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2011年12月21日水曜日

『宗教研究』第370号(2011年)

『宗教研究』が届きました。今号は論文4本、書評16本、展望1本と、かなり書評が多くなっています。あと今号は紙の質が変わってページが白くなったような気がします。以下に論文の目次をのせておきます。

『宗教研究』第370号(2011年12月)

諸岡了介「世俗化論における宗教概念批判の契機」・・・・・・1-21

阿部善彦「エックハルトの「ドイツ語説教86」における「マリア」像:タウラー、ゾイゼにつづくドイツ神秘思想の基底にあるものの解明に向けて」・・・・・・23-45

村上寛「マルグリット・ポレートに対する異端審問における異端理由とその解釈」・・・・・・47-69

藤本拓也「エミール・シオランの神:神の喪失と神への情動」・・・・・・71-94

『基督教研究』第73巻2号(2011年)

同志社大学基督教研究会の紀要である『基督教研究』の新しい号が出たので、目次をのせておきます。

『基督教研究』第73巻2号 (2011年12月)

シンポジウム
李徳周「初期同志社大学神学部の韓国人留学生に関する研究(1908-1945年)」・・・・・・1-32

講演
小原克博「科学・政治・宗教をめぐる暴力の系譜:21世紀的身体(こころ)を展望する」・・・・・・33-50

論文
崔弘徳「シュライアマハーに対する波多野精一の宗教哲学的解釈」・・・・・・51-69

稲山聖修「カール・バルトによる聖書理解をめぐる一考察:橋本鑑と関連して」・・・・・・71-90

菊川美代子「矢内原忠雄の「日本的基督教」:土着化論再考」・・・・・・91-104

2011年12月13日火曜日

公開シンポジウム「レヴィナス哲学とユダヤ思想」

12月18日(日)10時より、京都大学にてレヴィナス哲学とユダヤ思想についてのシンポジウムが催されます。先日のベンスーサン講演会につづき、京都ユダヤ思想学会主催の、『全体性と無限』刊行50周年シンポジウムの第2弾です。レヴィナスをユダヤ思想という観点から考えるシンポジウムであるため、登壇者もいわゆる哲学畑の人だけではないことが注目されます。公開・参加無料です。
http://www1.ocn.ne.jp/~hebraica/html/index.html


12月シンポジウム「レヴィナス哲学とユダヤ思想」のお知らせ 
エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』刊行50周年記念シンポジウム
「レヴィナス哲学とユダヤ思想」
2011年12月18日(日)於京都大学文学部・新館6講義室
主催:京都ユダヤ思想学会
後援:科学研究費補助金・若手研究(B)「「現実‐潜在」関係に関する思想史的研究
―ホリスティックな知の再検討」(課題番号22730616)

10:00~10:10 開会の挨拶&シンポジウムの趣旨説明:小野文生(京都大学)

10:10~12:00 Session1「宗教学と解釈学」
司会+コメント:小田淑子(関西大学) 
発表者:市川 裕(東京大学)
「ラビの聖書解釈の特徴――レヴィナスの関心から知られること」
発表者:合田正人(明治大学)
「レヴィナスと解釈学論争」

12:00~13:00 昼食

13:00~14:50 Session2「哲学と倫理」
司会+コメント:田中智志(東京大学)
発表者:中 真生(神戸大学)
「レヴィナスにおける『女性的なもの』について」
発表者:後藤正英(佐賀大学)
「倫理をめぐるレヴィナスとカントの交差点」

15:00~16:50 Session3「ディアスポラとヘブライズム」
司会+コメント:臼杵 陽(日本女子大学) 
発表者:手島勲矢(元同志社大学)
「ヘブライ語圏のレヴィナス解釈――ユダヤ思想の展開の一断面」
発表者:堀川敏寛(京都大学)
「へブライズムにおける顔理解――レヴィナスとブーバーのヤコブ解釈より」

17:00~18:50 Session4「聖書と伝統」
司会+コメント:西平 直(京都大学) 
発表者:竹内 裕(熊本大学)
「レヴィナスと聖書――〈顔〉〈ことば〉〈隣人〉などをめぐって」
発表者:伊藤玄吾(同志社大学)
「詩篇、韻律、ハルモニア――詩としての聖典の解釈をめぐって」

18:50~19:00 閉会の挨拶:芦名定道(京都大学)

19:00~21:00 意見交換会

2011年12月10日土曜日

シリア語をめぐる翻訳と文化間関係

  • 高橋英海「翻訳と文化間関係:シリア語とその周辺から」、納富信留・岩波敦子編『精神史における言語の創造力と多様性』、慶應義塾大学言語文化研究所、2008年、83-110頁。
精神史における言語の創造力と多様性精神史における言語の創造力と多様性
納富 信留 岩波 敦子

