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2021年7月8日木曜日

第二神殿時代のサラ #6

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 240-49.


本章においては、全体の結論が論じられている。マソラ本文のサラには複雑さと一貫性が見られる。サラの強張った軌道は彼女の道具としての性質に貢献する。アブラハムとの類似は彼女が固く強張るに連れて増える。サラは自分の見た目が他人の目にどう映るかに意識的であるが、マソラ本文以外の伝承にはそうした特徴はない。所有と喪失のモチーフも他の伝承からは消えている。

七十人訳のサラはより極端で突飛である。またアブラハムの人物像の派生としての特徴をより色濃く持っており、神的な約束の成就においてよりプログラム的な役割を演じている。彼女の存在の薄さや活気のなさ、また縮減などは彼女の有用性に貢献している。彼女は神の目的に合致している。彼女の美しさは特に彼女の顔に結びついている。七十人訳のサラはマソラ本文のサラよりもアブラハムに似ている。その類似は神の約束の達成のための彼女の有用性を強調する。

『創世記アポクリュフォン』はやや外れものである。というのもアブラハムが語り手の役だからである。GNのサラは知りたがりで、発言力があり、感情的で、行動力やイニシアチブを示す。他の伝承同様に美しさを備えているが、他に知恵と手先の器用さをも持っている。サラに知恵があるというのはGNの新奇なアイデアである。サラの有用性は機械的な性的受容性にあり、そのとき彼女は性的な不可侵性を持つ対象になっている。GNでもサラはアブラハムに類似しているが、同一の根を持つ植物のメタフォリックで斬新なイメージのもとで表現されている。

『古代誌』のサラはアブラハムとの類似があるが、本当の血縁関係にすることで、この古いテーマを新しい切り口で表している。またサラはアブラハム同様に説得力を持った人物として描かれる。サラのイシュマエルに対する関係は、アブラハムのイサクに対する関係に比すことができる。『古代誌』においては、ハガルとイシュマエルに対するサラの態度は、アブラハム同様、神に命じられたものだった。語り手はサラやアブラハムの人物像を洗練させ、過ちを正当化しようとしているが、その試みが中途半端なため別の問題を引き起こしてしまっている。

以上のことから、著者は本書の発見を次の2つであるとしている。第一に、サラの深いところの特徴あるいはその原型的な特徴はアブラハムに類似している。これはサラがアブラハムの影になっているというわけではない。この特徴は諸物語を横断して見られるリンクになっているが、物語によってその機能は異なっている。第二に、サラのキャラクターは複雑で、展開したり、競合したり、矛盾したりする特徴を含んでいる。彼女の有用性がアブラハムや神の約束を成就させることにあるのは否定できないが、単純にその機能だけに縛り付けられているわけではない。サラはときに語り手たちの男性中心的・家父長的な伝承の狭隘さを免れている。

また著者は本書の貢献として以下の3点を挙げている。第一に、著者は創世記やその語り直しにおいて自分に明らかにされたサラを認め、再発見しようとした。聖書における女性を対象とした同様の検証はまだ手薄なので、これからそれが続くことが期待される。第二に、周辺的で無視されてきたキャラクターに光を当てるような、理論的でキャラクター主体の詩学を作り上げ、使おうとした。本書で扱った諸文書に物語論的な視点でアプローチした研究はほとんどなかった。そして第三に、語り直し聖書物語を絶え間なくその源泉に盲従させたり比較したりすることなく読む方法を見つけようとした。語り直しを独自の統一性をもった作品と見なすことで、当然与えられるべき解釈の配当を配分したわけである。本書で扱われたテクストはどれも現在最上の状態に置かれており、それらは聖書学や人文学が使えるあらゆる方法論的ツールによって探求されるべきである。

第二神殿時代のサラ #5

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 186-239.

本部分においては、ヨセフス『ユダヤ古代誌』(以下『古代誌』)におけるサラのキャラクター性が論じられている。『古代誌』において、著者はサラのキャラクター性には3つの中心点があると主張する。第一に、サラはしばしば役割やイニシアティヴにおいて減じられている。第二に、サラのイメージはしばしばアブラハムのそれに一致している。そして第三に、サラの描写は、語り手が主要登場人物をポジティヴに改善させて描こうとするあまり、複雑化してしまっている。ちなみに著者は、『古代誌』の語り手は必ずしも著者であるヨセフスと同一ではないため、「語り手」という言葉を使っている。

『古代誌』1.148-160:父であるハランの死によってサラは孤児になってしまったが、ハランの兄弟の一人であるアブラハムがサラと結婚し、その兄弟であるナホルがロトを引き取った。著者によれば、ここには叔父としての思いやりと共に性的・生殖的な目的がはっきりとあるという。いずれにせよ、『古代誌』はサラとアブラハムが本当の血縁関係であることを示している。他の伝承でも多くの場合サラはアブラハムによく似ているとされているが、『古代誌』は両者を血縁関係にすることで、この類似を「深い特徴」にしているのだ。ただしこうした血縁関係はもともとアブラハムを定義するためのものであり、それを介してサラを描いているため、サラの説明としては間接的である。

『古代誌』1.161-168:エジプトにおいて、アブラハムはエジプト人たちに教育を施すことができるほどの説得の能力を示している。しかし、女性に対して熱狂的な欲望を持つエジプト人たちの目に、肉体的な美しさを持つサラが留まってしまうと、自分も危うくなるかもしれないため、アブラハムはサラを妻ではなく妹だとごまかすことにした。そこでアブラハムはこのごまかしによって自分もサラも利益を得るのだとサラに説明したわけだが、結局大金を得たのもエジプト人の知識人と交流できたのもアブラハムだけであり、サラは誘拐され強姦されかけた。つまり語り手はアブラハムの先見の明を強調しようとしたが、アブラハムはサラの危険に考えを予想できていなかったことになってしまった。同様に、語り手はサラをポジティヴに描こうとして失敗しているところもある。語り手によれば、ファラオはサラがアプラハムを連れてきたように述べており(1.165)、またファラオは最初はサラの見た目に惹かれたが彼女から真理を学んだという(1.165)。つまりここでサラは比較的独立性を保っており、語りの中で主導権を握りさえしているわけだが、彼女の主体性は長くは続かず、結局また元の役割に戻っている。

『古代誌』1.169-185:サラの存在についてのヒントなし。

『古代誌』1.186-190:サラに子供ができないことにアブラハムが苛立っている。これは子供がいないことについてサラの役割に触れた最初である。そこでサラはハガルをアブラハムにあてがうわけだが、『古代誌』においてはそれが神に命じられてしたことだと明言されている。神に命じられてサラがハガルにしたことと、神に命じられてアブラハムがカナンに移住したことが同等視されている。つまりサラは神からの直接の交信を受け、それに従順に応じている。この従順さとはアブラハムの主たる特質だった。このようにアブラハムに似ていることはサラのキャラクターの根本的な点になっている。ここでのサラは奴隷所有者である。語り手は、サラがハガルを「横にならせた」(1.187)と婉曲表現を使っているが、これは「性交させた」という意味である。いかに遠回しに表現してもサラの残酷さは隠せない。また語り手はサラをよく見せるために、サラはイシュマエルを自分の子のように可愛がったが、ハガルは驕り高ぶっていたと述べる。つまりハガルの反応を蔑むかのように描いているが、妊婦に対して死に至るような虐待(aikia)をしたのはサラである。このようなサラによるハガル虐待は、他の伝承ではエジプトにおけるサラのひどい扱いと関連付けられていた。『古代誌』においてもそれはそうだが、語り手がアブラハムやサラに直接セリフを言わせないため、主として心理的な要素に留まっている。

『古代誌』1.191-193:特にサラの描写なし。

『古代誌』1.194-206:三人の天使の訪問を受け、アブラハムが歓待している。これは天使たちを温かく迎えなかったソドムの市民たちとの対比になっている。サラはそのとき近くにいたので、天使たちはサラの「笑い」を見たに違いない。ただし、この個所ではアブラハムやサラたちのシーンよりもソドムの破壊の方が強い印象を与えてしまっている。アブラハム自身がサラの妊娠の可能性よりもソドムの破壊に気を取られている(1.199-206)。ここではサラの高齢について初めて明確な言及がある。またサラが天使たちの言葉を信じずに笑ったことで天使たちが変装を解いたので、サラはここでわずかな力を示したと言える。ただしいずれの特徴もバラバラで、このエピソード全体があまりうまくまとまっていない。

