2017年10月2日月曜日

クムラン共同体の宗教思想 Vermes, "The Religious Ideas of the Community"

  • Geza Vermes, The Complete Dead Sea Scrolls in English (Fiftieth anniversary edition; London: Penguin Books, 2011), pp. 67-90.
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Geza Vermes

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ユダヤ教の信仰や習慣というのは、クムランも含めてシステマティックなものではないので、キリスト教的なドグマをモデルにすると歪んでしまう。それでもユダヤ教において重要なキータームとしては「契約」を挙げることができる。聖書物語というのは、神との契約への継続的な不信仰の物語といえる。イザヤ書やエレミヤ書では、何度悔い改めても契約が守られないので、新しい契約という考え方が示されている。クムランにおいてもこの考え方が踏襲されている。すなわち、改宗の報いとして、義の教師が新しい契約を定めるために送られてきたのであり、義の教師を迎えた共同体のみが新しいイスラエルとなるのである。

第二神殿時代のユダヤ教はさまざまな党派に分かれていたが、律法の遵守を重要視するという点では一致している。というよりも、それぞれの党派は自らの考え方を律法に基づいて正当化しようとする。クムラン共同体に独特な律法解釈としては結婚に関する考え方がある。レビ記18:13において叔母と甥の結婚が禁止されているが、では叔父と姪はどうなのかというと、パリサイ派やラビ・ユダヤ教はこれを許す。なぜなら聖書はこの組み合わせについては沈黙しているからである。しかしながら、クムラン共同体は男性に適用される法は女性にも適用されると考えるために、叔父と姪の結婚は許されない(CD 5.8-11、11QT 66.16-17)。クムラン共同体は律法のみならず預言書もまた重要視している。これは、彼らが終末論的世界観の中で、共同体の賢者のみが預言書を正しく解釈できると信じていたからである。義の教師は、預言者自身も分かっていない預言の内容を正しく解き明かす。

選民思想についても、クムラン共同体は独特の考え方を持っていた。ユダヤ教においては基本的にすべてのユダヤ人が選ばれているとされるが、後代になると善人は選ばれるが悪人は選ばれないと考えるようになった(『パレスチナ・タルムード』「キドゥシン」61c)。これに対しクムランでは、第一の特徴として、個人の選びがある。すなわち、ユダヤ人であれば自動的に選民となるのではなく、大人になる過程で契約に入るプロセスを経て初めて選ばれるのである。第二の特徴は予定説である。すなわち、選ばれるかどうかは最初から決まっているのである。そして第三の特徴としては、善人と悪人との区別がある。

クムラン共同体における祭儀は、独特の暦に基づいている。ユダヤ教の多くの党派では一年を354日とする太陰暦が用いられ、アダル月のあとに閏月を入れていたが、クムランでは一年を364日とする太陽暦が用いられていた。太陽暦を用いることで、必ず同じ曜日に同じ祭りが開催されることになるのである。クムラン共同体が特別な暦を採用したことで、彼らは他の集団とは別の時期に祭りを祝うことになる。これはあえてそうすることで自分たちのアイデンティティを確立することができる。

クムラン共同体は、儀礼的な沐浴、神殿祭儀、そして共食についてしばしば言及する。沐浴は清浄規定と関わる。彼らは、体の外側だけではなく内側もまた清浄な者のみが沐浴をすることを許した(1QS 5.13-14)。神殿祭儀については、むろんエルサレムの神殿ではなく、クムラン共同体という新しい神殿での祭儀が真正だと考えられた。共同体を神殿と同一視する考え方がしばしば見られる(1QpHab 12.3-4)。一般的に、性行為をした者は神殿祭儀に参加することを禁じられたが、共同体でもこの決まりは守られた。共食について、最後の食事は終末のプロトタイプだと考えられた。

クムラン共同体は、特異なメシアニズムを持っていた。ユダヤ教一般と同様に、一人のメシアを語ることもあるが、一方で二人のメシア、そして時には三人のメシアについても語っている。第一のメシアは「王としてのメシア」であり、「ダビデの若枝」、「イスラエルのメシア」、「全会衆の王子」、そして「王笏」などとも呼ばれる。第二のメシアは「祭司としてのメシア」であり、「アロンのメシア」、「祭司」、「律法の解釈者」などと呼ばれる。この祭司としてのメシアは、栄光の前に恥辱を味わうというイメージがある。そして第三のメシアが「預言者としてのメシア」である。クムラン共同体では、この預言者こそがすでに到来している義の教師であると考えた。