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シリア語を中心とした翻訳文化の歴史を概観した論文を読みました。世界の文化史の中で重要な役割を演じてきた言語は、同時に強大な国家の言語(ギリシア語、ラテン語、中国語など)として用いられていたものがほとんどですが、その点シリア語はそうした言語とは異なり、ローマ帝国東縁以東の地域において、キリスト教布教のための言語となったことから、広範な地域で用いられました。

シリア語への翻訳として最も早いのはヘブライ語旧約聖書の翻訳でしたが、それ以降はほとんどヘブライ語からの翻訳はなく、むしろシリア語はギリシア語との強い関係を持つことになりました。ギリシア語→シリア語翻訳として重要なのも聖書であり、新約聖書は当然のこと、旧約聖書に関しても、ヘブライ語よりもギリシア語七十人訳が規範とされていたようです。翻訳の精度に関して言えば、特に6世紀以降は、1)聖典を正確に訳そうとする願望、2)教義の内容を正確に伝える必要から、逐語訳が増えてきました。シリア語→ギリシア語翻訳としては、エフレムの教父文学などが挙げられます。

もうひとつシリア語が重要な関係を持っていた言語がアラビア語でした。アラビア語→シリア語翻訳はほとんどありませんでしたが、シリア語→アラビア語翻訳はたくさんありました。その内訳は2種類で、キリスト教文献の翻訳と、ギリシア語の学問書のシリア語訳からの翻訳です。後者に関しては、ギリシア語から直接訳すよりも、同じセム語であるシリア語から訳す方が容易だったからとされています。

この後、この論文はシリア語とアルメニア語、グルジア語、そしてエチオピア語(ゲエズ語)との関係を説明したあと、ついにはマラヤーラム語およびサンスクリット語(インド)を経由して、中国語との関係にまで至ります(ところでラテン語との関係ってなかったんでしょうか)。グルジア語のあたりから、私にとっては雲行きが怪しかったのですが、インド、中国ときてもはや説明をなぞることしかできませんでしたので、要約は諦めます。ただ興味深いことに、中国にキリスト教を伝えた阿羅本という僧の作である『序聴迷詩所経』において、マリアは「末艶」、ピラトは「毘羅都思」など、シリア語からの音訳がされているようで、こういうのを集めていったらさぞかし面白いだろうなと思いました。

結論としては、起点言語と目標言語との間でどちらが社会的、文化的に優位であるかによって翻訳の精度が変わること、インドや中国のような異なった宗教伝統を持つ社会ではシリア語の持つイメージが変わることの2点が挙げられています。前者の結論については、次のように述べられています。非常に重要な指摘なので引用しておきます。
全体的な傾向としては、社会的、文化的により優位とされる言語からの翻訳には逐語訳が多く、逆の場合にはより自由な翻訳が多いことが認められる。シリア語はアルメニア語やエチオピア語、ソグド語に対してはキリスト教受容の「先輩」として優位な立場にあった。逆にギリシア語圏やイスラーム圏、中国文化圏においては弱者の言語であった。この立場の違いが翻訳のあり方にも反映されている。ここで、それそれの世界において支配的なギリシア語や中国語が起点言語の内容を自らの文化に合わせて自由に変えてしまう様子には政治的、経済的に優位な立場にある者の弱者の言語に対する驕りのようなものを感じ取ることもできる(これは現在の世界で支配的な言語についてもある程度当てはまることかもしれない)。(101-2頁)

2011年12月1日木曜日

『ユダヤ・イスラエル研究』第25号(2011年)

日本ユダヤ学会の学会誌『ユダヤ・イスラエル研究』の第25号が届きました。今号から年刊化するそうです。以下に目次を示す論文に加え、5本の書評、6本の新刊紹介が収録されています。
日本ユダヤ学会HP(http://www.waseda.jp/assoc-jsjs/


『ユダヤ・イスラエル研究』第25号(2011年12月)

上村静「ユダヤ人がユダヤ人である理由:古代ユダヤ人の〈民意識〉」……1-13

山本伸一「『日々の歓びの書』に現れる「レハー・ドディー」の変更とガザのナタンの影響」……14-27

井出匠「19世紀末・20世紀初頭のスロヴァキア・ナショナリズム運動における反ユダヤ主義」……28-40

堀邦雄「キッチュとユダヤ系知識人」……41-51

4世紀のラテン語再生運動について


  • A. Cameron, "The Latin Revival of the Fourth Century," in Renaissances before the Renaissance: Cultural Revival of Late Antiquity and the Middle Ages, ed. W. Treadgold (Stanford: Stanford University Press, 1984), 42-58, 182-84.