『古代誌』1.207-212:ゲラルの滞在はエジプト滞在とさまざまなかたちでリンクしている。ここでも語り手はアブラハムをよく描こうとして失敗している。洞察力に優れているはずのアブラハムがサラの陥りかねない危険をなぜ予期できないのか。マソラ本文や七十人訳ではエジプトよりもゲラルにおけるサラの方が主体性や行動力を持っていたが、『古代誌』においてはエジプトのときの方がましである。『古代誌』におけるゲラルのサラは自分の正体を明かすことも知恵の言葉を語ることもない。誘拐と強姦未遂に遭ったサラのゲラルにおける動きははっきりしない(彼女が自分の正体をアビメレクに明かすシーンもない)。『古代誌』のようにアブラハムとサラが叔父と姪の関係であれば結婚は可能だが、マソラ本文や七十人訳のように兄妹関係であれば結婚は不可能である。これは『古代誌』の語り手が二人の血縁関係を強調しつつ、二人が律法違反を犯していないことを示すことで、二人をよく描こうとしているのである。しかし結局こうした策を弄そうとしたアブラハムを肯定的に描くことには失敗している。

『古代誌』1.213-221:イサクの命名は「老齢での出産を予言されたサラが笑った」ことに由来するが、イサクの名前説明にはゲロース、サラが笑った時にはメイディアオーという別の単語が使われているので語源説明になっていない。『古代誌』は「子供が両者から生まれた」と説明することで、イサクがアブラハムだけでなくサラの子供でもあることを示している(マソラ本文はアブラハムのみ)。サラはイシュマエルが生まれたときに最初は愛情を示していたとされるが(1.215)、これは語り手による下手な正当化である。サラが最初は愛情を示したにもかかわらずイシュマエルに辛く当たったことは、アブラハムがイサクに愛情をかけたにもかかわらず献げ物にしかけたことと並行関係になっている。サラはイシュマエルがイサクを害するかもしれぬと考え、かつては愛情をかけたイシュマエルとその母ハガルをアブラハムに「植民地(アポイキア)」へと追放させたとされている。この個所の解釈としては、第一に、「どこか別の場所に行かせた」という一般的な解釈と、第二に、「植民地を設立させた」という解釈がある。いずれもサラの非道さを和らげて暗い話を何とか明るくしようとする語り手の試みであるが、実際のところこの追放は死刑に等しかった。そしてその決定はサラのイニシアチブのもとでなされたのである。

『古代誌』1.222-236:イサクの奉献の場面においてサラはほとんど登場しないが、まったくいないわけではない。ここでアブラハムがイサクに向けている「好意(エウノイア)」はサラがかつてイシュマエルに向けたの(1.215)と同じ単語である。つまり、サラはイシュマエルに母のような愛情を持っていたにもかかわらず、神の干渉によって助かったとはいえ彼を死出の旅に送った。一方アブラハムはイサクに父親としての愛情を持っていたにもかかわらず、イサクを死に追いやるところで神の干渉を受けた。ここでサラははっきりとアブラハムのイメージと一致している。イサクの奉献のエピソードにおいてアブラハムが彼の目的をサラに明かさなかったことからは、サラの力が透けて見える。ただし結局のところサラはアブラハムの計画に気付かなかったので、状況に置いてけぼりを食らったともいえる。

『古代誌』1.237:サラの死はアブラハムとイサクが戻ってわずかのちのことだったというが、実際には十年以上経っている。サラはアブラハムが受けたような敬意(1.256)を受けていない。カナン人たちが公共の英雄を称えるのと同じように、サラの葬儀を公費で賄おうとしたところ、何の説明もないままアブラハムがそれを断り、自分で土地を購入したのである。語り手がサラをよく描こうとして「公費」の設定を加えたが、もともと創世記にアブラハムが土地を購入したくだりがあるため、両方残しておかしな筋になったのであろう。とはいえ、アブラハムは、カナン人が考えたような価値がサラにはないと判断したともいえる。結局語り手はアブラハムの品格を貶める結果になっている。

結論:著者は『古代誌』におけるサラの特徴を次の3つにまとめている。第一に、『古代誌』のサラは、たとえばマソラ本文のサラと比べて減じられ、縮められている。サラが直接話をすることはなく、彼女の動きに語り手が興味を持つこともない。またサラが何か行動を起こそうとするとすぐになかったことにされている。サラが何かする場合も、それは結局すでにアブラハムがしたことになっている。

第二に、『古代誌』のサラはさまざまなやり方でアブラハムに似せられている。何よりサラはアブラハムの姪として血縁関係がある。サラはアブラハムがそうしたように、エジプトでファラオに真理を教授している。ゲラルにおいてアブラハムは説得力がある人物として描かれているが、サラもまたイシュマエルとハガルを追放することについてアブラハムを説得し、そればかりか神までをも説得している。またサラがイシュマエルに愛情を持っていたにもかかわらず彼を追放したことは、アブラハムがイサクを愛しながら犠牲にしようとしたことに似ている。語り手はアブラハムもサラもよりよい人間として描こうとしているが、結局中心はアブラハムであり、サラは偉大な彼に相応しい妻でしかない。

第三に、『古代誌』の語り手はサラを含め主要人物をよく描こうとしているが、やり方が不注意なので新たな問題を生み出してしまっている。アブラハムは先見の明があるはずなのに、サラが直面するであろう危険を予測できていない。サラが死に際し受けるはずだった名誉もアブラハムが取り去ってしまっている。サラのハガルに対する酷い仕打ちは、ハガルが傲慢だったという設定により和らげられ、またサラがハガルとイシュマエルを追放した件は
、サラがもともとイシュマエルに愛情を持っていたという設定により和らげられている。つまり、『古代誌』におけるサラの肖像は好意的なトーンで再度色付けされているが、その仕事は完成されないまま、ときに彼女のイメージを曇らせ、前からある瑕疵はそのままになっている。

2021年7月1日木曜日

第二神殿時代のサラ #4

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 139-85.

本章においては、『創世記アポクリュフォン』(以下GA)におけるサラのキャラクター性が論じられている。S.W. CrawfordらはGAにおけるサラに「力強い女性キャラクター」を見ている。実際にGAのサラは、知識を求め、賢く、意見を述べ、感情を持った女性であり、アブラハムの相棒という感じである。エジプトの廷臣たちも彼女の美しさ、深い知恵、そして驚くべき手先の技術をファラオに報告している。ところがファラオがサラを誘拐し、自分の妻にするや、彼女は単なるモノとしての役割しかなくなってしまう(Sarai's objectification)。アブラハムはサラを性的に独占することに執心し、彼女の自由は顧慮しない。彼にとってのサラの価値はあくまで「機械的(mechanical)」なものでしかないのである。GAではこうした彼女の主体性の消失が起こる。ここにはGAが語り手としてのアブラハムの一人称で書かれたテクストであることも関係しているだろう。すべての描写は「アブラハムによれば」という括弧づけの上でなされていることを忘れてはいけない。著者はこの章でGAのうち第19欄から20欄にかけてを取り扱っている。

GA 19.7-10:サラがはっきりと登場するわけではないが、それを引き出すことができる。アブラハムは夢を見ているが、それは神からのコミュニケーションにおいて、のちにサラに「彼は私の兄です」と言わせることのお墨付きをもらうという意味がある。

GA 19.10-13:アブラハムは誰か聞き手に向かって語っているが、それは誰か。19.12においてアブラハムは「我々は」と複数の代名詞を主語とすることで、旅の連れがいたことを示す。彼らの間にはある程度の相互関係(mutuality)が見える。むろんここにはサラだけではなくロトもいた可能性もある。しかし、物語のこの後の進行を考慮すると、アブラハムの聞き手にサラがいた可能性は非常に高い。

GA 19.14-23:エジプトに入る前のアブラハムの夢の中に、杉とナツメヤシの木が出てくる。杉はアブラハム、ナツメヤシはサラの象徴である(GA中でノアも杉と描写されている)。これは樹木のシンボルを使った予言と警告になっている。同様の表現としては、詩92:13の「義人がヤシのように芽を出し、杉のように育つ」という表現、雅5:15および7:8-9において男性の見た目が杉と、女性の見た目がナツメヤシと比されている部分がある。そして、古代近東において「木が倒れる」ということは災害や死を、また「木や植物が話をする」ということは金言を語ることを意味した。アブラハムの夢はこうしたイメージを集めて新たな方法で表現している。サラとナツメヤシに関する著者の解釈では、ナツメヤシが美しさと有用性を持っていることが大きく関係しているという。有用性とはつまり多産さということである。ただし、夢の内容はこれからアブラハムやサラたちに起こる出来事とはあまり一致していない。夢の中では杉(=アブラハム)が根こそぎにされそうになっているが、実際にはサラ(=ナツメヤシ)が王によって連れ去られる。そもそもアブラハムとサラは「一つの根から生えている」とは言えないだろう。