死後の世界についてもクムラン共同体は特異な解釈を持っている。聖書時代の死後の世界は、善人も悪人も行く「シェオル」という冥界が少し出てくるくらいだった。すなわち、神が人と関わるのは、人が生きているときだけだった。しかし捕囚後になると、アンティオコス・エピファネスの迫害などで殉教した者たちについて、自発的に神のために死んだ報いとして「復活」の考え方が出てきた。さらには「不死」の考え方も『知恵の書』などで言及されるようになった。ヨセフスによると、エッセネ派は、牢獄としての肉体から魂として永遠の生へと至るという、ヘレニズム的な「不死」の概念を持っていたが、「復活」には言及していない。これと同様に、クムランでも義人の報いとしての「不死」の概念は出てくるが、「復活」はほとんど出てこない(唯一の例外が4Q521)。

2017年9月21日木曜日

クムランの聖書学 クロス「ヘブライ語聖書テキストの背後にあるテキスト」

  • フランク・ムーア・クロス「ヘブライ語聖書テキストの背後にあるテキスト」、ハーシェル・シャンクス編『死海文書の研究』(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)、ミルトス、1997年、217-38頁。
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池田 裕

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死海文書の発見以前には、すべての中世のヘブライ語聖書写本は、紀元後の早期に定着した単一の校訂本が底本となっていると考えられていた。すなわち、中世のテクストは単一の原型、一つの写本に由来すると信じられていたのである。

しかしながら、クロスによれば、クムランで発見された聖書写本と、死海南部で発見された聖書写本(ナハル・ヘヴェル、ワディ・ムラバアト、マサダ)とを比較すると、大きな違いがあるという。クムラン写本は70年の第一次ユダヤ反乱以前に書かれ、南部写本は70年から第二次ユダヤ反乱の135年の間に書かれた。南部写本は現在に伝わるマソラー本文から際立った逸脱が見られないテクストであるのに対し、クムラン写本はマソラー本文につきものの標準化が見られないのである。たとえばクムランからは、2種類のエレミヤ書や詩篇が見つかっている。

クロスは、こうしたさまざまなテクストタイプは、筆写による伝達の中で、地域ごとに発達したものだと考える(=「ローカル・テクスト理論」)。そしてとりわけ五書やサムエル記に関しては、パレスチナ、エジプト、バビロニアの三つの土地ごとの発達が見られるという。パレスチナ・テクストはサマリア五書へと至るものである。エジプト・テクストは七十人訳やクムランの短いエレミヤ書へと至るものであり、古パレスチナ・テクストから枝分かれしたものである。そしてバビロニア・テクストはマソラー本文の基礎となっている。

このように、聖書写本には本来少なくとも三つのタイプがあるはずであるが、南部写本からはマソラー本文と極めて近いテクストタイプがただ一つあるのみである。それゆえに、第一次ユダヤ反乱以後、少なくとも第二次反乱までに、マソラー本文の原型が権威あるものとして確定していたと言うことができる。

マカベア王朝以後の派閥の乱立の中で、さまざまなローカル・テクストがユダヤへ流れ込み、テクストの乱れにつながった。その後の前2世紀以降の宗派間の宗教論争によって、固定された権威あるテクストの必要性が生じた。そしてついに第二次反乱までにラビ校訂版が発布されたわけだが、クロスによればそれは大賢者ヒレルの仕事であったという。バビロニアからパレスチナへやってきたヒレルは、バビロニア起源のテクストを基礎として校訂版を作成したものである。その際に彼は、他のローカル・テクストから異同を取り出して折衷的な合成テクストを作ることはしなかった。とはいえこれは五書に限った話で、預言書ではパレスチナ・テクストが採用された。それは、マソラー本文では長い版のエレミヤ書が採用されていることからも見て取れる。

聖書の正典化、すなわち確定された聖書のリストに関して、確認できる最古のものはヨセフス『アピオーンへの反論』に収められたものである。クロスは、このヨセフスの記述はヒレルと彼の学派の教義に由来すると考えた。これまでしばしば後1世紀の終わり頃にヤブネでラビたちの会議が開かれ、そこで正典が確定したと考えられてきたが、ヤブネでは実際にはコヘレト書や雅歌について論じられていただけだったと、近年では考えられている。クロスによれば、ヤブネでの話し合いなどより以前のヒレルの意見に沿って、ヨセフスは聖典を挙げたのである。

また、この正典の確定はテクストの確定と連動している。ヒレル派のライバルの祭儀や暦の教義、競合する法的見解や神学的教義、そして黙示思想やグノーシスの神話解釈に対して、ヒレル派の弁論を構築する上で、テクストと正典の確定は必要なプロセスだった。

クムラン共同体の歴史 Vermes, "The History of the Community"

  • Geza Vermes, The Complete Dead Sea Scrolls in English (Fiftieth anniversary edition; London: Penguin Books, 2011), pp. 49-66.
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死海文書には、厳密な意味での歴史テクストは見つかっていない。聖書においても歴史は預言の中で語られ、それはのちに終末論へとかたちを変えたが、クムランにおいては歴史は主として聖書解釈の中で語られている。これは、聖書の中に自分たちの共同体の過去から現在までの出来事を読み込むペシェルのような解釈法を用いていたからである。クムランの歴史は、こうした非歴史文書の他には、考古学的データと外部資料(ヨセフス、マカベア書、フィロン)などから再構成される。