0804711984Renaissances Before the Renaissance: Cultural Revivals of Late Antiquity and the Middle Ages
Warren Treadgold
Univ Microfilms Intl 1985-01
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4世紀におけるラテン語およびラテン文学の再生運動に関する論文を読みました。Alan Cameronはコロンビア大学の古典学教授です。かなり専門的なラテン文学の研究史に即した論文だったので、私には少々難しかったですが、分かる範囲で以下まとめてみます。

黄金時代→白銀時代と衰退していたラテン語が、4世紀に再生したことの理由としては、これまで1)ローマ帝国の経済・軍事の衰退に伴う文化的衰退への抵抗、2)キリスト教徒や野蛮人の脅威に対する異教の貴族たちの抵抗、といった理由が挙げられてきました。特に2)の見解はH. BlochやP. Levineによって主張されているものだそうです。これに対し、Cameronは新しい見解を示します。アンミアヌス(Ammianus Marcellinus)やクラウディアヌス(Claudianus)といったギリシア生まれの歴史家、詩人たちが、ギリシア語でなくラテン語で著作をものしたのは、競争の激しいギリシア文学と違って、ラテン語で書けば容易に名を残す作品を書くことができたからであり、文化的衰退やキリスト教文学への抵抗といった通説はまるで関係ないようです。ここで注目すべきは、彼らラテン語ネイティブでない者たちがラテン語で著作を残したのは、ラテン語の方が文化における支配的な言語だったからではなく、あくまで競争相手が少なかったからだったということです。これは当時のギリシア語とラテン語との関係を考えるうえで重要な指摘だと思います。

また2)の理由を支持する意見として、異教の貴族がラテン語写本の作成において果たした役割を重視するものがあります。つまり、彼らの働きがなければラテン文学の多くが失われてしまったはずだという意見ですが、Cameronは4つの理由からこれに反対します。①残っている写本の多くは学校の教本や一般書の類いであって、希少なものではなかった。②写本の製作者は異教徒ではなく、実際はキリスト教徒だった。③写本作者たちは宗教的実践の一環として写本製作をしていた。④異教の貴族たちも確かに写本製作を行っていたが、それは個人の図書館に本を保存するためであって、ラテン文学の再生を引き起こすような大々的な運動には成り得なかった。という4つの理由です。

さらに、4世紀終わりのスュンマクス(Q. Aurelius Symmachus)なる人物が異教の祭壇を再建するように皇帝に嘆願書を出していたことを根拠として、通説ではラテン語再生の理由が2)キリスト教に対する異教の抵抗であったことが示されますが、これに対しCameronは、ガリアとローマの具体例を挙げて、スュンマクスよりずっと以前からラテン語の再生運動が行われていたことを示します。まずガリアでは、3世紀の戦火の復興のためにローマより優秀なラテン語学者が集まっており、そこで学んだアウソニウス(Ausonius)なる人物の証言によると、すでに4世紀序盤には、キケローや小プリーニウスらをモデルとした学校があり、当地がラテン語再生の只中にあったことが分かります。しかもアウソニウスはキリスト者でもありました。一方ローマでは、ヒエロニュムスの証言によると、4世紀中盤には彼の師匠であったラテン文法学者ドナトゥス(Donatus)とウィクトリヌス(Marius Victorinus)の学校が繁盛していたようです。以上より、ラテン語の再生運動がキリスト教に対する異教の抵抗運動であったことを示すはずのスュンマクスの証言よりはるか以前から、キリスト教徒を含む者たちによって各地で同様の運動が起きていたことが分かります。それゆえに、この通説は根拠を失ってしまうわけです。

Cameronの主張も興味深いものでしたが、個人的にはヒエロニュムスの師匠ドナトゥスと、その後継に当たるセルウィウスとの著作上の類似の問題が面白かったです。セルウィウスによるウェルギリウス注解書は、ドナトゥスのパッチワークのようなものだと考えられているそうですが、Cameronによると、ドナトゥスの注解書にはない白銀時代の詩人の引用がセルウィウスの注解にはたくさんあるそうです。ドナトゥスが知っていた白銀時代の詩人はルカヌスしかおらず、それゆえに弟子のヒエロニュムスが知っていたのもルカヌスやペルシウスなどに限られていましたが、セルウィウスはユウェナリスなども引用しています。確かに言われてみると、これまでヒエロニュムスの著作の中でユウェナリスが引用されているのを見たことはないように思います。ちなみにヒエロニュムスの古典文学の知識に関しては、Cameronも引用しているように、やはりHagendahlの研究が詳しいようで、私もこの本は持っていますが未読なので、いずれ腰をすえて読まなければなりません。

  • H. Hagendahl, Latin Fathers and the Classics: A Study on the Apologists, Jerome and Other Christian Writers (Studia Graeca et Latina Gothoburgensia VI; Göteborg: Elanders Boktryckeri Aktiebolag, 1958).

B001NX2ZU6LATIN FATHERS AND THE CLASSICS - A STUDY OF THE APOLOGISTS, JEROME AND OTHER CHRISTIAN WRITERS
Harald Hagendahl
Goteborgs Universitets 1958
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