こうしたアブラハムの語り手としての信頼性に問題があるのは、彼がほとんどの出来事に関与しているからである。つまり彼は語り手であると共に登場人物でもある。物語に深く関係している語り手の言うことは信頼し得ないのは、言うまでもない。それはその語りが事実そのものではなく語り手の視点からなされたものだからである。またアブラハムは自分が直接知らないはずのことも自信たっぷりに語っているが(エジプトの宮廷内の出来事など)、これも信頼できない所以である。

GAはこの場面でサラに直接アブラハムに語りかけさせている。同様の発明はシリア・キリスト教の説教などに見られる。ここでのサラの発言には相互関係のトーンが感じられる。パートナーとしてアブラハムの恐怖心を取ったり、少なくとも共有したりして救ってあげたいという主体的な気持ちである。これでアブラハムは幸せな結末を迎えるわけだが、ここ(19.21)でテクスト上の欠損がある。本来であればここにサラの反応が描かれていたのかもしれないが、それは失われている。分かっていることは、アブラハムの描写によれば、「彼女はその夜私の言葉ゆえに泣いた」という。そしてサラは「5年間」人前から姿を消したとされている(19.23)。並行個所を保存している可能性のあるシリア教父の説教は、サラがアブラハムのアドバイスを無視して、ぼろ切れやホコリの下に自分の美しさを隠したと述べている。以上のように、アブラハムに直接語り掛けるサラには行為者としての主体性を感じられるし、アブラハムのために泣くサラからもある程度の働きかけを見出すことができる。

GA19.23-31:ここでの描写のすべてはアブラハムのフィルターがかかっているが、はっきりしているのは、第一に、サラは何年か自分の美しさを隠すことができたということである。それゆえに三人の廷臣は彼女の美しさの噂を聞きつけてではなく、知恵を求めてやってきたと描写される。第二に、ヒルカノスら廷臣たちはサラに会った。そして彼女の顔や体だけではなく、その「深い知恵」(20.7)を見ることができた。

「知恵」とそれにまつわる技術を示したのはアブラハムで、彼はエノクの言葉の書を読んだとされている。著者は、アブラハムもそうしたかもしれないが、むしろサラこそが知恵を示したと考える。なぜかというと、29行目のואמרתという語は、Machielaのように「私は言った」(一人称・両性・単数)とも訳せるが、「彼女は言った」(三人称・女性・単数)とも訳せるからである。前者であれば、知恵を示したのは語り手であるアブラハムだったことになるが、著者は後者の読みは文法的にも可能だし、物語上も妥当であると考える。そうすると、知恵を示したのもエノクの言葉の書を読んだのも「彼女」すなわちサラだったことになる。実際、後代の伝承(『出エジプト記ラバー』1.1やバビロニア・タルムード『メギラー』14aなど)によるとサラは特別な洞察力を持っており、それはアブラハムをしのいだとされている。つまり、サラは三人の廷臣たちの質問に、口頭で答えることでその知恵を示したのだと考えられる。

GA 20.2-8:ここでは比較的長いサラの描写がある。「美(שפר)」に関するさまざまな形容詞や名詞を連ねた反復的な表現は、しかし著者にとっては単調なものだという。他にもいくつかの表現が出てきているが、それらの過剰なまでの同義的な語の反復は、総じて彼女のキャラクターの定義を追加するようなものにはなっていない。ヒルカノスらによるサラの描写はさらに、彼女の知恵と手の業の巧みさをも讃えているが、これらは「価値のある女性」のステレオタイプな理想像に対する大げさな賛辞にすぎない。同様の表現は、雅歌、箴言(31:13, 19, 31)、『ベン・シラ』(26:13-18)にも見られる。

GAにおける最も目立つ特徴であり、また重要な発展としては、エジプトにおけるサラの饒舌さが挙げられる。他にもこの個所は、当時の人相学の影響を受けた近東の詩をヘレニズム化させたものとも理解される。つまり、彼女の特別な美しさは、知恵と技術という彼女の特筆すべき精神的あるいは倫理的な才能の象徴だという理解である。「美しい(カロス)」が七十人訳やフィロンなどにおいて肉体的な性質と倫理的な性質の両方を受け継いでいることとも、この理解は一致する。しかし著者の読みでは、サラの知恵は肉体の美と相互に関連付けられていない。彼女は美しいだけでなく賢いとも描写されているのである。しかしその賢さの描写がそれ以上ないのは、物語のフィルターである語り手としての男性の価値観によるものであって、サラに知恵や技術が不足しているからではない。

GA 20.8-11:ファラオは廷臣たちの話を聞き、暴力的にサラを連れ去ったわけだが、そのあとでサラを見てその美しさに打たれ、妻として彼女を娶っている。ここでの「娶る」は明らかに性的な意味を含意すると同時に、「購入による獲得」をも意味する。このあたりのアブラハムの語りは混乱している。またその後もファラオはアブラハムを殺そうとするが、彼はサラの取りなしにより助かり、しかも彼女に関してファラオと交渉しているという。この部分の順序も奇妙である。いずれにせよ、この個所で明らかなのは、サラの価値が極めて狭いものに限定されていることである。すなわち、ファラオやアブラハムにとっての彼女価値が肉体的な美しさだけになっている。アブラハムが「泣いた」のも連れ去られた妻への共感ではなく、より実務的で機械的な理由による。

GA 20.12-16:アブラハムが泣き、神の裁きを期待したのはあくまで自分のため、すなわち自己言及(self-referentiality)にすぎない。というのも、サラの清浄さの如何が自分の影響するからである。ファラオによる性交渉があった後ではアブラハムはサラと夫婦関係を続けることができなくなるため、彼女の清浄さを求めているだけである。そうした祈りを向けられる神もまた虐げられた妻の味方ではない。この場面は法律用語を使えば、裁判官としての神のもと原告アブラハムがサラの返還を求めて被告ファラオと争っているということである。つまりここでのサラは財産にすぎない。ここにおいてサラは物語の登場人物ではなくなり、意思も主体もないほぼ無生物のモノと化している。いわば物言わぬ売買の対象、さしずめちょっといいタンスかトランクほどの扱いである。

GA 20.16-21:ここでは地上の王たちを統べる、王たちの王としての神のイメージが出てくるが、その強大な力は囚われのサラを救うわけではない。あいかわらず目立った問題は彼女の性的な不可侵性である。彼女は不活発で、代名詞でのみ言及されている。

GA 20.21-23:サラがアブラハムとファラオのどちらの妻なのかが問題となっている。サラはアブラハムの祈りの霊的な妨げになっている。

GA 20.24-21.4:サラは音もなく物語から消えている。ハガルをファラオから得たことになっている。サラは活力のない穢れていない容器のようなものであって、アブラハムも彼女が性的にきれいかどうかにしか関心がない。

以上から、GAにおけるサラは、もともとはおしゃべりで才覚があり美しく賢くまた手先の器用な女性で、時に感情をあらわに泣いたり、深い知恵を示したりもすることがあった。しかしヒルカノスらエジプトの廷臣たちとの出会いの場面を転換点として、彼女の特質は非常に狭い意味での美しさだけになり、その機械的な性的受容性のみに関心が払われるようになった。先にはあったアブラハムとの相互関係は消え失せた。このようなサラの急激な変化からは、アブラハムの語り手としての信頼性への疑いが生じる。サラが囚われの身となったことにより自分が不適切に利益を得たことの印象を弱めようとしているといえる。というのも、アブラハムの一連の行動の動機が金銭的なものだったからである。彼はサラを人間として扱わず、心配もしていない。言い換えると、研究者たちがGAのサラに「強い」女性像を見ている点について、ある部分ではそうと言えるが、別の部分では再考の余地がある。ファラオによる誘拐以降のサラの主体性は弱まり、その役割も貴重な箱ほどのものに成り下がっている。アブラハム、ファラオ、神にとってのサラの本当の価値は、究極的にはその魅力的な体にあった。

2021年6月14日月曜日

第二神殿時代のサラ #3

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 88-138.

