえないほどの正しい政府を組織した。モーセの後継者たちは、正しくふるまい、神への敬虔さを持っていた(人間の正しい政治と神への敬虔さの二大徳)。

後代になると、迷信にとらわれた者たちが祭司となり、また暴君が祭司となった。迷信にとらわれた者たちは、肉食を断ち(豚とは限らない)、割礼および切断(女性器も?)を行い、他のこと(安息日?)も遵守した。一方で、暴君たちは盗賊となり、自分の国や近隣諸国を襲ったり、他の君主たちと結託してシリアやフェニキアを征服した。迷信者たちと暴君たちは二大徳の裏面。

ギリシア的な枠組みを用いて、それに抵触するハラハ―的な要素を拒否している。

2015年10月14日水曜日

ギリシア人から見たユダヤ人 Bickerman, "The Greeks Discover the Jews"

  • Elias J. Bickerman, "The Greeks Discover the Jews," in idem, Jews in the Greek Age (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1988), 13-19.
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著者は本章の中で、ギリシアの知識人たちがどのようにユダヤ人に言及してきたかを確認している。アレクサンドロスの遠征の前に、エルサレムやユダヤ地方のユダヤ人にギリシア人が関心を持つことはなかった。当然、ペルシア時代におけるディアスポラのユダヤ人と、商業上の取引はあったにせよ、国際語としてのアラム語を話すユダヤ人は、ギリシア人にとってはバビロニア人の一種にすぎなかったのである:
The uniformity of Aramaic, the common language of the Persian Empire, concealed national distinctions; to a Greek visitor both the Jew and the Turkoman in Mesopotamia were equally Babylonian. (p.14)
ちなみにユダヤ人に限らず、ギリシア人によるローマへの言及もかなりあとになってからのテオポンポスの出現を待たなければならなかった。ギリシアのギリシア人がローマに興味を持つようになったのは、エピルスの王ピュルスとローマとの戦い(280-272 BCE)になってからのことだった。アリストテレスの弟子であるテオフラストスも、ローマ法にもユダヤ人の律法にも触れていない(が、ユダヤ人の宗教には言及している)。

その後、フィリッポスやアレクサンドロスらに脅かされたことで、ギリシアで静的な生活こそ至上であるという考え方が広まると、オリエントの祭司的な知恵に代表される静的な生活と、常に変転するギリシアの理論とを比較する気運が生まれていた。そうした中で、タレントゥムのアリストクセノスはソクラテスとインドの賢者との対話を、ソリのクレアルコスはアリストテレスとユダヤ人の賢者との対話を残している。

テオフラストスは、『敬虔さについて』の中で、ユダヤ人を「哲学的」な民であると描写しているが、こうした哲学者としてのユダヤ人という見方は、クレアルコスやメガステネスらにも見られる。前者はシリアにおいて哲学者はユダヤ人と呼ばれていると述べ、後者はギリシアの賢者たちの理論はインド人やシリアのユダヤ人にすでに見られるものだったと述べている。つまり、ギリシア人は形而上学と神学とを区別せず、エジプトの祭司、ペルシアのマギ、ケルトのドルイドなどを自分たちの賢者と比較しているのである。

ギリシア人が本当の意味でユダヤ人のことを知るようになったのは、ディアスポラが大きくなってからのことで、それはアブデラのヘカタイオスの記述に集約されている。彼の記述は三世紀後のディオドロスや、ユダヤ人自身にさえ権威あるものとして引用されている。彼はエジプトで会ったユダヤ人の情報提供者から話を聞いて著述しているが、しばしば情報を勘違いしたり、説明を自身の哲学的な観点に合わせたりもしている。彼はユダヤ人が「非社会的かつ、他民族に敵対的である」と述べているが、これはギリシア人がスパルタのことを説明するときと似ている。

ヘカタイオスのあと、前300年くらいになると、ふたたびギリシア人はユダヤ人に対する興味を失う。カルディアのヒエロニュモスもエラトステネスもユダヤ人に言及していない。ところでカルディアのヒエロニュモスって、『ヒストリエ』のエウメネスのお兄ちゃんのことかしらん。

エピクロス派とストア派 Long, "Epicureans and Stoics"

  • A.A. Long, "Epicureans and Stoics," in Classical Mediterranean Spirituality, ed. A.H. Armstrong (London: SCM Press, 1986), pp. 135-53.
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本論文の中で著者はエピクロス派とストア派とを対比的に説明している。ストア派にとっての神は最高神のゼウスであるが、自然の全体に内在し、人間の倫理的な幸福に関心を持っている。一方で、エピクロス派の神は人間のかたちをしているが、この世界の者ではなく、人間界の出来事といかなる因果関係も持っていない。両者共に、ギリシアの伝統的な神理解を用いて自身の哲学を説明しようとしている。

前341年にアテーナイで生まれたエピクロスは、永続する幸福を獲得することを目標とした。彼の教えは哲学と宗教の両方にまたがり、すべての原理を空間の中にあるアトムに帰した。彼のシステムの全体は、ものごとの正しい理解を通して、いかにして精神的な健康と幸福とを獲得するかということであった。彼の作った共同体では、当時としては異例なことに、女性もまた男性と同等に扱われていた。

さまざまな人間界の欲望に対し、エピクロスは人間が必要な基本的な幸福は実はシンプルなものだと説明した。彼によれば、人間の欲望には、「自然な」ものと「無駄な」ものとがあり、「自然な」ものの中には「必要な」ものと「ただ自然な」ものとがあるという。さらに、「必要な」もののうちには、「幸福のために必要な」もの、「肉体の自由のために必要な」もの、そして「人生そのもののために必要な」ものとがあるという。