歴史資料を欠く死海文書の中で、それでも比較的歴史的な情報を含んでいるものとしては、『ダマスコ文書』、『ハバクク書注解』、『詩篇注解』、『証言(4Q175)』、『ナホム書注解』(4Q448、4Q339、4Q468eと共に、実際の歴史上の人物の名前を含む)などがある。

『ダマスコ文書』によれば、ネブカドネザルによってユダ王国が攻略された前586年から「390年後」である「怒りの時代」、すなわち前196年に共同体が始まり、その後20年の手探りの時代を経て、前176年頃に「義の教師」が登場するという。Vermesはこうした数字は、ユダヤ人作家の常としてあまり信頼できるものではなく、ダニエル書で象徴的に描かれる490年などにかこつけたものであろうと述べる。

死海文書にたびたび現れる「キッティーム」は、もともとは「海辺から来た人々」を意味したが、『第一マカベア書』(1:1、8:5)ではギリシア人を、七十人訳ダニエル書(11:30)ではローマ人を指している。多くの場合、当時の支配者だが必ずしもユダヤ人の敵ではないグループを意味する。

『ダマスコ文書』で言及される「怒りの時代」は、アンティオコス4世とヤソンによる「ヘレニズム改革」(前175年頃)と同一視される。Vermesは、ここから「あざけりの人」、あるいはそれと同一人物と考えられる『ハバクク書注解』の「悪の祭司」を同定しようとする。悪の祭司はユダヤ人の指導者であり、祭司的な権力と世俗の権力を併せ持っていた。それゆえに、悪の祭司とはエルサレム神殿の大祭司の誰かだったと考えらえる。そしてアンティオコス4世の治世(前175年以降)からクムラン共同体設立(前150-前140年)までの間でこれに該当するのは、ヤソン、メネラオス、アルキモスら親ギリシア派と、マカベア兄弟のヨナタンとシモンである。Vermesは、この5人のうちで悪の祭司と思われるのはヨナタンとシモン、特にヨナタンであるという。

他にも、さまざまな同定が可能である。たとえば、「なめらかなものを求める者たち」あるいは「エフライム」を絞首刑にした「怒れる獅子」は、パリサイ派を多数殺したアレクサンドロス・ヤンナイオスであり、「マナセ」はサドカイ派、そして「ダマスコ」はクムランのことを指しているという。

2017年9月12日火曜日

クムラン共同体 Vermes, "The Community"

  • Geza Vermes, The Complete Dead Sea Scrolls in English (Fiftieth anniversary edition; London: Penguin Books, 2011), pp. 26-48.
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クムラン共同体の人々は自分たちは真のイスラエルを体現していると考えていた。『共同体の規則』において、この宗派は、「共同体」あるいは「共同体の評議会」として自らを規定している。彼らは食事や祈祷などを教導で行なっていた。彼らの祈祷はエルサレム神殿のそれとは別物として行なわれていた。

『共同体の規則』によれば、人々は瞑想を行なったようだが、これは当時のユダヤ教の伝統では珍しいことだった。また人々は二つの霊――正しい霊と偽りの霊――の知識に通暁することを期待された。『共同体の規則』に組み込まれた「二つの霊に関する指導」という神学書を読み、光の子と闇の子の区別を学ぶのだった。

共同体のリーダーシップを取ったのは大祭司の家系であるツァドク派の者たちである。この祭司たちは共同体でのどの集まりにも出席することが求められていた。この祭司のうち、マスキールと呼ばれる者が共同体を指導した。共同体の評議会は、12人の平信徒と3人の祭司から構成されていた。評議会では、律法、現在の商取引、新規加入者の受け入れや拒否、係争中の裁判などが議論された。

『共同体の規則』において、追放刑にされる行為は以下の5つである:第一に、一字一句でもモーセ律法に違反したとき、第二に、神聖な神の名を口にしたとき、第三に、評議会を抽象したとき、第四に、共同体の権威に対して謀反を企てたとき、そして第五に、評議会の委員となって10年経っても心が頑なであるとき、である。その他にも、2年以下の苦行によって許される違反、1年以下(6ヶ月、3ヶ月、30日、10日など)の懲役で許される違反などがある。

共食の食卓はクムランの日常生活にとって重要なものである。人々は食事の前に沐浴をしたようである。そして食卓が準備されると、祭司が祝福し、それから食事が始まる。彼らが飲んでいた「ワイン」は、発酵前のぶどうジュースであったかもしれない。

共同体に入会するためには、2年間、あるいはそれ以上の年月の試験を経なければならない。最初に共同体の守護者との面接がある。その後に誓いを立てると、共同体の規則について指導を受ける。最後に再び評議会で吟味され、受け入れられるか否かが決まる。そこで受け入れが決まっても、次の1年はまだ完全には受け入れられていない。厳格な清浄規定ゆえに、まだ食器などに触ることが許されないのである。それゆえに共食の食卓につくこともできない。その1年が終わると食器には触れるようになるが、より汚れやすいと考えられていた液体に触ることはまだ許されない。2年目が終わって、ようやく新規入会者は正式に受け入れられる。このとき、預けていた自分の財産もまた共同体のものとして納入される。