本章においては、創世記の七十人訳におけるサラのキャラクター性が論じられている。七十人訳におけるサラは複雑で(complex)だが一貫性のない(erratic)人物で、彼女の個性を制限する(limit her individuation)ようなさまざまなプレッシャーに常に直面している。それゆえに物語の初期段階ではサラは受け身(passive)で、不活発(inert)で、力なく(powerless)、ときに生命力すらない(inanimate)人物として描かれている。ハガルを虐待するときに力(agency)を得ることで、サラの不活発さは一時解消されるが、その不名誉な能動的な力は結局のところアブラハムのイミテーション、あるいはその派生にすぎなかった。結局サラはアブラハムに対する神の約束の成就における便利な道具(instrument)として役立っていたのだった。つまり、七十人訳におけるサラは、洗いざらしにされ(washed out )衰えた(faded)人物であり、自分の意志ゆえでなく、神とアブラハムの関係性の確立のために、一貫性を欠く行動を取るようになった。

七十人訳のサラに関する研究は、S. SchorchやJ. Dinesによるわずかな分量のテクストに基づくものと、S.A. Brayfordによる浩瀚なものの他にはほとんどない。Brayfordによると、サラは、翻訳者たちの社会環境にとって適切な性的な羞恥心を示すヘレニズム的貴婦人として描かれているというが、著者は、七十人訳のサラはマソラ本文のサラよりも受け身の人物で、わずかにある彼女自身の行為もアブラハムのそれからの派生として描かれていると主張する。                                                                                                                                                                                                                                        

七十人訳のテクストはしばしばマソラ本文と、テーマ、モチーフ、キャラクターの特徴などについて、本質的な一致を示すことがある。これは前者が後者の翻訳であることから当然である。すると、それらを最初から最後まで繰り返すことは読者の忍耐を試すようなことになってしまう。そのような状況下で取れる選択肢としては、第一に、マソラ本文での分析の繰り返しになろうとも、サラのキャラクターに関するすべての分析を完全に引き出すこと、そして第二に、両バージョンの連続性を、それらが関連するときに、ある程度濃縮したかたちで喚起することが挙げられる。著者は読者の利便性を考慮して、後者を選択したという。とはいえ、あるエピソードやシーンは時に異なり、時に一致するので、それらに図式的・均一的なアプローチをすることは有害である。そこで著者は連続性や矛盾への考察から議論を始めるときもあれば、連続性や矛盾を論じる前に両バージョンの衝突を論じることもある。そして何よりも物語の統一性(integrity)を重視している。

創11:26-12:9:ここでのサラは主として否定的な受け身の人物として描かれている。先祖や子孫などの肉親関係も示されていないため、サラが持っているのはアブラハムとの性的な社会婚姻関係だけである。マソラ本文との違いはわずかなものである。たとえば、七十人訳の方がサラの不妊がより永続的になっている。サラの名前の言葉遊びがない。能動的な力がなく受け身の姿勢がより強い(11:31のマソラ本文が「彼らは皆で出た」に対し、七十人訳は「彼(テラ)は彼らを出した」)。つまり、彼女は彼女が持っているものではなく、持っていないことやできなかったことによって定義されている。生殖能力が永続的でないことで、のちの神の計画に対する彼女の利用価値を一層高めているのである。また受け身の姿勢を強めることで、のちに起こるエジプトでの事件でサラの意志がよりなかったことになる。

創12:10-13:2:やはりここでもサラはまるで意思を持った人物として描かれていない。エジプトの王のもとにアブラハムの「妹」として行く件で、アブラハムの口調はほとんどビジネスライクであり、説得ではなく命令を下している。アブラハムはサラのことを「顔がいい(エウプロソーポス)」と外見についてのみ描写する。サラはアブラハムの詐欺の美的な構成成分だけを強めている。サラの美しい顔は戦略的に有利な点となり、彼女のおかげでアブラハムは生き続けることができる。こうしたアブラハムの話に対してサラは沈黙したままである。サラはただアブラハムとファラオという二人の男によって肉体的・性的に代わる代わる所有された価値ある物体であった。彼女は美しさを持っていたが、それは彼女にとって不利益しか生まなかった。いわば彼女は人身売買され取引された犠牲者であり、安全も自由も力の意志も、さらには子供も欠いていた。マソラ本文と比べると、七十人訳ではサラは説得の対象ではなく、無遠慮で命令的な強制の対象になっている。意思がないので説得の必要があると見なされていないのである。サラはここでほぼ完全に受け身である。

創13:2-15:21:サラは登場しない。

創16:1-16:サラの重要な転換点となる部分である。サラはこれまでの無気力状態から脱し、意思らしきものを示すが、それはアブラハムの模倣においてであった。すなわち、ハガルからアブラハムの子孫を得ようとするサラのアイデアはアブラハム自身に端を発するものであった。さらにこの一連の話の中で主語の性がはっきりしないために、サラとアブラハムの区別が曖昧になっている。七十人訳がマソラ本文から大きく違うのは、ハガルがアブラハムの後継者を得るための代理母として最初に提案された奴隷ではないことである。すなわち15:2-3におけるアブラハムのセリフは、マソラ本文では「私の家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルである」となっているが、七十人訳では「私の家の女奴隷マセクの子、この者はダマスコのエリエゼル」となっている。つまり「マセク」を人名と捉え、また「私の家」を「私の家の者」すなわち「女奴隷」と捉えている。こうしてアブラハムの息子かつ後継者として奴隷の子供を用いるというテーマが15章においてアブラハム自身によって先取りされているのである。つまり、ハガルの件でようやくサラが意志を示せそうになった機会が奪われ、アブラハムの受け売りのようになっているのである。

マソラ本文においてはエジプトでの詐欺とサラによるハガル代理母の件の繋がりが、アブラハムとサラそれぞれのセリフ構造の類似の中に示されていたが(ヒネ・ナで始まるなど)、七十人訳ではそれがなくなっている。オープニング・フレーズの形式的な一致がないので、読者にはセリフの類似に関するヒントがないのである。それゆえに、サラのエジプトでのひどい体験とサラによるハガルの処分との繋がりが薄まってしまっている。七十人訳の「マセクの子」の解釈もこの繋がりを弱めることになっている。またマソラ本文ではハガルの体によって「私が立てられる=私が息子を得る」というサラ自身への恩恵もあったが、七十人訳では「あなたが子を得る」という表現になっている。つまりサラのセリフはアブラハムの利益のみを述べているのである。こうして意志の力がさらに失われ、より限定的な個性しか発揮されなくなり、物語におけるサラの役割が小さくなる。

この個所ではジェンダー・アイデンティティの曖昧さが見られる。サラがアブラハムに「あなたが子を得る」と言っているギリシア語テクノポイエオーは、通常女性が子供を産む力を指すときの言葉である。また5節で「あなたのコルポスに私の奴隷を私が与えました」というサラのセリフも、本来であればいかにも男が言いそうなセリフである。そしてアブラハムの「コルポス」は「膝」とも訳せるが、もとは「穴」という意味なので、しばしば「女性器」を示す言葉である。6節でアブラハムがハガルを「好きなように使いなさい」と言っている際の「使う」が人を目的語に取るときは性的なニュアンスが伴うが、ここでハガル「使う」のはサラの役割である。すまりサラに男性の視点が与えられている。9節の神の使いのハガルでのセリフ「女主人のもとに帰ってその手に身を委ねよ」の動詞タペイノオーもしばしばレイプを示す語である。以上のような性の曖昧さは、サラとアブラハムの間のパワーバランスを再調整し、その役割を曖昧にするのに役立っている。これ以前の意志のないサラが突然ハガルに対して暴力的な意思を示すという急激な変化を和らげているのである。

4節でハガルが妊娠したことで、サラがハガルの目に重要でなくなったが、ここでのギリシア語アティマゾーはヘブライ語よりも強い言葉である。しかし「彼女の目において」という部分が「彼女の目の前で(エナンティオン)」と変わることで、サラが面目を失ったのはハガルの前だけということになっている。Brayfordはここでハガルの地位がやや上がったとするが、著者はサラが「女主人(キューリア)」と呼ばれていることから、やはりハガルは依然としてサラの所有物にすぎないと主張する。しかも神はサラによるハガルの虐待の積極的な協力者になっている。サラのこれまでの受け身で無気力な状態は、ハガルの虐待によって終わり、新たに意思を持ちオープンに話をしているが、その実彼女の行為はアブラハムのそれの反響にすぎない。12章で強調されていた「顔の良さ」も、内面の真意との格差を示していることがはっきりとする。

創17:1-27:この部分での七十人訳とマソラ本文の違いは大きくない。

創18:1-15:ハガル虐待以来サラは読者の目から隠れている。ここでもサラは天幕の中にいるせいで、せっかく出かけていた意思が制限されてしまっている。ただし、アブラハムにパンを作るように言われたにもかかわらず、おそらく何も行動を起こしていないところからは、サラのイニシアチブ、サラに言えば反抗の様子を見て取れる。さらに、神の使いがサラの将来の出産について語ると、サラはそれをもっともなことに疑う。ただしそれは自分自身の老齢ゆえに無理だと考えているわけではなく(サラ自身の状態についての言及は一切ない)、アブラハムが老いたからである。この疑いやそれに伴う笑いはサラの意志の表れのはずだが、すぐにアブラハムが同じようなことをするため、その意味が薄れている。マソラ本文ではアブラハムとサラの行動が相似形になるような言葉が使われているが、七十人訳は異なっており、その結果サラのイニシアチブは骨抜きとなり、精彩や生命力を示す機会がなくなった。