エピクロス派の神学としては、否定的なものと肯定的なものとがある。否定的な神学において説かれているのは、世界は神々によって作られたものではなく、人間のふるまいを含めたすべての出来事は神々を喜ばせたり悲しませたりはしないということである。世界は神々によって作られたにしてはあまりに不完全だというのが彼の考え方であった。一方で肯定的な神学において説かれているのは、神の存在は疑いなく、その像を正しく受け取れば人間にとってよいことになるということである。ただし、神の像は原子的なイメージによって作られているので、それを人間が誤って受け取ってしまうと、ときに人間を傷つけるということもあり得る。エピクロスは神々が人間の姿をしていると考えたが、それは人々の間で共通のイメージを用いて自身の神学を説明するためであった。エピクロスの神々は客観的な存在として生きているのではなく、人間の生の理想化されたものであるともいえる。

エピクロスは、神々が世界と人間の運命をコントロールとしていることを否定することによって、宗教信仰の中心にあると考えられていたことを取り除いたのである。

ストア派は、キティウムのゼノン、クレアンテス、クリュシッポスらから始まり、キケロー、セネカ、プルタルコス、エピクテトス、そしてマルクス・アウレリウスらの思想にも大きく影響を及ぼしている。ストア派は、多くの点に関して、プラトン、アリストテレス、キリスト教と歩調を合わせ、エピクロス派を否定することを述べている。たとえば、第一に、神的な事柄は世界の存在や我々自身の基礎であり、第二に、世界は秩序とシステムを示すことで、神的な原理の存在を証ししており、第三に、人間は神の似姿をしている、といったストア派的な言説のうち、第一と第二はエピクロス派と真っ向から対立する。一方で、プラトンやアリストテレスと大きく異なる点として、人間の魂や最高神ゼウスを肉体的(corporeal)なものとして捉えていることと、世界が創造され、のちに破壊されることとを説いている。またストア派は理性の概念を広げ、欲望やよい感情(エウパテイアイ)などをも含めつつ、情念や精神的な動揺などといった魂の無秩序な状態に対比させている。

ストア派は伝統的な宗教的アイデアや言説を基にして自分たちの神概念を形成した。ゼウスをはじめとする神々をそのまま受け継ぎつつ、それらに世界の特定の特徴を付与したのである。ストア派はこのようにして一貫したシステムを築き上げ、第一に、神はすべてのものの設計者であり作成者であること、第二に、人間は神々の枝分かれでありパートナーであること、そして第三に、人間の機能は神々と調和して生きることを強調した。

第一と第二の点に関して、ゼウスはすべての存在を創造し、自然法(natural law)を活動させる者として、その力の代理者である雷を持っている。この自然法によって出来事の不可避的な秩序が保たれ、さらには倫理的な秩序も保たれる。この世で起きるすべての出来事は正しいという理解から、出来事の秩序と倫理的な秩序とは同一視されている。ストア派によれば、人間の精神活動のすべては、神の一部でありパートナーなのだと理解される。

第三の点に関して、神は自然のすべてを構築したが、人間の理性(ロゴス)のみは神の属性でもあり、それによって人間は神と特別に関係していると考えられる。正しい理性には、内面的な側面と外面的な側面とがある。内面的な側面は、いわゆるストア派的な倫理の原理を作っている。外面的な側面は実際の出来事の中で自らを明らかにする。しかもそれはもはや神の領域でもあるので、人間の倫理的な価値観では測れない。ストア派的な神学とは、倫理的な掟と、世界は神々が我々に提供した最良のものであるという主張とを和解させる試みであるといえる。

2015年10月10日土曜日

ヨセフスと聖書正典 Leiman, "Josephus and the Canon of the Bible"

  • Sid Z. Leiman, "Josephus and the Canon of the Bible," in Josephus, the Bible, and History, ed. Louis H. Feldman and Gohei Hata (Detroit: Wayne State University Press, 1989), pp.50-58.
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ヨセフスはヘブライ語聖書の正典化の歴史においても重要な人物である。というのも、彼はヘブライ語聖書の完成した正典の最初の証人だからである。その証言は、『アピオーンへの反論』1.37-43にある。それによると、互いに矛盾するたくさんの歴史書を持っているギリシアとは違い、ユダヤ人は神による霊感を通して正しく書かれた22の書物を持っているという。そのうち5冊はモーセによるもので、人間の創造から律法制定者モーセの死までが書かれている。次の13冊は、モーセより後の預言者たちによって、モーセの死からアルタクセルクセスの時代までが書かれている。そして残りの4冊には、神への賛歌と生活の箴言が書かれている。

論文著者は、このヨセフスの証言を、①『アピオーンへの反論』のコンテクスト、②他のヨセフス著作で書かれている聖書および非聖書文書への姿勢、そして、③ヘブライ語聖書の成立に関する現代の研究者の見解の、3つのパースペクティブから再確認している。

第一に、『反論』は、ユダヤ人の古代誌を批判する者たちに対するヨセフスの反論という文脈にあるので、ヨセフスは聖書正典を、「聖なる書物」として語るのではなく、むしろ「信頼できる歴史書」として語っている。第二に、ヨセフスは確かに五書を中心とした聖書文書を中心には置いているが、第一マカベア書をはじめとして、非正典文書もまた引用しているので、彼が引用している文書が正典性の証拠になるわけではない。そして第三に、ヨセフスは聖書テクストは一字一句変わることなく保たれていると述べているが、本文批評の観点から見て、彼がテクストの多様性に気付いていなかったとは考えられず、むしろこうしたコメントは当時の古典的な歴史記述におけるレトリックと見るべきであるという。これは、護教論的な文書としての『反論』の性格を見ても容易に理解することができる(同様の手法は、中世になってマイモニデスなども用いているという)。

ヨセフスは22冊の内容を詳らかにしていないが、論文著者はおそらく次の文書がその内容であると考えている:5冊(五書)、13冊(ヨシュア記、士師記とルツ記、サムエル記、列王記、イザヤ書、エレミヤ書と哀歌、エゼキエル書、十二小預言書、ヨブ記、ダニエル記、エズラ記とネヘミヤ記、歴代誌、エステル記)、4冊(詩篇、箴言、コヘレト書、雅歌)。つまり、現在の数え方である24冊のうち2冊をコンビにしているので22冊という数え方になるのであって、内容自体は変わらないといえるわけだが、過去には、H. GraetzやS. Zeitlinらが、雅歌とコヘレト書、あるいはエステル記とコヘレト書はヨセフスの正典には入っていなかったのではないかという議論をしている。いずれにせよ、ヨセフスは聖書時代を、ペルシア時代の終わり、すなわちヘレニズムの始まりに置いている。