クムラン共同体が独身制だったのか結婚が許されていたのかは難しい問題である。『共同体の規則』から再構成される共同体は女性を忌避する男性的な社会であるが(「女性」という単語すら出てこない)、『ダマスコ文書』から見える共同体には結婚した者たちが含まれている。クムラン遺跡からは、実際に6人の女性と3人の子供の骨が見つかっている。『ダマスコ文書』には、他のユダヤ人や異邦人の近くで暮らす町の共同体が描かれているが、彼らは厳格な規則に従いつつも妻や子供を持っていた。ここではトーラー学習や2つの霊のことなどは出てこない。『共同体の規則』につながっている『会衆の規則』では、20歳になると結婚が許される旨が記されている。

『ダマスコ文書』にも、共同体の頭目としてのメバケルという役職の者が出てくる。彼は共同体への新規加入希望者を吟味する。それと同時に、共同体の内部の者たちが外部の者たちと親しく付き合わないように監視してもいた。

『ダマスコ文書』は死刑判決に関する記述も含んでいるが、他のユダヤ人やローマ人が勝手な死刑判決を容認していたとは考えにくいので、これは宗派の将来的な方針を示しているにすぎない。妻帯を前提とする『ダマスコ文書』は性交についても述べている。それによると、生理中あるいは妊娠中の女性との性交は、生殖を目的としていないので禁じられている。安息日にはいかなる理由でも1000キュビト以上歩いてはならないが、家畜を連れているなら町から2000キュビトまで離れてもよい。安息日違反は『共同体の規則』では追放刑だったが、『ダマスコ文書』では懲役7年であった。追放刑が課されるときは、共同体から呪いの言葉を向けられるセレモニーがあったようである。

『ダマスコ文書』からは、町の共同体と荒野の共同体とに違いがあることが分かる。町の共同体は家族で寄り集まっているが、紺屋の共同体は孤立している。前者は町の礼拝に参加するが、後者は決してしない。前者への新規加入者は皆外部から来るが、後者へはメンバーの子供なども加入する。前者は加入まで2年の月日と2つの霊に関する指導があるが、後者はそのようなものはない。ただし両者とも自らを真のイスラエルと考え、ツァドク派の祭司によって率いられ、また10人組・50人組・100人組・1,000人組のように組織化されている。他にもさまざまな共通点があるので、両者は同じ宗教運動の別ブランチであると考えられる。

2017年8月21日月曜日

死海文書入門 Vermes, "Introduction"

  • Geza Vermes, The Complete Dead Sea Scrolls in English (Fiftieth anniversary edition; London: Penguin Books, 2011), pp. 1-25.
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死海文書が発見されてすぐに、次の三つの点が一般的な合意となった。第一に、E.L. Sukenikが述べたように、クムラン共同体はエッセネ派だったこと。第二に、死海文書のほとんどは前2世紀から後1世紀に成立したこと。そして第三に、「義の教師」の敵としての「悪の祭司」はマカベア朝のヨナタンあるいはシモンであること、である。

死海文書の最初の主エディターであるR. De Vouxは、7人の若手から成る校訂版作成チームを作ったが、彼らが若すぎたことと、De Vouxの家父長的な権威主義ゆえに、期待ほどの成果を上げることができなかった。

第二の主エディターであるP. Benoitの時代の成果は貧しく、これを著者は「20世紀最大の学問的スキャンダル」と呼んでいる。組織の欠落や多忙のみならず、テクストをチームで独占する学問的帝国主義がこうした事態を招いたと言える。ハーバード大学のF.M. CrossとJ. Strugnellが写本を大学院生に割り当てて、その校訂を博士論文にさせたことも、作業の遅延を引き起こした。

第三の主エディターであるJ. Strugnellは33年間かけて一冊も出版することができなかった。また著者を含む周囲の者たちの序言を聞き入れようともしなかった。彼は結局、反ユダヤ主義的発言ゆえにエディター職を解雇された。

第四のエディターであるイマニュエル・トーヴは、チーム内のみでのテクストの独占という悪癖を抜け出せなかったが、Ben Zion WacholderとMartin Abeggによるコンピューターを用いたテクスト復元、そしてWilliam A. Moffettによる写真アーカイブの公開など、テクストの自由化を求める機運が高まった。以降は、こうした非公式での写本利用と同時に、公式の校訂版の出版が進められた。

死海文書のテクストは、エステル記以外の聖書文書、アポクリファ(アラム語およびヘブライ語のトビト記、ヘブライ語のシラ書など)、偽典(ヘブライ語ヨベル書、アラム語エノク書など)、セクト的文書(『ダマスコ文書』意外まったく新たに発見されたものばかり)などがある。