12節のサラの独白も、マソラ本文においてはアブラハムとの実りのない性関係への怒りと性行為そのものの悦びがないことに関する不信といったたくましいイメージが表現されていたが、七十人訳では妊娠の不可能性に関する冷静な考えが表現されている。ここからBrayfordは、七十人訳のサラは翻訳者のアレクサンドリアの環境の感覚により適切な「恥」のヘレニズム的女性として描かれていると主張しており、著者もそれにある程度同意している。ただし著者によれば、そうした社会的な規範に沿うことで、サラの文学的なキャラクターは後退しているという。

15節の「笑っていません」というごまかしと、その理由としての「恐れ」との繋がりは、マソラ本文でも七十人訳でもはっきりしていない。そこで著者は、「サラが恐れゆえにごまかした」という語り手の説明そのものを退ける。サラが笑いをごまかしたのは、彼女の意志とイニシアチブの表れである。しかしそれは神の反駁と語り手の不明瞭化によって制限されてしまっている。

無気力で見た目のよいモノというイメージは、ハガルへの残酷な仕打ちというかたちにしろ、意思を持った人間としてのサラの定義へと転換された。しかしその切っ先は、続くサラの提案を派生的なものにしたり、動詞のジェンダーを曖昧にしたりすることで鈍ってしまった。こうして七十人訳のサラはより青ざめた、活力を垂れ流しにするキャラクターになってしまった。サラは依然として神のアブラハムへの約束を成就させるための利用価値を認められているが、その知らせも直接聞いたわけではなく、そこにおけるいかなる自発性や話すことさえ認められていない。

20:1-18:ゲラルにおけるアビメレクとの物語においても、七十人訳の発展が見られる。アビメレクはアブラハムに金を支払っているが、それについてサラに「あなたの顔の名誉(ティメー)のために」と述べている。このティメーという語は「名誉」や「尊厳」といった意味と共に、「値段」や「価値」といった意味も持っている。つまりここには、サラの顔の美しさを商品と見なす意識が現れている。またマソラ本文ではエジプトのときと異なり、ゲラルではサラもまた詐欺の片棒を担ぐことである程度の意志を示していたが、七十人訳ではゲラルでも沈黙し、意思を放棄しており、ほとんど無気力のままである。こうして七十人訳のサラの態度は極めて一貫性を欠いた(erratic)なものとなっている。ただし、登場人物のmimeticな理解は、その人物に統一性だけを見るのではなく、こうした人間的な非一貫性や矛盾をも考慮に入れるべきである。

21:1-14:イサク誕生に関して、マソラ本文はサラの笑いについてアンビバレントな評価を下していたが、七十人訳における彼女の笑いは本当に幸せであることを示している。6節は「主は私のために笑いを作ってくれた。このことを聞く者は皆私と共に喜ぶだろう」となっている。つまり、これはサラが他の者たちと共有することを期待する幸せな笑いなのである。8節の「(イシュマエルが)イサクと遊んでいる」というところのパイゾーはしばしば性的なニュアンスを含む語だが、ここではそれは問題となっていない。むしろ問題は「イサク『と』」のメタという前置詞である。なぜなら9-10節で「私の息子イサク『と』財産を相続することはできない」にも同じ前置詞が使われているからである。イサク誕生の喜びのすぐあとにハガルとイシュマエルを追放させるサラは、子を持つ母親のステレオタイプを叩き切っている。これは語り手がサラの複雑な気持ちに寄り添いつつ真に人間的に扱うというよりも、単に神の約束の成就の道具として扱っているということである。こうしてわずかに見えたサラのイニシアチブはまたしても弱められてしまっている。

創23:1-20:サラの無気力と受け身は、サラの死において完全なものとなっている。つまりここでサラは完全にアブラハムのモノになっている。

結論としては、マソラ本文におけるサラは複雑ではあっても一貫していたが(coherent)、七十人訳のサラは複雑でしかも一貫しておらず(erratic)、ギクシャクしていてたどたどしい。またマソラ本文にはあった獲得と喪失、所有と欠如のテーマは七十人訳には見られない。またマソラ本文のようにサラが人の目を気にする様子もない。七十人訳はサラの個人性を損なうほど、彼女の行動をアブラハムのそれの派生として描こうとしている。そのようにしてサラの個人性を洗い落として色あせさせているのは語り手である。彼女のイニシアチブは、それを行使しようとする前に奪われ、行為しようとする意志は制限を課されてしまう。このようにサラの主体性が狭く制限されるのは、語り手がアブラハムに訳された神の約束の成就の道具としてサラを見なしているからである。それゆえに、マソラ本文に比べて七十人訳のサラが他者への共感を欠いているという理解はフェアではない。ここでのサラはそもそも知識や理解というものを持っていないのである。わずかな救いとしては、アブラハムとサラの死後、イサクはアブラハムに対しては悲しみを見せないが、サラについては、リヴカとの結婚を経てようやくその死への慰めを得たという記述があることである(24:67; 25:20)。

2021年6月3日木曜日

第二神殿時代のサラ #2

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 32-87.

本章においては、創世記のマソラ本文におけるサラのキャラクター性が論じられている。著者はサラが実在の人物であるかのように、自分自身の経験というフィルターを通じてmimetic readingで創世記を読み解く。

創11:26-12:9:サラはまず女性および妻(つまり性的に成熟した女性)として定義されている。サラはアブラハムによって妻として「取られた」のであり、それゆえにアブラハム「の女」と呼ばれる。主導権ははっきりとアブラハムにあるので、彼よりも力は弱い。「サラ」という名前の語源は「支配、優越、所有」といった意味を持つが、実際には「所有される者」(「所有する者」ではなく)として描かれている。たとえばサラは「子供がいない」と説明されている。その原因はアブラハムではなくサラに帰されている。アブラハムの妻、ロトの叔母、テラの義理の娘といったかたちで家族関係を得るが、テラの死によってそれを失う。しかしアブラハム一行がある程度財産を得ると、それは家族間で共有されるので、サラもわずかながら「所有する者」となる。こうした「所有」と「喪失」のパターンが繰り返される。

創12:10-13:2:エジプトで起こったこの事件はサラのキャラクターづけに重要な意味を持っている。サラはここで「見た目が美しい」とされている。つまり彼女は美しく人目を惹くわけだが、これは単にいい意味だけではなく、「モノ化(objectification)」され、高価な品のように扱われてしまうという悪い意味も持つ。実際エジプトでの出来事においてもサラは貿易の品のようにやり取りされるのみで何一つ自分で決めることがない。神からの助けも、サラがアブラハムの妻だから差し出されたものだった。それどころか神は、サラを売り飛ばした張本人であるアブラハムのもとに彼女を返している。つまりここでサラは明らかに人身売買の被害者である。彼女には価値があるが、それは家畜や奴隷のような意味での価値である。しかし、一連のエジプトでの事件の結果、アブラハム一家は巨額の富を築くことに成功した。こうしてサラもアブラハムの親族としてある程度の力を手に入れたのである。

創13:2-15:21:この部分ではサラは登場しない。しかしこの間のエピソードにおける人間関係から、サラのキャラクターについても学ぶことができる。たとえばサラは甥のロトを失っている。二人は何年も共に旅し、共にアブラハム以外の家族関係がないという共通点を持っていたが、ロトがいなくなったことでサラが大きな失意を味わったことは想像に難くない。エジプトでのトラウマとロトの喪失はサラの人間性を硬化させ、所有物への執着心を強めたのだった。また神がアブラハムの子孫を「星の数ほど」増やすと約束したことに対しアブラハムが実現可能か懸念を表明していることは、サラもまた同様の心配をしていたことを示唆している。