ヨセフスによるヘブライ語聖書の三部構成は、ベン・シラの序文やタルムードなどでも見られるものだが、ヨセフスは13冊の預言書と4冊のその他の書物を(たとえば霊感の有無などを基にすることで)区別していないといえる。そこで、論文著者はR. Beckwithによる次の議論を参考にしている。すなわち、ヨセフスによる本質的な区別は「歴史的か歴史的でないか」であり、さらに、その「歴史的」な書物には「モーセによるものかそうではないか」という下位区分がある。ということは、ヨセフスによる聖書の三部構成とは、「モーセによる歴史書」(=五書)、「モーセによらない歴史書」(=13冊)、そして「非歴史書」(4冊)であるということになる。

ヨセフスは、預言に関して、第一神殿時代のみに制限せず、第二神殿時代を通じて預言があったと考えているが、同時に、アルタクセルクセスより前と後とで、預言の質的変化があったとも考えている。これは、預言が途切れるとユダヤ民族の歴史が正当性をなくしてしまうため、歴史の正統性を裏書きするものとしての預言が、質はどうあれずっと続いていたと考えなければならなかったためと思われる。

2015年10月5日月曜日

ヨベル書について Crawford, "The Book of Jubilees"

  • Sidnie White Crawford, "Ch. 4: The Book of Jubilees," in idem, Rewriting Scripture in Second Temple Times (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2008), 60-83.
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アビュシニアン教会(エチオピア教会)でのみ正典とされる『ヨベル書』の諸特徴を述べた一章を読んだ。著者は同書のジャンルを次のように述べる:
Rewritten Scripture, located at the point on our spectrum where the act of scribal intervention into a base text(s) becomes so extensive that a new, distinctive composition is created. (p.62)
このように、ベース・テクスト(創1-出14)とは別の新たな作品として書かれた書物ではあるが、トーラーに取って代わるものとして書かれたわけではない。第一の律法たるトーラーの横に並ぶものとして書かれたといえる。ベース・テクストからの引用は、引用元が分かる程度にされているが、短いフレーズに限られ、引用というより暗示というべきである。聖書文書以外にも、4QReworked Pentateuchやアラム語レビ文書、そして『エノク書』といった第二神殿時代の文学をもソースに用いている。書かれた時期としては前170-150年、場所はパレスチナであると考えられる。

著者は『ヨベル書』の特徴を4つに分けて説明している:
  1. 時間感覚(chronology)
  2. 律法と倫理(law and ethics)
  3. 義人の例としてのイスラエルの父祖たち(elevation of Israel's ancestors as righteous examples)
  4. 祭司制(priestly line)
  5. 終末論(eschatology)
1.時間感覚。364日の太陽暦を用いている。のみならず、月に依拠する太陰暦を拒絶している。数字7に基づいた時間システムを持っている。レビ記25:8-12では、ヨベルの年について、50年目の年のことだと説明しているが、『ヨベル書』では、49年の期間のことを指している。そしてすべての重要な出来事がこの49年のサイクルから算出されることにより、すべての人間の歴史は神のプランによって予め定められているという考え方をする。こうした考え方は、『第一エノク書』、『レビの遺訓』、ダニエル書、死海文書のいくつかなどにも見出されるものであるが、『ヨベル書』において最も発達したといえる。

2.律法と倫理。シナイ山においてモーセに与えられた律法は、実はそのとき初めて明らかにされたのではなく、すでに父祖たちの時代から実践されていたと考える。安息日は特に強調されており、出35:2同様、これを破った者は死罪であるとされている。安息日の戦闘行為や性行為も禁止されている。ラビ文学では性行為は禁止されていないので、これは特徴的である。『ヨベル書』は律法遵守の範囲を広く取り、さらに強調している。

3.イスラエルの父祖たちを称えること。さまざまな祭りはモーセに端を発するのではなく、父祖たちの時代から続いているものである。たとえば、週の祭り(ノア)、スッコート(アブラハム)、ヨム・キプール(ヤコブ)といった具合である。また、創世記に書かれている父祖たちの「ふさわしくない行為」は『ヨベル書』では削られ、彼らがあたかも完全な義人であったかのように描かれている。

4.祭司制。ノアを祭司制のはじめとして、特にレビに名誉を付している。創世記においてレビは重要な登場人物とはいえないが、『ヨベル書』は工夫してレビの重要度を上げている。レビが出てくるエピソードは、34章、31章、32章などがあるが、いずれもレビがいかに重要な人物であるかを説明するために、ベース・テクストに解釈を加えている。また祭司は、書かれた律法の守護者としての役割を果たしており、彼らによって律法の学習や遵守、そして伝統の保持が守られている。

5.終末論。臨在の天使などを登場させることにより、黙示的な改変を加えている。こうした改変は、巣として第二神殿時代の諸文学との影響関係が濃厚で、多くは創世記や出エジプト記には出てこない話である。

以上のように、『ヨベル書』は聖書解釈を著述活動として見なす伝統(Enoch, pre-Samaritan texts, Reworked Pentateuch)に属しており、新しい文書を著すというこのグループの自由の伝統を十全に活用している。これはラビ的伝統とは一線を画しているといえる。しかし、この著述活動は、聖書を乗り越えることを意図してはいない。第一に、『ヨベル書』はトーラーをFirst Lawと考えており、その権威を認めている。第二に、『ヨベル書』はトーラーを横に置いて読むように書かれている。ただし、クムランのエッセネ派などにおいては、『ヨベル書』は神的な権威を持つ文書と見なされており、これは初期キリスト教徒たちにも見られる現象である。しかしキリスト教においては、エチオピア教会以外では正典とはされなかった。