死海文書の年代の特定には、古文書学と放射性炭素測定とがある。両者共に、死海文書は一般に、前2世紀から後70年の間に成立したものだと見なしている。

洞窟で見つかった写本は、その近くにあった共同体の遺跡と関係していると一般に考えられている。またこの共同体はエッセネ派と同一視されている。このクムラン=エッセネ派説に反対する者たちは、古典テクスト(フィロン、ヨセフス、プリニウスら)の証言とクムランの実態とが微妙に食い違っている点を指摘するが、著者はやはりエッセネ派説が最も正しいと考えている。

死海文書の重要性としては、ヘブライ語およびアラム語で書かれた現存するユダヤ文献として最古のものだという点が挙げられる。アポクリファや偽典に関しては、これまでギリシア語訳のみで知られてきた文書のヘブライ語やアラム語テクストを保存している点が重要である。セクト的文書に関しては、『ダマスコ文書』以外すべての文書が新しく知られることになったものである点が重要である。

クムランでは冊子型の書物ではなく、いつも巻物型の書物が読まれていた。一点一画もゆるがせにしないマソラー本文の伝統と異なり、クムランにおける文書には流動性が見られる。文書の中では、五書、預言書、そして諸書の中で詩篇が多く引用されている。

新約学者たちはしばしば死海文書に出てくる義の教師や悪の祭司を新約聖書の登場人物と同一視した。しかしながら、著者に言わせれば、こうした議論はどれも信頼性が低いという。ただし、新約聖書と死海文書とを比較して、少なくとも次のことが言える:第一に、言語上の根本的な類似、第二に、イデオロギーの類似、第三に、ヘブライ語聖書への姿勢の類似、第四に、修道制や宗教的な晩餐、そして第五に、カリスマ的・終末論的側面などである。

2017年4月4日火曜日

トセフタについて Strack and Stemberger, "The Tosefta"

  • H.L. Strack and Günter Stemberger, Introduction to the Talmud and Midrash (2nd ed.; Minneapolis: Fortress Press, 1996), pp. 149-63.
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「トセフタ」とは「付加・補足」を意味し、具体的には『ミシュナー』を補足する付加的な法的教えのことを指している。『トセフタ』は『ミシュナー』と構造を共にしている。ただし「アボット」、「タミッド」、「ミドット」、そして「キニーム」のみ『トセフタ』には含まれていない。『トセフタ』は『ミシュナー』より訳4倍ほど長くなっており、ミシュナー・ヘブライ語で書かれているが、アラム語やギリシア・ラテン語からの借用語も多く含む。

『トセフタ』の起源は、『バビロニア・タルムード』「サンヘドリン」86aによると、ラビ・ネヘミヤの作だとされている。ガオン・シェリラは、ラビ・ヒヤ・バル・アバ(とのその友人)が実際の著者だと説明している。ラシやマイモニデスも同様の見解を取る。多くの中世の学者たちは、「サンヘドリン」の指摘を無視し、ラビ・ヒヤおよびラビ・ホシャヤが『トセフタ』の著者だと主張する。Z. Frankelもこの伝統的な見解を受け入れているが、Ch. Albeckはこの二人のラビに帰されるのはわずかな部分に過ぎないと反論した。A. Goldbergは両者を架橋するために、『トセフタ』とは、ラビ・ネヘミヤがラビ・アキバおよびラビ・メイールの見解を補足したものを、ラビ・ヒヤが『ミシュナー』に依拠しつつ改訂・編集したものだと主張した。すなわち、『トセフタ』を『ミシュナー』への付加、あるいはそれへの注解と見なすわけである。

『トセフタ』と『ミシュナー』との関係は、幅広い議論を呼んでいる。研究史の中で、『トセフタ』は常に『ミシュナー』の補足と見なされていたので、それ自体を独立した者として取り上げた研究は少ない。両者には共観関係があるので、新約聖書の共観福音書の研究からも影響を受けている。両者の関係で言えることは、以下の7点である:
  1. 『トセフタ』は『ミシュナー』と一致しており、異なるとしてもわずかである。
  2. 『トセフタ』は『ミシュナー』では誰のものか分からない意見に名前を与えている。
  3. 『トセフタ』は『ミシュナー』の注解として機能する。
  4. 『トセフタ』は『ミシュナー』と共通の素材には直接言及しないが、そこから素材を付け加えている。
  5. 『トセフタ』は『ミシュナー』と法的議論や伝承者の名前で食い違っている。
  6. 『トセフタ』は『ミシュナー』の編成と大体同じだが、異なることもある。S. Friedmanによると、『トセフタ』は『ミシュナー』より原型に近い、原始的な編成を持っている。
  7. 『トセフタ』のスタイルは『ミシュナー』ほど洗練されていない。J. Neusnerによると、『トセフタ』は『ミシュナー』のように記憶しやすくは書かれていない。
M.S. Zuckermandelは、『トセフタ』とは『パレスチナ・タルムード』の基礎となった『ミシュナー』のことを指している一方で、現存する『ミシュナー』とは『バビロニア・タルムード』の基礎となった『ミシュナー』であると主張した。実際に、『パレスチナ・タルムード』はしばしば『トセフタ』と一致するが『ミシュナー』とは一致しない。彼は、逆に『パレスチナ・タルムード』が『トセフタ』と一致せず『ミシュナー』と一致するところは、テクスト上の汚染や改変があったと考えた。彼はこうした見解を基に『トセフタ』の校訂版を作成したわけだが、現在では受け入れられていない。