創16:1-16:サラのキャラクターは、アブラハム、ハガル、そして神との関係の中で理解される。対アブラハム:16:2でサラは初めてセリフを言うが(「見てください、ヤハウェは私に子を授けません。わが使え女のところに入ってください。きっと彼女によって私は立てられましょう」)、これは12:11-13のエジプトでのアブラハムの最初のセリフ(「見なさい、あなたが姿の美しい女性と私は知っている。……私の妹だ、と言ってくれ。私が厚遇されるように」)と同じ文章構造になっている。ヒネ・ナという同じ言葉から始まる両セリフからは、サラがアブラハムから甘言の弄し方を学んだことが分かる。アブラハムが自分に下謀略や虐待を学び、彼のようになったのである。サラはアブラハムに呪いの言葉すらかけている(16:5)。対ハガル:サラは子供を持っていないが、ハガルという奴隷を得た。サラは女主人としてハガルの性能力と生殖能力をいかようにもできたのでアブラハムに与えた。つまりサラはエジプトでアブラハムにされたのと同じような仕打ちをハガルにしたのである。また自分の見た目について自覚的なサラは、ハガルが自分を軽視するという「酷な仕打ち」(16:5)ゆえに、身重の彼女を「苦しめた」(16:6)という。「酷な仕打ち(ハマス)」をしたのはハガルというよりサラである。また「苦しめる(アナー)」は相当残忍な行為(女性が目的語になる場合しばしば性的含意を有する)を指す。対神:さらに神的存在がこうした残虐さを是認し、ひどいことをした張本人のもとに被害者を返しているのもエジプトの時と同様である。以上のことから、この16章には12章のエジプトでの出来事との類似と反響があり、結果として、エジプトで人間扱いされなかったサラがここでハガルを人間扱いしないことにより、虐待された者が今度は虐待する者になってしまった。

創17:1-27:この間にサラは登場しない。ただアブラムはアブラハムに、サライはサラに名前が変わっている。この名前の変化を契機に、サライの不妊はサラの多産へと切り替わる。ただしこれはアブラハムだけに与えられた啓示なので、サラ自身はその変化を知らない。

創18:1-15:この個所ではサラが実際にテントの中にいるさまが描かれている点が他と異なっている。アブラハムはサラにパンを焼くように言いつけるが、アブラハムを呪いハガルを虐待したサラが唯々諾々と従ったとは思えない。神の使者たちがサラの出産を予言すると、サラはそれを鼻で笑った。「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか」(18:12)という部分は閉経、すなわち不妊を指すが、それだけでなく、アブラハムとの性的関係への悦びを失ったことをも指している。つまり「鼻で笑った」のは「性的に不能であるアブラハムに失望している自分が彼と子供を作ることなどあり得ない」という意味であったわけだが、神はそれをサラが「老いた自分に子供産ませるのは神でも不可能だ」と考えたのだと誤解した。そこで唯一この個所でのみサラに直接神が語りかけている。17章ではアブラハムも神に対して疑義を呈していたが、神はアブラハムよりもサラに対してより強く怒っている。16章におけるサラは不妊だが性的な積極性を持ち、奴隷を虐待する女主人だったが、18章では閉経し、性行為をやめてしまっている。子供への関心があるかどうかも曖昧である。対アブラハム:18章においてはアブラハムとの力関係は微妙に変わっており、サラは彼の言いつけを無視し、その性的不能を笑っている。対神:神との関係はより個人的なものとなっている。ハガルの事件において神はサラを肯定することで彼女のキャラクターを硬化させたが、ここではサラの笑いを誤って解釈し、あまつさえ脅すような物言いをすることで、やはり彼女を硬化させている。

創18:16-19:38:サラは登場しない。

創20:1-18:ゲラル寄留は12章のエジプト寄留と密接な並行関係にある。サラ自身についても、いずれの個所でもセリフはなく、外国の支配者に「取られ」ているとおり、男性の所有物であり、最終的に大きな報酬を受けている。しかしながら、12章と20章は一見似ていても、その間にサラが大きく変容している。まず20章にはアブラハムによるサラの説得の会話がない。12章の行いはアブラハムをポン引きとする売春行為であったが、20章のそれは美人局に近い。そうした意味ではサラは単なる売春の商品ではなく、詐欺行為に加担している。それはサラ自身がアビメレクに対して「彼は私の兄です」(20:5)と述べていることからも分かる。12章のエジプトでのサラはアブラハムによる性的人身売買の犠牲者であり、人間扱いされないことに慣れ、神の共謀を受けて自分を虐待する者に加わった。しかし、20章のサラは自分の虐待と喪失をより力のない性的代替者に向け、アブラハムを呪い、その性的不能を陰で笑い、奴隷とその腹の中の子を暴力に曝した。これだけの変化を経て、20章のサラ(older, harder Sarah)が12章でのサラと同じように声なき被害者であったはずがない。20:12においてアブラハムは、サラが実際に義理の妹である旨を説明しているが、これは明らかに一連の詐欺行為における策略の一部であろう。20章における本当の被害者はサラではなく、サラゆえに子供を産めなくなった王宮の女たちである(20:17-18)。サラはアブラハム同様、他の人たちの生命に対する配慮を欠いている。

創21:1-14:イサク誕生とハガルとイシュマエルの追放の物語からは、サラのキャラクターとしての硬化が残酷さを伴って固定されているのが分かる。サラの妊娠には神が関与しているが、イサクは神の血統というわけではなく、神の配慮のたまものである。サラはイサクの誕生によって柔和な人間になったわけではない。21:6には、「神は私に笑いをくれた。これを聞いた者たちは皆私と笑うでしょう」という肯定的な解釈のみならず、「神は私を笑い者にした。これを聞いた者たちは皆私を嘲笑うでしょう」という否定的な解釈も可能である。後者の場合、サラは子供の誕生という幸福の中でさえ他人の目を気にしていたことになる。イサクの乳離れの祝宴において、サラはイシュマエルが「戯れる」のを見たが、これは単に「戯れ」ているとも取れるし、誰かを「笑い者にする」とも取れる。後者だとすると、他人に笑われることを最も気にするサラを刺激したことだろう。酒宴の酔いも手伝い、サラはかつてないほど無慈悲な行動、すなわちハガルとイシュマエルをアブラハムに追放させることを決めた。アブラハムは躊躇したが、神がサラを後押ししたのだった。興味深いことに、これ以降サラも物語から消えてしまう。こうした無慈悲で残酷で弱さに基づく行為について、著者は怒りよりも哀れみを感じたと述べている。

創23:1-20:サラは127歳で死んだという。サラが死んだのはキルヤット・アルバであり、アブラハムはベエル・シェバで暮らしていたと書いてあるので、二人が一緒に暮らしていたかどうかは不明である。イサクの奉献の顛末も知らなかった可能性がある。サラは死してなお都合のいい道具として扱われている。というのも、アブラハムはサラを埋葬することを口実にマムレの近くの土地をヘト人から購入することに成功したからである。つまりサラの死体はカナンの地の獲得という最終目標の第一歩のために、あたかも道具のように用いられたのだった。

結論:対アブラハム:エジプトでアブラハムはサラを動物や奴隷のように売り買いの道具として用いた。このトラウマはサラ自身によるハガルの虐待を導いた。そのようにしてアブラハムそっくりになっていったサラはゲラルにおいて詐欺行為に加担する。このようにアブラハムはサラが使えるうちに使いつくし、最後には遺体までをも自分の利益のために利用した。対神:神はサラを自分の目的のために使っている。エジプトにおいてサラを救ったのはサラ自身のためではなく、サラをアブラハムのもとに返すためだった。神はサラが虐待者へと変貌することも後押しした。サラは神にとって、約束を成就させるための道具として重要だったのである。神は自分の目的を達成するためにサラの人間性を引き下げることすら厭わなかった。対ハガル:サラとハガルの関係は、アブラハムとサラの関係に似ている。サラはハガルの肉体を自分の目的のために用い、彼女を暴力的に虐待した。そして最終的にはハガルとイシュマエルの放逐に一役買った。こうした一連のひどい行為はアブラハムと神によって是認されていた。

以上のようにサラの周りには獲得と喪失、所有と欠如といったお題目が付いて回った。著者はそんなサラに共感や哀れみを抱いている。サラは搾取と残酷さという気の毒なサイクルの中で、ときに犠牲者に、ときに加害者になった。サラが次第に残酷さを受け入れていくのは、その方が神の計画を実行するために都合がよかったからである。ただしわずかな救いとして、著者はイサクの人間的に高潔な態度にサラとイサクとが意義深い関係性を築くことができたことが伺われると考えている。

2021年5月26日水曜日

第二神殿時代のサラ #1

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 1-31.