2015年9月30日水曜日

ヨセフスの宗教性の欠如 Momigliano, "An Apology of Judaism"

  • Arnaldo Momigliano, "An Apology of Judaism: The Against Apion by Flavius Josephus," in idem, Essays on Ancient and Modern Judaism, ed. Silvia Berti (trans. Maura Masella-Gayley; Chicago: The University of Chicago Press, 1994), pp. 58-66.
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ユダヤ教の護教論にとって、最も重要な時代は、ヘレニズム・ローマ時代である。ギリシア的なメンタリティーに巻き込まれて、ユダヤ教は何らかの変化を被らずにはいられなかった。ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教は、ギリシア性に対する賛成と反対との間を行きつ戻りつしていた。

ユダヤ教の本質は、教義ではなく、律法の日常的な実践にこそある。それゆえに、ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教の護教家たちもまた、信仰の態度といったような観念的なものではなく、日常の詳細な規範を守ろうとしていた。それゆえに、彼らにとって危機的なのは、律法を過度に抽象化して形而上的な概念にしてしまい、そこにある実例としての教訓を見失ってしまうことだった。そのような抽象化の結果として、哲学論文や注解書などが書かれるに至った。

しかしながら、ヨセフスはユダヤ教を律法そのものとして提示し、決して律法の理論にはしなかった。ヨセフスはモーセがギリシアの法学者たち――ミノス、ザレウコス、ソロンら――に先行する者であるとしている。そして、ユダヤ教の護教論にはよくあることだが、これらのギリシアの法学者たちがモーセに依拠したのだと指摘している。さらに、ヨセフスによれば、神がモーセを通してイスラエルに律法を課したのではなく、モーセが律法を通して神にイスラエルを課したのであり、その状態をテオクラシーと呼ぶのだという。いうなれば、ヨセフスには、神とモーセとの間にあった関係が、預言者的な霊感を通じたものだというような感覚がまったくないのである。それゆえに、フィロンがモーセを、王、律法制定者、祭司、預言者などとして描くのに対し、ヨセフスはあくまで律法制定者としてのみ描いている。

ヨセフスにとってのモーセ像は、ユダヤ教の文脈ではなく、むしろヘレニズムのメンタリティーの文脈から見るとよく理解できる。神の霊感という感覚は、異教世界にもあったが、それは口寄せ、命令、外的な推進力によって表現されるのであって、ユダヤ教の預言のように、神の意志と人間の行動との直接的な接触によってではなかった。ヨセフスの場合、モーセの霊感は、ヘレニズム的な意味での、律法制定者としてのモーセとして表現されている。

こうしたことは、ヨセフスの宗教性の欠如であるといえる。宗教性を持った他のユダヤ人たちは、その宗教的情熱にかられてローマとの最終決戦へと突入していったわけだが、ヨセフスにはその情熱がなく、ローマとの戦いが不毛であることを見抜いていた。彼の態度は、ユダヤ教への正統的な忠誠心があるにもかかわらず、自分の民族の魂から離れていたことを示している。ヨセフスのパリサイ派主義は、豊かな宗教性といったかたちではなく、彼の規範主義の中にその表現を見つけたのである。彼にとってユダヤ教はあくまで律法そのものである。

『アピオーンへの反論』の中には、ユダヤ教に通常見られる、罪に対するあがき、完全な正義への熱望、神の国の祈念、イスラエルの悲劇的運命への傷心といったものが見られない。ヨセフスによっては、神すらも、モーセの律法の一側面にすぎないのである。神への献身は、律法の主たる動力ではなく、律法そのもののあとに来るものである。律法という概念が神の概念を持っているのであって、神の概念が律法の概念を持っているのではない。『アピオーンへの反論』の中に見られるのは、信仰そのものではなく、信仰の対象の描写のみである。なぜならヨセフスにはユダヤ的な宗教性がなく、ユダヤ教をヘレニズム的なメンタリティーで解釈しているからである。

2015年9月25日金曜日

Kamimura (ed.), The Theory and Practice of the Scriptural Exegesis in Augustine (2014)

少し前にご恵投いただいた本をご紹介しておきます。

Kamimura, N. (ed.), Research Report Grant-in-Aid for Scientific Research (C) 23520098: The Theory and Practice of the Scriptural Exegesis in Augustine (Tokyo, 2014).
http://kmmrnk.com/research/2011-2013gasr/2011-2013gasr_publications/

  1. N. Kamimura, ‘Introduction’, 1-11
  2. N. Kamimura, ‘The Exegesis of Genesis in the Early Works of Augustine’, 13-24
  3. M. Sato, ‘The Role of Eve in Salvation in Augustine’s Interpretation of Genesis’, 25-32
  4. M. Sato, ‘The Word and Our Words: Augustine’s View of Words Based on John 1:3’, 33-39
  5. N. Kamimura, ‘Augustine’s Quest for Perfection and the Encounter with theVita Antonii’, 41-52
  6. N. Kamimura, ‘The Interpretation of a Passage from Romans in the Early Works of Augustine’, 53-62
  7. N. Kamimura, ‘Augustine’s Evolving Commentaries on the Pauline Epistles’, 63-72
Bibliography 75
Index locorum 85

Patristica Supplementary Volume IV (2014)

教父研究会が刊行している欧文雑誌Patristica Supplementary Volume IVを、少し前に頂いたので、目次をご紹介しておきます。研究会のHPは以下になります。

https://jpnpatristics.wordpress.com/about_jpn/

Patristica Supplementary Volume IV, ed. Naoki Kamimura (Tokyo: Japanese Society for Patristic Studies, 2014).

  • Satoshi Toda, ‘Some Observations on Bohairic Literature: The Case of Vat. Copt. 57, No. 2’, pp. 1-26.
  • Satoshi Ohtani, ‘An Interpretation of Canons pertaining to Epistles from Confessors: Relationship between Confessors and Bishops’, pp. 27-41.
  • Naoki Kamimura, ‘Scriptural Narratives and Divine Providence: Spiritual Training in Augustine’s City of God‘, pp. 43-58.
  • Naoki Kamimura, ‘On the Japanese Society for patristic Studies and the Patristica’, pp. 59-62.
  • Indices, pp. 63-67.