J.H. Duennerは、『トセフタ』とは、タルムード完成後に作成された、タルムード的バライタやタナイーム期の資料のことだと主張した。彼の見解は、Ch. AlbeckやI.H. Weissらによって受け入れられた。

A. Spanierは、A. Schwarzらの研究を受けて、『トセフタ』とは『ミシュナー』に関する特別なスコリアだと主張した。『トセフタ』の編集者は、『ミシュナー』から『トセフタ』を切り離すために、多くの箇所を付け加えたり取り去ったりした。そうすることで、新しい作品である『トセフタ』に統一感を与えようとしたのである。このようなスコリアはラビ・アキバの時代にはすでに存在し、ラビたちはそれらを『ミシュナー』に組み込んだのだった。

A. Guttmanは、『トセフタ』とは、それが『ミシュナー』を補足したり説明したり矛盾したりすることにかかわらず、『ミシュナー』に含まれていないタナイーム期の関連素材を集めた集成だと主張した。すなわち、比較的『ミシュナー』から独立した作品であると評価したのである。しかし、これはその場しのぎの議論にすぎない。

著者は、上の研究者たちのように、『トセフタ』と『ミシュナー』との関係性を全体として総合的に評価することは不可能であり、あくまでもマセヘットごとに特徴をつかんでいくしかないと述べている。著者によれば、「テルモット」では『トセフタ』は頻繁に『ミシュナー』を利用している一方で、『ミシュナー』は『トセフタ』に負うところはない。「スッコート」では、『トセフタ』は『ミシュナー』抜きでは解釈しがたいが、「イェバモット」では『ミシュナー』は明らかに『トセフタ』を想定していない。こうした観察は、『トセフタ』が『ミシュナー』に直接依拠しているというより、共通の素材があったことを示唆する。J. Neusnerは、「トホロット」において『トセフタ』は確かに『ミシュナー』の補足として理解されるが、「コダシーム」において『トセフタ』の議論は『ミシュナー』から独立している。こうした議論を重ねていくと、マセヘットごとの議論ですら大雑把に過ぎるかもしれない。

『トセフタ』とタルムードとの関係は、以下の4点が確実に言えることである:
  1. タルムードにおける『トセフタ』からの引用と言えるのは、「ヨマ」70aであるが、似た文書からの引用かもしれない。
  2. タルムード中の多くのバライタは『トセフタ』に一致する。
  3. バライタの中には、意味上は近いが言い回しは異なるものがある。
  4. タルムード中のラビたちは、『トセフタ』に親しんでいなければ出てこない解決を議論している。
こうした観察を受けて、J.N. Epsteinによれば、タルムードは『トセフタ』を別の仕方で知っていたという。『バビロニア・タルムード』のバライタはやや今日の『トセフタ』とは異なっているが、『パレスチナ・タルムード』のそれは『トセフタ』とかなり近いため、直接の関係性があるかもしれない。

一方で、Ch. Albeckによれば、タルムードのバライタが頻繁に『トセフタ』の並行箇所から外れ、また引用しそこなっているのは、タルムードの編纂者たちが『トセフタ』を知らなかったからだという。その代わりに、編纂者たちは、『トセフタ』のもととなるソースから引用したのだった。

B. De Vriesはこれらの中間の意見として、タルムードの議論における『トセフタ』の無視は、『トセフタ』への無知を意味しないと主張した。Y. Elmanは、「ペサヒーム」の研究を基に、『バビロニア・タルムード』にある『トセフタ』に似たバライタの多くは、『トセフタ』とは別に独立して受け取られたものであり、緩やかな繋がりはあるが、別の作品だと考えた。これはAlbeckの議論に近い。

『トセフタ』に関する議論は、一般的に受け入れられているものが多くない。バライタと『トセフタ』との文言が異なるのは、前者が自由に引用したからかもしれないし、直接の引用ではなく共通のソースからの引用だからかもしれない。研究史における権威であるJ. Neusnerは、『トセフタ』とは『ミシュナー』における法規の成立の歴史とは何の関係もない、『ミシュナー』以後の文書だと主張している。彼の意見も、年代によって異なるが、『トセフタ』の編纂はおそらく3世紀のアモライーム期、すなわち『ミシュナー』が完成したあとであり、かつ『パレスチナ・タルムード』よりは前のことだったと結論付けている。『ミシュナー』完成前に形成されたのは、ごくわずかな部分に過ぎない。言語的な検証から、編纂された場所はほぼ間違いなくパレスチナである。