聖書研究において、たとえばアブラハムの研究が無数にあるのに対し、女性の登場人物への関心は必ずしも高かったとはいえない。そこで著者は、サラを主題に、ヘブライ語聖書、七十人訳、『創世記アポクリュフォン』、ヨセフス『古代誌』を物語批評の方法論で読んでいる。その結果、サラの「深い特性(deep traits)」はアブラハムのキャラクターへの度重なる類似性だといえるという。と同時にそれだけに留まらず、複雑でときに相反するキャラクターでもある。

この研究で著者は3つの目標を掲げている。第一に、比較的無視されてきた女性の登場人物を認知し、再発見することへの貢献、第二に、理論的で登場人物主導の物語批評的アプローチを取ること、そして第三に、第二神殿時代の文学の幅広く代表的なサラ理解を提供するのみならず、いわゆる再話聖書への有益なアプローチ方法を示すことである。そこで、これまでの多くの研究が「比較(comparative)」アプローチを取ってきたのに対し、本研究は「対照(contrastive)」アプローチを取る。このアプローチにおいてはテクストを機械的に並置することがあるが、そのときに要素の相互作用を見落とさないように気を付ける必要がある。また基準テクストとそこからの派生テクストという構図を取ることで、後者を十全に読み込まないという事態にも注意しなければならない。

第二神殿時代のサラの物語は、『ヨベル書』とフィロンの著作にも出てくるが、前者はサラへの無関心ゆえに、後者は過度の抽象化ゆえに、本書では扱わない。

マソラー本文のサラ研究は、エピソード的、テーマ・類型論的、そして概論的なものに大別される。マソラ―本文のサラに関する研究は、古代近東の文脈からサラを解釈するSavina TeubalとTammi Schneiderをはじめ数多い。七十人訳、『創アポ』、『古代誌』、第二神殿時代文学のサラ研究はそれほど多くない。これら先行研究に対し、著者は、こうした諸文学においてサラがどんな登場人物なのか、そしてそうした人物像はどのようにして作られたのか、という理解から議論を始めようとする。

「キャラクター」とは何か。キャラクターは架空の存在でありながら、時に現実の人間よりも生き生きとした実体を持つ。この二極について、Marvin Mudrickは、架空の性質をpurist、現実感のある性質をrealisticと呼んだ。著者は後者をrealisticだけでなくmimeticと呼んでいる。つまり、自分が知っている人間との人間的な類比として、文学上の登場人物の作られた現実感に注目するのである。こうしたアプローチはWilliam Harvey, Seymour Chatman, Baruch Hochmanらに見られる。架空のキャラクターと生身の人間は同じではないが、キャラクターを知るために使う方法論や道具は生身の人間との経験の中から作られるのである。

Chatmanはstoryとdiscourseを区別する。storyは出来事や行為や人物が「何」なのかを語る。一方でdiscourseは内容が伝えられる表現や手段が「どのように」なされるかを語る。これらは互いに関係しあっている。なぜなら、discourseを通じてstoryへのアクセスが得られるからである。またstoryは、劇、映画、小説と異なったメディアにおいても同じものとして伝えられるという転移能力(transposability)を持っている。これはstoryの構成要素であるキャラクターの持っている力でもある。

さらにChatmanはキャラクターとプロットを区別する。アリストテレスは悲劇においてキャラクターをプロットの下位に置いた。構造主義者はさらに進んで、キャラクターとは純粋に機能的なものであり、物語のアクションのために使えるものだと考えた。Chatmanは「特性のパラダイム」としてのキャラクターという考えを打ち出している。Chatmanによると、キャラクターの「特性」とは形容詞で表せる類のもので、キャラクターのある程度持続的な側面を描写する。またキャラクターはプロットを含む時系列に縛られない。

著者のキャラクターへの関心は、他の人々への人間的な関心という側面を持っている。それゆえに、キャラクターを知るために、著者は実在の人物との具体的な類似に注目する。すなわち、実在の人物に対してするように、矛盾した行動や発話を説明し、精神的・感情的な行動の動機を探ろうとするのである。すなわち著者のmimeticなアプローチは、puristアプローチがそうであるように、表現されたテクストであるdiscourseと格闘しなければならない。

読者の役割:我々がそうしたdiscourseを読むとき、それが作り出された言語や世界についてできる限り学ぶことは確かに重要である。しかし、結局のところ我々がそこから引き出すことができるのは、キャラクターやその行為の動機についての我々自身の理解にすぎない。つまり、そうしたテクストやキャラクターの「他者性」を認識しつつも、自分自身の知識と経験についてそのイメージを構築するほかないのである。

実際Wolfgang Iserによれば、意味がテクストの背後に隠れているという近代的感覚は正しくなく、むしろ意味は読むという行為の中で生み出されるものだという。つまり、文学テクストは、実在物の世界と読者自身の経験世界の間にある特異な中道に存在するわけである。そして読むという行為は振り子のように振れるテクスト構造にピンを刺そうとするプロセスなのである。それゆえにテクストには常に間隙や空白を残すような「不確定性(indeterminary)」が不可避的に付きまとう。そうした間隙を埋めることはdiscourseには無理で、ただ読者のみがそれをできる。逆に言えば、不確定性は読者の参加に対する前提条件、すなわちテクストと読者を橋渡しするものでもある。ただし、テクストの意味が読者の読むという行為に委ねられているのだとすると、その意味は読者の出来栄えにかかってくることになる。サラのようなキャラクターもまた、discourse構造と読者の意識の結節点において構築される。

しかしながら、サラが出てくる聖書の物語は、我々とはかなり異なる文化の人々により、そうした人々のために書かれたものである。こうした状況に対し、聖書学者は第一に、「非歴史的(ahistorical)」なアプローチを取った。すなわち構造主義的に「テクストそのもの(text-in-itself)」を強調した。それは結局のところ現在の「私にとってのテクスト(text-to-me)」を意味した。第二の立場は、そうした非歴史的立場への反動による「歴史的・文脈的(historical-contextual)」なアプローチである。この立場で問題とされているのは、テクストの成立した時代の聴衆や読者である。

確かにこの「非歴史」と「歴史・文脈」の2つの立場があるが、これらはきれいに切り離せるものではない。著者はその中間を行こうとする。すなわち、キャラクターにきっかけとして動く物語批評が、サラにまつわる古代の受容や再話に出会うところである。いわば、著者の関心は文学的なものだが、それをするために基礎的な歴史や影響についても考慮するということである。

また著者は、サラ物語の受容を扱うに際し、「菌糸状(rhizomorphous)」モデル(C.V. Stichele < G. Deleuze and F. Guattari)を採用する。すなわち中心となる幹から枝が伸びていくような「樹木状(arborescent)」モデルではなく、菌糸状モデルには中心もヒエラルキーもなく、確固とした始まりも終わりもない。受容の歴史とは動的に開かれたものであり、いくつもの始まりや終わりがあるはずである。それゆえに、受容史の中で取り上げられるテクストはそれ自体の統合性および生成能力を持っているのだから、他の特権的なテクストとの比較のためだけにあるのではない。

また古代の受容史を語るに際しても、「受容(reception)」というきわめて受動的な概念ではなく、むしろもっと能動的に干渉する(active intervention)ような「再話(retelling)」などという表現の方が適切であろう。何となれば、あるテクストを「読む」ことはとりもなおさずそれらを「書き換える(rewrite)」することといっていい。

以上のことから、著者はテクストの原語や表現を重視し、また歴史的文脈に目を配りながらも、遠く時空を隔てたテクストの理解の困難さ(すなわち「他者性(otherness)」)を自覚するので、歴史上の著者や読者には必ずしも関係のない著者自身の社会的位置や個人的関心に基づき、現在生きている人間を理解するようやり方でサラを理解しようとする。すなわち、男性、四十代、ローマ・カトリック、北部ヨーロッパ人の子孫、北アメリカ生まれ、文化横断的な経験のある、古い言語と物語を愛する、異性愛者、健常者、既婚の父親としての著者から見たサラを描く。

著者はサラの人物描写(characterization)を判断するに当たり、Chatmanによる「特性の枠組み(paradigm of traits)」という概念を用いる。キャラクターの特性とは、ある程度持続的な個々人の性質を指すが、物語の進展に伴ってそれは互いに衝突したり、浮き沈みを経たり、変容したり、消えてしまったりする(優しかった人物が残忍になるなど)。こうしたキャラクターの特性を読者が理解するのは、現実世界の人間との交わりの経験に基づく。Shlomith Rimmon-KenanやHochmanはこうしたChatmanの見解を「静的にすぎる」とし、キャラクターの志向的次元の議論をも取り入れるべきと主張する。著者としては、キャラクターの特性の衝突や成長を受け入れつつ、ある程度の構造や一貫性を要求している。