ヨセフス『アピオーンへの反論』における歴史学 Cohen, "History and Historiography in the Against Apion of Josephus"

  • Shaye J.D. Cohen, "History and Historiography in the Against Apion of Josephus," in Essays in Jewish Historiography, ed. Ada Rapoport-Albert (History and Theory, Studies in the Philosophy of History 27: Wesleyan University, 1988), pp. 1-11.
Essays in Jewish Historiography (South Florida Studies in the History of Judaism)Essays in Jewish Historiography (South Florida Studies in the History of Judaism)
Ada Rapoport-Albert

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ヨセフスはさまざまな著作を残しているが、論文著者によると、『アピオーンへの反論』(以下『反論』)こそに、ヨセフスの歴史家としての方法論が明らかにされているのだという。『反論』は護教的著作であると共に、歴史記述や歴史批判に関するエッセイにもなっている。

『反論』は、ギリシアの歴史家たちがユダヤ人は新しい民族であると言ってユダヤ人の歴史に言及しないことに対し、むしろギリシア人たちこそがオリエントの諸民族に比べれば新しい民族であり、またその歴史も信頼できないものだという反論で始まる。著者は、『反論』とプルタルコス『ヘロドトスの悪意について』との類似性を指摘する。両者は共に、歴史家がバイアスや詐欺によって記録を意図的に歪めることを批判しているのである。

ただし、ヨセフスがこうした歴史批判の姿勢を学んだのは、彼のユダヤ的な背景からではなく、ギリシアの歴史家たちだった。聖書の歴史家たちは互いを批判せず、また決して表に出てこようとしなかったが、ギリシアの歴史家たちは自分の正体を明かし、他の歴史家の誤りを批判した。すなわち、ヨセフスはギリシアの歴史学の信頼性・統一性を批判しているのだが、その歴史批判のアイデアとテクニックは、当のギリシアの歴史家たちから学んだものだったのだ。

ヨセフスにとって、ギリシア人とは分裂と不安定の象徴であり、一方でユダヤ人は調和と安定を示している。ヨセフスはこの対比を、歴史正典、そして共同体という観点から説明している。すなわち、歴史に関して言えば、ユダヤ人はモーセによって定められた不変の律法を守っているが、ギリシア人は自分たちの法を軽視している。正典に関して言えば、ユダヤ人の歴史的文書は数として少ないが、ギリシア人たちは数多の歴史書を書いており、しかも互いに矛盾している。そして共同体に関して言えば、ユダヤ人はどんな場所でも同じように律法を守るという調和を美徳としているが、ギリシア人はばらばらである。

このうち、特に正典と共同体の議論においては、ギリシアにおける「普遍的な合意(universal consensus)」という考え方が重要である。ギリシアには、より多くの人々に受け入れられていることの方が、より少ない人々に受け入れられていることよりも良いという考え方があった。すなわち、正典の議論では、ユダヤ教の文書が数は少なくとも一致しているがゆえに正しく、また共同体の議論では、ユダヤ人が皆一致してモーセの律法を守っているがゆえに正しいということになるのである。

ただし、この合意の考え方を用いるあまり、『反論』においてヨセフスはトーラーが神の啓示であるというポイントを逸している。『古代誌』においてはそうした指摘をしているにも関わらず、ヨセフスは『反論』においてこの議論をしていない。むしろ、聖書が歴史書として正しいのは、神の霊感に満ちているからだという説明を正しいと思っていない節さえある。いうなれば、説明の順序が逆になっている。『反論』においてヨセフスは、トーラーが完全であるがゆえに、トーラーは神的であると説明しているのに対し、『古代誌』(およびラビ文学とキリスト教文学)では、トーラーは神的であるがゆえに完全であると説明している。

ヨセフスは「合意」の考え方を推し進める。ギリシアの歴史家が議論百出しつつも、トライ・アンド・エラーで少しずつ議論を洗練させていくことをよしとしたのに対し、ヨセフスは歴史的真実は人間によって発見されるような類いのものではなく、「客観的」な「事実」なのであるから、意見が一致していることこそが真実の証であると考えた。それゆえに、ユダヤ教の派閥を説明するときも(調和を旨とするユダヤ人になぜ派閥があるかは説明しない)、師からの教えを記憶して改変しないパリサイ派の美徳がユダヤ教の美徳であるとし、創造性の余地のあるサドカイ派を批判する。ただし、モーセの律法から変わることのないユダヤ教という不変性の主張に関しては、オリエントの歴史家たちからの影響も見られる。

ようするに、ヨセフスによるユダヤ教養護とヘレニズム攻撃とは、まったく公平なものではないのである。『反論』には、歴史と歴史記述に対するヨセフスの考え方が最もよく表れている。ヨセフスは、オリエントの歴史家たちのように、ギリシアの歴史記述を批判するが、その歴史批判の精神はギリシアから学んだものである。彼はギリシア的な「合意」の考え方に依拠して議論するが、その使い方は、不変をよしとする非ギリシア的な姿勢に基づいている。「客観的な真実」としての歴史という考え方は聖書に見られるものである。

2015年9月24日木曜日

柳沼「ヒストリアはいつから歴史になったか」

  • 柳沼重剛「ヒストリアはいつから歴史になったか」『語学者の散歩道』岩波現代文庫、2008(1991)年、94-107頁。
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今学期は大学でヘロドトス『歴史』とヨセフス『アピオーンへの反論』の講読の授業に出ているので、「ヒストリア」について書かれたエッセイを読んだ。本書に収められた文章は皆、書き流したようなエッセイ風の筆致だが、さすがに碩学の文章は説得力があり、なおかつ滋味に富んでいる。