2017年4月3日月曜日

ミシュナーについて Strack and Stemberger, "The Mishnah"

  • H.L. Strack and Günter Stemberger, Introduction to the Talmud and Midrash (2nd ed.; Minneapolis: Fortress Press, 1996), pp. 108-48.
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「ミシュナー」とは、「学び」あるは口伝による「指導」を意味する語である。こうした一般的な文脈では、第一に、聖書テクストの解釈としてのミドラッシュ、第二に、聖書から独立して形成された法令としてのハラホット、そして第三に、非ハラハー的資料であるアガドットを指す。より具体的には、タナイームたちによって作られた宗教法を集めた文集で、ラビ・ユダ・ハナスィの手になるものを指す。教父たちがこれをデウテローシスと訳すのは、「第二のもの」という意味もあるからである。

『ミシュナー』の構成としては、6つのセデル(orders)でできており、それぞれのセデルにはマセヘット(tractates)に、それぞれのマセヘットはペレク(chapters)に、そしてそれぞれのペレクはハラホット(laws)あるいはミシュナヨットに分かれている。6つのセデルに分かれるという構造とそれぞれの名前は、『バビロニア・タルムード』「ケトゥボット」103bにも出てくるとおり、タルムード時代にはできあがっていたが、その順番はさまざまだった。マセヘットは全部で63あるが、3つの「バボット」が一つであり、また「マッコート」が「サンヘドリン」とくっついていたとすると、元来は60だったと考えられる。

あるマセヘットがどのセデルに割り当てられているかについては、通常であればそこで扱われているテーマの繋がりから理解することができるが、「ベラホット」、「ナズィール」、「エドゥヨット」、そして「アボット」に関しては説明がつきづらい。テーマ的なつながりでない場合には、法的ミドラッシュからの影響や、聖書の節の文脈から理解することもできる。『ミシュナー』の構成に、完全な一貫性や統一性を求めることは、その本質から見て期待できない。とはいえ、『ミシュナー』における資料編成の違いからは、そのもともとの資料や伝承の歴史などを分析することができる。

『ミシュナー』の起源については、987年に書かれたガオン・シェリラの手紙が参照される。これはカイロの会衆に対するガオンからのレスポンサである。ガオンによる『ミシュナー』の起源理解は、以下のようにまとめられる:
  • ラビ・ユダが『ミシュナー』を編纂した。
  • 「ウクツィン」や「エドゥヨット」のような彼以前に存在したマセヘットには、わずかな補足を施した。
  • ラビ・ユダの主たる資料はラビ・メイールのミシュナーである。
  • ラビ・メイールは師のラビ・アキバのミシュナーに基づいている。
  • ラビ・アキバは聖書時代である大シナゴーグに遡る伝承に基づいている。
  • これらの教えはすべて一致していたが、ヒレルとシャマイの時代になると異なる意見が出てきたので、文書としての『ミシュナー』が必要になった。
ユダヤ教の外部にも、これらの理解を支持する記述がある。エピファニオスによると、ユダヤ人たちの間には4つの伝承(デウテローシス)があった。第一に、モーセによるもの、第二に、ラビ・アキバによるもの、第三に、アッダあるいはユダによるもの、そして第四に、ハスモン人の息子たちによるもの、である。

『ミシュナー』と聖書解釈。口伝律法の起源に関しては、最初から口伝と成文とが共にあった(のであるから、法規はそもそも聖書由来ではない)という理解と、口伝は成文に由来する(のであるから、法規は聖書に由来するのだ)という理解とがある。N. Krochman, Z. Frankel, J. Bruell, D. Hoffmannらは、ガオン・シェリラと同様に、後者の見解を取った。J.Z. Lauterbachは、聖書に依拠するミドラッシュ的方法論に続いて、マカベア時代になると、聖書に依拠しないミシュナー的方法論が出てきたと考えた。一方で、Halevy, G. Aicher, S. Zeitlinらは、法規はそもそも聖書由来でないので、ミシュナー的方法論の方がミドラッシュ的方法論より先に出てきたと主張した。J.N. EpsteinやCh. Albeckらは中道を取り、ミシュナー的方法論とミドラッシュ的方法論とは共に存在したと主張した。

口伝律法と成文律法との歴史的な関係性を論ずることは、実際には不可能である。『ミシュナー』から分かることは、律法には三つのグループ――第一に、聖書に由来するもの、第二に、聖書から独立しているもの、そして第三に、もともと聖書から独立してできたが、のちにそれと結び合ったもの――があるということである。『ミシュナー』にはそもそも、ほとんど聖書からの引用は見られない。見られる場合も、後代の不可である可能性が高い。すなわち、概して『ミシュナー』は聖書から独立して法規を作り出してきた。