こうした人物描写の判断基準として、Robert Alterは計量スケールを提案した。すなわち、行為、容姿、他の人物のコメント、セリフ、思考、地の文の説明の順で、その人物の特徴づけの明示性や確証性が表現されるというものである。Alterによれば、行為や容姿は読者に推論させるだけであり、コメントやセリフはそうした主張を判断させ、思考や内面的なセリフは比較的確かであり、そして語り手の説明が最も信頼できるという。このスケールは影響力が大きかったが、むろんその曖昧さに対する反対意見も多い。とりわけAlice Bachは、物語の語り手はある意味ではキャラクターの一人であり、その中立性を安心して信じるわけにはいかないと主張する。そして本研究のように女性の姿を明らかにするためには、語り手が語ること以外にも目を向けなければならない。それゆえに、われわれ読者は語り手も含めて、語られていることの軽重を判断しなければならないのである。

Rimmon-Kenanはキャラクターの「直接的定義(direct definition)」と「間接的定義(indirect definition)」を区別する。前者は形容詞や名詞で語られるものであり、後者は体格、社会的位置、倫理的嗜好、感情などのことである。この2つの定義の区別はやや曖昧で、その線引きについて意見が一致しないことがある。直接的定義の方が間接的定義によりも上に来ることもあるが、それは永続するものではない(直接的定義でダビデは「若い」が、いずれ年を取る)。

とにかくキャラクターの構築や読みの自由度は直接的カテゴリーと間接的カテゴリーの間で異なっており、またカテゴリーの内部でも異なっている。つまり人生と同じように、文学的な状況を評価する機械的な方法はない。経験に照らして語られていることの軽重を量ることによって判断されるのみである。

そこで著者はHarveyにならいつつ、「関係性(relationality)」に注目する。すなわちキャラクターと別のキャラクターとのつながりの中で、関係性が人物描写に影響するという理解である。キャラクターは個人で直線的に存在するのではなく、人間というクロスロードの上にいるのである。それゆえに、誰かとの衝突、ジェンダーなどに注目する必要がある。当然ながら物語の語り手もまた、関係性の中にあると考えるべきである。発話が行為とぶつかることも、初期の行為があとの行為とぶつかることもある。そしてそうした結果に至るまでの「プロセス」という「直線性の概念(concept of linearity)」も忘れてはならない。

以上より、サラのようなキャラクターの構築は、特性(traits)という有機的な付着物によって影響されるが、それはdiscourseによってきっかけを与えられ、読者の精神において判断され、集められ、分離され、また集められる。読むというプロセスは、勘を使って仮説を立てていく連続的なプロセスであり、また初期の証言や現在の証拠を統合し、キャラクターの過去と未来を検証するプロセスでもある。

2020年12月13日日曜日

書斎の中のオリゲネス Wright, "Origen in the Scholar's Den"

  • John Wright, "Origen in the Scholar's Den: A Rationale for the Hexapla," in Origen of Alexandria: His World and his Legacy, ed. Charles Kannengiesser and William L. Petersen (Notre Dame, Ind.: University of Notre Dame Press, 1988), 48-62.

オリゲネスが『ヘクサプラ』を作成したのはなぜか。この問いに対し、多くの研究者がさまざまな答えを提案してきた。H. Orlinskyは『ヘクサプラ』をヘブライ語への手引きとするため、P. Nautin(およびH. SweteやS. Jellicoeら)は七十人訳テクスト(マソラー伝統へと改訂された「純粋な」七十人訳)を回復するため、S.P. Brockは護教的理由のため、D. Barthelemyはデータの十全な収集のためと説明した。これらに対し論文著者は、聖書解釈的な著作のために容易に比較可能なテクストのコンピレーションを作るためと主張する。そしてこのことを、『ヘクサプラ』の構造と形式、オリゲネス自身の証言、そして『エレミヤ書説教』におけるベーステクストから明らかにしている。

構造と形式については、P. NautinとI. Soisalon-Soininenの研究が大きな貢献をなしている。Nautinによれば、『ヘクサプラ』にヘブライ語欄はなく、全体としては7欄構成(ヘブライ語テクストのギリシア文字転写、アクィラ訳、シュンマコス訳、校訂記号つき七十人訳、テオドティオン訳、クインタ、セクスタ)だったという。各欄は「コロン」(ヘブライ語単語に対応した意味の小さなユニット)で配置されていた。Soisalon-Soininenは校訂記号について特に注目し、Fieldが批判的に再構成した『ヘクサプラ』上の七十人訳欄は、これらの記号を極めて機械的に用いていることを見出した。つまり、ヘブライ語テクストと七十人訳を一対一対応で比較しようとしていたのである。

こうした分析から以下のことが分かる。第一に、コロンによる文章の分け方は『ヘクサプラ』を大部にしたので、スクロールではなくコーデックス形式を必要とした。そしてそれゆえに、『ヘクサプラ』は公の場での論争において手軽に参照されたのではなく、書斎でじっくりと説教や注解に取り組むときに用いられたはずである。第二に、『ヘクサプラ』の論拠は七十人訳の欄を純粋なマソラー本文に合わせて回復させることではない。なぜなら、この目的のためには諸訳を参照する必要はなかったはずである。また七十人訳の言い回しがヘブライ語テクストと異なるところでもオリゲネスは七十人訳を修正していない。むしろ、『ヘクサプラ』の構造と形式から分かるその論拠は、細部を容易に比較できるようなテクストのコンピレーションを作ることだったといえる。

オリゲネス自身の証言は、『マタイ福音書注解』と『アフリカヌスへの手紙』から引き出すことができる。前者では、校訂記号に編集上の重要性を付与し、七十人訳よりもヘブライ語テクストの権威を強調している。とはいえ、ヘブライ語テクストに対応しない七十人訳テクストも削除するのではなく、オベロス記号をつけて維持している。また『マタイ福音書注解』における説明は、特定の箇所の注解という文脈の中で解釈されるべきなので、安易に一般化すべきではない。

一方で『アフリカヌスへの手紙』からは対ユダヤ人の護教的意図が引き出される。ここでオリゲネスは『ヘクサプラ』の論拠を語ろうとしているのではなく、七十人訳をユダヤ人の攻撃から守ろうとしている。しかし、テクストの比較を目的とした護教の道具としての『ヘクサプラ』は、七十人訳を批判者から守るというオリゲネスの目的にも適っていた。こうした護教的意図をそのまま『ヘクサプラ』の論拠に転用するべきではない。論拠はもっと広いものだったはずである。

『アフリカヌスへの手紙』から引き出されるオリゲネスの『ヘクサプラ』作成論拠は、テクスト間の差異を発見するための比較を行うためであった。そうした比較から分かったことは、護教的意図も含めて幅広い目的に用いることができる。つまり、『ヘクサプラ』の基本的な目的は、旧約聖書のすべての入手可能な版の全般的な理解だったといえる。

オリゲネス『エレミヤ書説教』におけるエレミヤ書の扱いもまた、彼の『ヘクサプラ』作成の論拠を間接的に教えてくれる。P. Nautinによれば、エレ20:2-6についての説教において、オリゲネスの聖書は七十人訳ではなく、『ヘクサプラ』作成の際に他の諸訳のもとで改訂したテクストだったという。ただし、論文著者によればこの結果は常に一定ではない。むしろ、基本的にカイサリアの教会で流布していた七十人訳に従いつつも、マソラー本文への同化のしるしを示し、なおかつときに孤立した特異性をも含んでいるといえる。

オリゲネスは七十人訳とマソラー本文の相違を意識していた。そしてそうした違いを2つの異なった方法で扱った。第一に、異読を評価して、よりよい読みを確立しようとした。第二に、異読を両方保存し、それぞれに対する釈義を残した。とりわけ第二の方法からは、オリゲネスが七十人訳を純化させようとしていたわけではないことが分かる。むしろ釈義の利祖ソースの幅広い範囲のためのデータを残そうとしていたのである。

結論としては、オリゲネスの『ヘクサプラ』作成の論拠は、さまざまな版の理解を深め、幅広い釈義上のリソースを提供してくれる、比較分析のための聖書テクストのコンピレーションを得ることだった。ここから、オリゲネスは聖書テクストの歴史において過渡期の人物だったといえる。ヒエロニュムスのヘブライ的真理への完全な関心をオリゲネスに読み込むことはアナクロニズムである。というのも、一方で、オリゲネスはテクストに複数の可能性があるのであれば両方を保存しようとする古代の写字生の伝統の中にあったので、ヒエロニュムスのような厳格な標準化は目指さなかった。他方で、校訂記号を導入することで聖書テクストの完全な標準化への重要な第一歩を踏み出した。つまり、オリゲネスはヒエロニュムスの先行者として、ヘブライ語からラテン語への旧約聖書翻訳プロジェクトのための道を整えたのである。