ギリシア語の「ヒストリア」は、もともとは現在の「歴史」という意味では使われていなかった。ヘロドトス『歴史』の冒頭では、「歴史」に当たりそうな語である「人間界の出来事」は「タ・ゲノメナ」であり、「ヒストリア」は「研究調査」という意味である。他の作家の用法でも同様で、プラトン、アリストテレスのほとんど、イソクラテスなども皆、「研究」「調査」「探求」を意味している。

ただし、アリストテレス『詩学』に出てくる2箇所は、しばしば「歴史」という意味で読まれてきた。第9章(1451b4以下)では、ヒストリアを書く人と詩人とが対比され、前者は個々の「実際に起こったこと(タ・ゲノメナ)」を書くが、後者は普遍的な「起こるであろうこと」を書くとしている。つまりアリストテレスは、ここでヒストリアという語を、「普遍的でない実際に起こったこと」を書くこととしているので、むしろ「歴史」というよりは「年代記」という例外的な意味合いで使っているように思われるという。

ヒストリアがまぎれもなく「歴史」という意味で使われたのはいつか。前1世紀のディオドロスやハリカルナッソスのディオニュシオスらの用法はすでに「歴史」の意味である。前2世紀のポリュビオスは、多くは「歴史」だが、やはり「研究」の意味でも用いている。そうしたことから、著者は次のように仮説を立てる:
本来「探究」を意味し、探究のために「問うこと」を意味し、さらにその結果得られる「知識」を意味していたヒストリアという語が、アリストテレスの頃から次第に「歴史上の出来事に関する探究や知識」をおもに意味するようになり、この「歴史」と「探究あるいは知識」との間でしばらく綱引きが行われていたが、前一世紀になってようやく、単なる知識ではなくて「歴史の知識」「歴史を書くこと」へと全面的に変わった。これが私の仮説である。(101頁)
また著者はヘロドトスの重要性にも着目している。ヘロドトス以前の歴史家の用法は、神々の系譜や地誌に関する探究を意味していたが、ヘロドトスは(おそらく初めて)それを「人間界の出来事」を対象とした探究という意味で用いたのである。
つまりヘロドトスによって、ヒストリアが歴史の領分に踏み込んだということだが、同時に、彼が「タ・ゲノメナ」を研究調査する時、その調査は、系譜や地誌の研究をする伝統的なヒストリアの延長線上にあったということでもある。(102-3頁)
なおかつ、ヘロドトスの「探究」のソースには信頼性の高さの度合いがあるという。最も確かなのは、「自分の目で見たこと」であり、二番目が、「見ただけでは納得いかないが、こちらから尋ねて得た答え」であり、そして三番目が、「自分から聞いたわけではなく、おのずと聞こえてきたこと」である。そしてこのうち二番目の「尋ねる」というときに彼が使っている言葉がヒストレインなのである。いうなれば、ヒストリアとは、自分で現場へ出かけて行って、自分の目で確かめようのないことに関して、しかるべき相手に問うて答えを得ることだということである。

一方で、興味深いことに、プラトンが「探究」という語を使うときのギリシア語は、必ず「ゼーテイン/ゼーテーシス」という言葉だった。これはヘロドトスやアリストテレスとは異なっている。著者によれば、前者が「~とは何か」「何が~なのか」という探究であったのに対し、後者は「いかに」「どうして」という探究であったのだと説明している。

また、「人間界の出来事」にヒストリアを拡大したヘロドトスの後に出てきたトゥキュディデスは、明らかにへロドトスを意識しつつも、ヒストリアという語を一度も用いなかった。つまり、彼はヘロドトス型のヒストリアではないかたちでの「人間界の出来事」の探究をしたかったのだと思われる。しかし、後代になって、「タ・ゲノメナ」を語ることが「ヒストリア」と呼ばれるようになって、両方とも「歴史」と見なされるようになったのだと思われる。

2015年9月10日木曜日

ヘレニズム期の東と西 Jonas, "East and West in Hellenism"

  • H. Jonas, The Gnostic Religion (2nd ed.; Boston: Beacon Press, 1962), 3-27.
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本書のイントロダクションはヘレニズム期の精神史を扱っている。興味を持ったところを抜き書き風にまとめておく。アレクサンドロス大王の東方遠征の際には、西はギリシアであり、東はオリエントであったが、ローマ帝国が台頭してからは、西はローマであり、東はオリエントを含むギリシアとなった。

西側におけるヘレニズムは、ポリスというローカルでナショナルな状況を、人間一般というコンセプトを獲得することで、コスモポリタンな状況へと変えていった。ロゴスに代表される理性主義は普遍主義へとつながるのである。この普遍性は、ギリシア人というものを、生まれや血筋ではなく、教育によって定義されるものに変えていった。ストア派の始祖ゼノンはフェニキア・キプロスの生まれであったが、ギリシア語を学んでその思想を形成した。コロニーでは文化的・言語的な同化がすすんだ。その後次第に、ヘレニズム的世俗文化は、内的な要求と同時にキリスト教への対抗として、異教的な宗教文化へと傾斜していった。プロティノス、ユリアノス、新プラトン主義、ミトラ教などである。こうした考察を受けて、Jonasはギリシア文化を4つに分ける。第一に、アレクサンドロス以前、第二に、アレクサンドロス以後(コスモポリタンな世俗文化の時代)、第三に、後期ヘレニズム(異教的な宗教文化)、そして第四に、ビザンツ期(ギリシアのキリスト教文化)である。

東側におけるヘレニズムでは、オリエントの役割が考察されるべきが、Jonasはオリエントを扱う困難さを説明する。第一に、ユダヤ文学以外の資料の不足、第二に、文化的な統一がされていないこと、そして第三に、汎ヘレニズム的な事柄とオリエントに特有の事柄との判別しがたさである。

アレクサンドロス以前のオリエントは、政治的な無感動と文化的な停滞(エジプトを除く)という特徴がある。これは、アッシリアやバビロニアによる、被征服民の移植などによって引き起こされた。ただし、そうしてさまざまな障害が取り除かれたことにより、宗教的なシンクレティズムが始まった。土着の宗教が抽象化され、神々が併合され、持ち運びのできるコスモポリタンな教えになっていった。このようにして、政治的な役割から分けられたことにより、ユダヤ的な一神教、バビロニア的な占星術、ペルシア的二元論のように、宗教における精神的・神学的な分野が発達した。