『ミシュナー』の予備的段階はどのようなものだったか。ガオン・シェリラは、ラビ・ユダ以前に「エドゥヨット」と「ウクツィン」があったことを報告している。J.N. Epsteinは、「シェカリーム」、「タミッド」、「ミドット」、「ヨマ」などは第二神殿時代から少しあとにかけて、すでに原型が存在したと主張している。これは、D. HoffmanやL. Ginzbergらによる、内容的・言語的な研究に従ったものである。これに対し、J. Neusnerは、後70年以前に『ミシュナー』が形成されていたという見解を否定的に捉えている。Ch. Albeckは、「エドゥヨット」に見られる、他のマセヘットにはない特殊性(素材の並べ方や伝承の仕方)から、「エドゥヨット」が最初期にできたものだと主張した。

ラビ・ユダ以前の段階におけるラビ・アキバの重要性は、皆が一致して認めている。Epsteinによると、ラビ・アキバが『ミシュナー』を作ったとまでは言えないが、多くの素材を提供したと認めている。同様に、その弟子であるラビ・メイールのミシュナーもまた、ラビ・ユダの『ミシュナー』の基礎になっている。こうしたことから、我々は『ミシュナー』の予備的段階に、比較的できあがった原型があったことを想像することができるが、それがそのまま伝わって今の『ミシュナー』になったとは言えない。

『ミシュナー』の編集は、伝統的にはラビ・ユダの手になるものとされているが、現在の『ミシュナー』には、その原型に多くの付加がつけられている。それは、ラビ・ユダの見解がほかの見解と比較されていたり、ラビ・ユダ以降の教師たちの見解が収められていることから分かる。これらは一般的に、『トセフタ』、法的ミドラッシュ、バライタ、そして『ミシュナー』に関するアモライームの義論などからの付加だと考えられる。いうなれば、ラビ・ユダは『ミシュナー』の編集過程における一人の主要な人物にすぎない。

『ミシュナー』のジャンル。『ミシュナー』中の誰のものか分からない見解は、しばしばラビ・ユダの見解とは異なることが多い。ラビ・ユダはなぜ自分と異なる見解を収録したのだろうか。E.Z. Melammedは、『ミシュナー』がラビ・ユダの学派の個人的な論集だからだと説明した。しかし、『ミシュナー』はそうした寄せ集めの文書なのだろうか。この問いに対して、三つの回答がある:

第一に、Ch. Albeckは、『ミシュナー』とは純粋に学問的な論集(academically oriented collection)であると主張した。すなわち、編集者は素材を集め、最も重要なものを明らかにし、そうすることで折衷的なテクストを作り上げたのである。その際に、彼はテクストを改変したり自分の見解を差し挟んだりはしなかった。編集者の目的は、実用的な法解釈を作ることではなく、目の前にある素材に手を加えずに提供することだった。『ミシュナー』にしばしば見られる反復表現、内部での矛盾などは、論集であるがゆえに自然なことである。しかし、単なる寄せ集めの論集など、当時必要とされたのかという疑問は残る。

第二に、A. Goldbergは、『ミシュナー』とは教育的な基準に基づいてデザインされた教則本(teaching manual)だと主張した。編集者の目的は、そこで扱われている法規が受け入れられたものであろうとなかろうと、学院のために公式な教則本を作ることだった。教則本として、編集者は自分の見解を入れたりはしなかった。教則本は法典のような厳格さが求められないので、『ミシュナー』にしばしば見られる論理的な瑕瑾も問題にならない。しかも教材として反復表現を用いることもごく自然である。

そして第三に、J.N. Epsteinは、『ミシュナー』とは現行の法規の代表的な判例を含む法典(legal canon)だと主張した。編集者としてのラビ・ユダは、既存の法規を改変し、付加を加え、削除し、検証し、修正したが、自分自身の見解よりは、大多数の見解を採用した。法典として、ラビ・ユダは自らの見解と異なっているものも含まなければならなかったのである。しかしながら、現代的な視点からは、『ミシュナー』は法典と言うにはあまりにも多くの矛盾を含んでいる。

これらのどれか一つを選ぶことはできないが、ラビ・ユダは『ミシュナー』を編纂することで、ユダヤ教を一つに結ぶことを目指していたと言えるだろう。

『ミシュナー』のテクスト。『ミシュナー』の出版は、公式な文書としてというよりも、いくつかのセクションを含む非公式のコピーが出回ったと考えるべきである。3世紀に『ミシュナー』のテクストがある程度固定されたあとでも、さまざまな付加が施された。文献学的には、パレスチナ型とバビロニア型があり、独立した『ミシュナー』写本はどれもパレスチナ型である。『パレスチナ・タルムード』の写本は『ミシュナー』抜きで伝えられ、『バビロニア・タルムード』は『ミシュナー』付きで伝えられてきた。