セレウコス朝およびプトレマイオス朝時代のオリエントは、雌伏の時代であった。オリエントそのものの声はあまり聞こえてこず、聞こえてくるとしたらギリシアを通した声のみであった。ヘレニズム化できるものは、コスモポリタン文化の上層面へと通過することができたが、それ以外のものは排除され、地下に潜伏していったのである。この潜伏には、ギリシア的価値観の専制による圧迫と、ギリシア的な概念を獲得して新たな表現を可能にした解放という、両方の意味があった。

この雌伏の時代を過ぎて、オリエントが再び表舞台に登場してくる。これには、オリエント自体の成熟と、西側が宗教的な変化の準備が整ったこととが関係している。オリエントの神話と、聖書的なアイデアと、ギリシア哲学の教えや用語とが混然一体となっていったのである。ヘレニズム・ユダヤ教の興隆、バビロニア占星術や魔術、そして秘儀的な儀式の流布、キリスト教の勃興、進ピタゴラス主義や新プラトン主義、そしてグノーシス運動の開花は皆、互いに関係している。特にグノーシスはこれらすべてのものに現れてくるのである。

2015年9月3日木曜日

ギリシア語訳・ラテン語訳聖書の成立 Kamesar, "The Bible Comes to the West"

  • Adam Kamesar, "The Bible Comes to the West: The Text and Interpretation of the Bible in Its Greek and Latin Forms," in Living Traditions of the Bible: Scripture in Jewish, Christian, and Muslim Practice, ed. James E. Bowley (St. Louis: Chalice Press, 1999), pp. 35-61.
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本論文は、ギリシア語訳・ラテン語訳聖書の成立についてと、ギリシア世界での聖書解釈の歴史を概観したものだが、今回は前半分(pp. 35-50)を読んだ。著者は、まず前500年を起点として、ギリシア世界、ユダヤ世界、ローマ世界の三者の関係がどのように発展していったかを説明する。最初は三者は関わりあうことのないままそれぞれの歴史を作っていたが、前4世紀のアレクサンドロス大王の征服によって、まずギリシア世界とユダヤ世界とが接触した。この征服は軍事的のみならず文化的なものでもあった。そして前30年にはクレオパトラの死によって、ローマ世界がギリシア世界とユダヤ世界を飲み込んだが、この征服はアレクサンドロス大王と異なり、あくまで軍事的なものであって、文化的にはローマはギリシア文化に依存していた。

ギリシア語訳聖書とラテン語訳聖書とはこうした歴史的な背景の中で制作されたものであるが、著者はその流れをSeptuagintal-traditionとnon-Septuagintal traditionとに分けている。七十人訳が作られた時代は、偉大な古典期はすでに終わってしまったという感覚が支配的だった。そこでそうした遺産を整理し、保存しようという試みが始まったのである。同時に、プラトン的な哲学から、アリストテレス的な経験的・組織的なアプローチの学問が発達していった。この二つの傾向をもとに考えると、『アリステアスの手紙』も違った風に読めてくる。多くの研究者は、アレクサンドリアの図書館がユダヤ人の律法に興味を持って、わざわざ翻訳してまでそれを手に入れようとしたという逸話を作り話と考え、七十人訳はヘブライ語を忘れた離散のユダヤ人によって作られたものだと説明してきたが、アリストテレス的な保存・収集の学問的傾向が律法に対する興味を生んだとも考えられるのである。

こうして出来上がった七十人訳は、フィロンやパウロによって権威あるものと見なされていった。また新約聖書の中でイエスが預言を成就させたことは、ギリシア語の旧約聖書である七十人訳の存在によって証明されるので、その価値はいや増していった。その権威は、ヘブライ語テクストと七十人訳との違いが見つけられていってからも、変わらずに高かった。その代わりに、後2世紀までにギリシア語を話すユダヤ人たちは七十人訳を捨ててしまった。これは一般的にはキリスト教徒の七十人訳利用に対するリアクションとして見られているが、これは必ずしも正しくはない。

というのも、non-Septuagintal traditionの特徴である、ギリシア語訳をヘブライ語に近づけようとする試みの最初期の例は、キリスト教の成立以前のものだからである。それはナハル・ヘヴェルで見つかった十二預言書のギリシア語訳である。すなわち、キリスト教徒が七十人訳を用いるようになる前から、七十人訳ではあきたらず、ヘブライ語に近いギリシア語訳を作ろうという機運がユダヤ人の中にあったのである。

その後、後2世紀になると、"The Three"とも呼ばれるアクィラ、シュンマコス、テオドティオンの訳が現れる。しかしこれら三者の翻訳は、ユダヤ人よりもむしろキリスト教徒に大きな影響を与えるようになった。3世紀のオリゲネスに端を発する、キリスト教聖書研究の始まりである。オリゲネスがヘクサプラを作成したことで、七十人訳がいかにヘブライ語テクストと違うかが一目瞭然となってしまった。と同時に、七十人訳の権威を貶めないままにこの矛盾を説明しようとする、洗練した神学もアウグスティヌスのような人物によって編み出されることになった。

このヘブライ語に近づけようとする傾向が結実したのが、ヒエロニュムスのウルガータ聖書であった。ヒエロニュムスが活躍したのは、オリゲネスの時代から150年ほどもあとのことであったが、これほどまでに時間がかかったのは、ラテン世界における聖書研究が成熟するのにそれだけかかったということであろう。

以上から分かることとしては、次のことが言える:Septuagintal traditionは「キリスト教」の伝統だというわけではないし、non-Septuagintal traditionも「ユダヤ教」の伝統というわけではない。両者は共にギリシア語を話すユダヤ人のもとで始まったものであり、Septuagintal traditionはギリシア語のキリスト教徒の共同体で受け入れられ、non-Septuagintal traditionはラテン語のキリスト教の共同体で受け入れられたのである。

聖書と正典化の問題 Cohen, "Canonization and Its Implications"

  • Shaye J.D. Cohen, "Canonization and Its Implications," in id., From the Maccabees to the Mishnah (Louisville: Westminster John Knox Press, 1987), pp. 174-95.
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本論文には、第二神殿時代にどのように聖書の正典化が起きたかについて書かれている。過去の書物の選別や崇拝はcanonizationと呼ばれる。もともとカノンとは「棒」や「杖」といった意味だったが、それが「規範」や「基準」といった意味になり、さらに4世紀になると権威ある書物の確定されたセレクションという現在の意味に転じた。しかしこのカノンという言葉を古代のユダヤ人は聖書に用いなかった。彼らはただ聖書のことを「Scripture」と呼んだのである。とはいえ、それはそうした言葉を用いなかっただけであって、コンセプト自体を知らなかったわけではない。

ある文書が正典になる基準として、著者は3つの特徴を指摘する:第一に、その文書は古い世代によって作成されたものである。第二に、そのテクストは確定されていて、変化を許さない。そして第三に、それは共同体によって「権威ある」ものと見なされている。これは何もユダヤ教やキリスト教の正典だけの特徴ではなく、さまざまな文化で生み出されてきた正典的な文書にもあてはまる特徴である。

第一の点に関してさらに言うと、こうした権威ある書物は、のちの世代によって学ばれ、模倣され、保存される。ヘレニズム期の特徴としては、ユダヤ人もギリシア人も、自分たちが古典期のあとに生きていて、文学の最盛期はすでに過ぎてしまっているという意識を持っていたことが挙げられる。いうなればこれは時代の特徴であり、聖書のみを規定するそれではない。

第二の点についてさらに言うと、古代のユダヤ人やキリスト教徒たちは、聖書が権威ある書物なのは、それが神によって啓示され、また霊感を受けているテクストだと考えていたからである。しかしながら、このことは聖書の正典化のみに見られる特徴ではない。ギリシアの詩人たちは、自身の作品がアポロンやムーサによって霊感を得て書かれたものだとよく述べているからである。

ヘブライ語聖書や新約聖書が特別なのは、第三の点、すなわち、信仰の共同体の中で特別な地位を享受していたことがその理由である。いうなれば、聖書は永久に有効で(eternally valid)、実存的な意味を持っている(existentially meaningful)と考えられていたがゆえに、他の正典的な文書とは一味違ったものになっているのである。著者は聖書とその他の正典的な文書とを区別して、biblicalという言葉を用いている。すなわち、ギリシア文学やミシュナーはcanonical/classicalだが、永久に有効なものではないので、権威は持っていてもbiblicalな書物ではないのである。

さて、聖書は五書、預言書、諸書に分かれているわけだが、著者はそれぞれの成立を説明している。五書を意味するトーラーという言葉は、元々は「教え」ほどの意味だったが、ペルシア時代になると、学ぶべきモーセのトーラーという意味になっていく。正典化のはじまりである。ただし、サマリア五書など別の版も存在したので、前2世紀まではトーラー・テクストはまだ確定していなかったと考えられる。まだトーラーの権威も確定していなかったので、『神殿巻物』や『ヨベル書』といった、トーラーに取って代わろうとするような書物も作成されたほどであった。

預言書に関しては、前200年頃のベン・シラが、律法学者は知恵と預言を知らなければならないと書いていることが知られる。しかしこれではまだ預言書の権威が確定していたとはいえない。預言書が正典的と見なされるのは、前2世紀のダニエル書の中で、エレミヤの権威を認める記述まで待たなければならない。同様の読み方は、クムランのペシャリームや新約聖書やラビ文学に引き継がれていく。

こうして預言書も締め切られたときに書かれたダニエル書は、預言書ではなくて諸書に入れられている。諸書まで含めた正典化は、これまでラビたちによるヤブネの「公会議」で決定されたという説明をされてきたが、これは証拠がないので現在は信じられていない。しかしながら、後1世紀以降、新たな文書が聖書に付け加えられることはなかった。

この五書、預言書、諸書の三部構成は、ベン・シラの孫による序文で初めて明示されている。しかしこの三部構成はゆるやかなもので、上でみたように特に諸書はまだ確定されていなかった。三部構成すべてが正典と見なされたのは、後1世紀になってからであり、そのことを示す証言は3つある。第一にフィロン『観想的生活』3.25、第二にルカ24:44、そして第三にヨセフス『アピオーンへの反論』1.8.38-41である。この中で特に重要なのはヨセフスであり、彼によれば、聖書は22書あり、すべて神の霊感を受けたものであり、預言者によって書かれ、祭司によって正確に伝えられてきたという。バビロニア・タルムードや第四エズラ記などは、22書ではなく24書という数え方をしている。三部構成に関する上の三つの証言の他には、七十人訳聖書の写本そのものが三部構成の最大の証拠となっている。

どの文書が正典に入り、どの文書が入らないかについては、分かりやすい決まった基準があったわけではない。同時期に書かれたダニエル書と『ヨベル書』は、前者は正典に入ったが後者はそうではなかった。言えることとしては、セクトやほかのグループの中で所有されていたような謎めいた書物は正典化されることはなかったということである。ユダヤ教においては、共同体全体で所有されていたような「聖なる書物」が正典となっていったのである。

逆説的なようだが、正典が確定し、新しい正典が生まれなくなったあとにこそ、ユダヤ文学は大きな自由を獲得することになった。正典が確定する前には、テクストと解釈との区別もまた不明瞭だったが、依拠するべきテクストが確定したあとには、自由な想像力を広げてそれを解釈していくことができるようになったのである。つまり、第二神殿時代の後半の文学の特徴としては、次の2つの一見矛盾したポイントを挙げることができる。第一に、過去に対する現在の劣等感と従属の感覚。そして第二に、その劣等感がもたらした創造の自由である。